愛しのスタビライザー

※高専時代。夏油視点。

 

 

「ナマエ」
「いやだ」
「まだ何も言ってないだろう」
「言わなくてもわかるもん。やだもん」

子供じみた口調で言って、ナマエはぷいと顔を背けた。ベッドに横向きに腰掛けた彼女を見下ろす形になった私は、そのふくふくと膨れた白い頬を「大福みたいだな」なんて思いながら眺めていた。

夏の盛りだというのに、ナマエは真っ黒なスウェットのズボンを履いて額に薄く汗を浮かべている。上は白いTシャツ一枚。ひどくアンバランスだ。
私はテーブルの上からエアコンのリモコンを勝手に取り上げ、設定温度をふたつばかり下げた。軽快な電子音が鳴り、命令を下されたエアコンが唸りを上げる。ナマエは相変わらずむっつりと押し黙ったまま、何もない壁を睨んでいた。

「暑いなら、短パンになったらどうかな」
「……、……」
「確かクローゼットの引出しの一番下にしまっていたよね。出してあげようか」
「い、いらない」

あまり迫力のない腕組みをした彼女の姿からは、それでもこの場から一ミリたりとも動くまいという固い意志がひしひしと伝わってくる。

こうなったときのナマエの扱い方はよく心得ていた。彼女は実に単純明快な女の子であるので、宥めすかして言いくるめることはもちろん、ひたすらに甘やかして機嫌を取るのだって簡単だし、そして不思議とそのどちらも面倒に感じたことがなかった。むしろそうやってコロコロと転がるように容易く態度を軟化させてしまうナマエを可愛く思うあまり、わざと意地悪を言ってそっぽを向かせたくなるときもあるくらいだ。

そういうわけなので、いつもならちょうどこの辺りが彼女のご機嫌を直しにかかる頃合いである。だが、今回ばかりはそう簡単に折れてやるわけにいかなかった。

「ナマエ」

もう一度、さっきよりもはっきりと呼んでやれば、細い肩がぴくりと震えた。その顔を覗き込むようにベッド脇にしゃがんで、彼女と目線を合わせる。ナマエは必死にこちらを見ないようしているつもりみたいだが、丸い瞳はすでにふらふらと揺れ、いまにもばっちり目が合ってしまいそうだった。あまりのいじらしさについ口元が弛む。ここで笑ってはいけない。つとめて優しく、紳士的に、彼女から話してくれるのを待つのだ。

「秘密にされると悲しいな」
「……だって夏油くん、絶対怒るもん」
「怒らないから、言ってごらん」
「やだ」
「ね、いい子だから」
「……」
「……」
「……いだだだだ待って待って!」

私は片手で彼女の右足首をやんわりと掴んだ。分厚いスウェット生地越しにも熱を帯びているとわかるそこに少しばかり力を込めると、ナマエの口から「言う! 言います!!」と悲鳴じみた声が上がる。

「やっぱり。怪我してるんだろう」

溜息とともに手を緩めた私を、彼女は叱られた子犬のような目で見つめた。ほら怒ったじゃん、とでも言いたげな表情である。そんな情けない顔をするくらいなら最初からすぐバレる嘘などつかなければいいのだが、まさかすぐバレるだなんて思ってもいないのが彼女の少しばかなところであり、愛すべきところでもあった。

今朝から、なんとなくナマエの様子がおかしいことには気づいていた。暑がりのくせに頑なに冬用のスウェットを履いているし、足取りも何だか覚束ない。悟に訊いても「そうかあ? ねぼけてんじゃね」などとふざけた返答しか得られなかったが、私には確信に近いものがあった。伊達にこの子の彼氏を名乗っているわけではないのだ。

「で?」
「……捻挫、しました……」
「いつ、どこで」
「昨日の夜の任務で、雨で足元悪くて、転んで……」

ちょっと滑っただけで、とか、暗かったから、とかゴニョゴニョとした言い訳が続く。転んだことがよほど恥ずかしいようだが、呑気なものだった。こっちは呪霊にやられたわけではないとわかっただけで、随分ほっとしているというのに。これが呪いの類だったなら、いますぐにでも縛り上げられ硝子の出張先の北海道まで連れて行かれるのだということを、彼女は多分わかっていない。

はあ、と安堵の息が漏れる。やっぱり怒られたと思っているらしいナマエは、身を守る小動物のようにきゅうと肩を窄めた。

「ごめんなさい……」
「どうして正直に言わないの」
「だって、」

揃えた膝の上で強く拳を握って、ナマエは俯いた。これは泣くのを堪えているときの癖。少し強く言いすぎただろうかとその前髪に手を伸ばしかけたところで、あした、と蚊の鳴くような声が聞こえて動きを止めた。

「……明日、デート、行けなくなっちゃうと思っ、て……」

は、と口を開けた。
明日の土曜日、お互いに任務もなくて、久しぶりに少し遠出をしようと計画していた。行き先は隣県にある人気のテーマパークだ。半月も前から決めていたことだった。

正直に言えば、私はそのテーマパークには微塵も興味がない。さらに率直に願望だけを述べるなら、わざわざそんなところへ人混みに揉まれに行くより、近場にホテルでも取って朝から晩まで二人きりでイチャイチャして過ごすほうがよっぽどよかった。実際、都内のちょっといいホテルやディナーの下調べを始めてもいたし、自分のプランで彼女を喜ばせる自信も、まあそこそこ程度にはあった。

それでも、それをナマエに提案することすらしなかったのは、大好きな人魚のお姫様のイベントが始まるのだと目を輝かせる彼女を見てしまったからだ。パレードがどうの、ポップコーンが、限定のお土産がどうたら、とはしゃぐ姿を前にしたら、自分のちっぽけな下心などすぐにどこかへ行ってしまった。実を言うと前売り券だって用意してある。ナマエには、内緒だけれど。

「夏油くんお願い。わたし大丈夫だから、ちゃんと歩けるから、だから明日は」
「それは駄目だよナマエ」
「……ねえ、おねがい……」
「そんな可愛い顔しても駄目」

いよいよ泣き出しそうに顔を歪めたナマエの手を取り、宥めるように握る。真っ白な握り拳はやっぱりいつもよりも熱くて、少しだけ震えていた。

「あのね、ナマエ」

自分の心の綺麗な部分だけをどうにか掻き集めて作ったような声を、その小さな耳に注ぎ込む。悟や硝子が聞いていたらさぞ気味悪がったことだろう。最悪、録音されて一生の笑いのネタにされるまである。でもいまはそんなことどうだってよくて、ただただ目の前の彼女に向けて、丁寧に、壊さぬように、そっと語りかけた。

「遊園地は明日じゃなくても行ける。でも、君の体は替えがきかないんだよ」

わかるよね、と重ねれば、ナマエはゆるゆると、でもはっきりわかる仕草で頷いた。彼女の手を握っていた指を解き、再び足首に触れる。裾を捲り上げると、赤く腫れた患部が露わになった。

「さっきは、痛くしてごめん」
「……ううん、平気」

ポケットに捻じ込んでいた湿布薬を引っ張り出す。急いで医務室から掠めてきたせいでくしゃくしゃになったそれを無理やり伸ばし、裏面の薄いビニールを剥がし取った。ぺらぺらと揺れ、ペタペタとくっつくせいでうまく形を整えられない。ようやっとナマエの足首に貼り付けたときには、至る所に皺が寄ってしまっていた。

「……ふふ、へたっぴだね」
「うるさいな」
「夏油くんのそういうところ、好き」

はにかむように笑って、ナマエはしゃがんだ私の首に両手を回して抱きついた。すっかり覚えてしまったナマエのお気に入りのシャンプーの香りに混じって、少しの汗のにおいがする。薄い背中に手のひらを這わせ、ゆっくりと撫でてやると、ナマエは私の耳の後ろに鼻先を埋めたまま、ほうっと柔らかな息を吐いた。

「……遊園地、また一緒に行ってくれる……?」
「もちろん」
「……ポップコーン、全種類食べたい」
「いいよ」
「手、繋いで歩きたいし」
「うん」
「動物の耳のカチューシャも、お揃いでつけたい」
「……、……うん、いいよ」
「あとね、パレードも、最後の花火も……夏油くんと見たい」

全部、夏油くんとがいいの。

くぐもった声が耳をくすぐる。たまらずその細い体を抱き寄せた。ナマエを抱えてベッドに倒れ込み、目をぱちぱちと瞬かせる彼女の上に覆い被さる。汗に濡れた前髪の隙間から覗く額が愛しい。どこかへ行ったはずの下心はいつの間にかすっかり戻ってきている。白い指に自分のそれを絡ませる傍ら、反対の手でエアコンの設定温度をさらにふたつ下げた。

「……うん? あの、夏油くん」
「何かな」
「わたし、捻挫してるんだけど……?」
「うん。だからナマエは何もしなくていいよ」
「えっ、ちょ」

大丈夫、とびきり優しくするから。そう言い終えたのが先か、彼女の首筋に噛みついたのが先か、もう覚えていない。

愛しのスタビライザー


好きな女の子はぐずぐずに甘やかすタイプの夏油さん。
Title by 誰花