君が知らない話をしようか

※twitter再録
※高専時代

 

 

 

「もうだめ……暑すぎ……」

倒れ込んだ背中に、じわりとアスファルトの熱が染みてくる。木陰なのにちっとも涼しくない。汗をたっぷり含んだTシャツも、額に貼り付く前髪も、丹念に日焼け止めを塗り込んだ首筋を伝う大粒の汗も、すべてが鬱陶しかった。この炎天下に外で体術訓練だなんて、うちの担任は鬼か何かだろうか。とても正気の沙汰とは思えない。トドメとばかりに、灼熱のグラウンドを渡ってきた生ぬるい風が頬を撫でて、私はたまらず顔を顰めた。

「あっっっついなあもう!!」

誰にともなく悪態をついて、寝転がったままスニーカーの足で地団駄を踏んだ。今日ばかりは舌打ちのひとつやふたつ許してほしい。涼しくなったらまたいい子にするので。

「こらこら、暴れるともっと暑くなるよ」

なんとか暑さをやり過ごそうとうんうん唸っていると、頭上から小さな笑い声が降ってきた。

「夏油さん」
「やあ。お疲れ様」

木漏れ日を背負ったその人は、長い脚を畳んで私の頭の上にしゃがみ込んだ。切長の黒い瞳がきゅっと細くなる。何かを企んでいるときの顔だ、と思った直後、首筋にひやりと冷たい感触があって私は竦み上がった。

「ひえッ……!」
「これあげるから、舌打ちはやめな」
「つめっ、冷た……!」

慌てて跳ね起きた私の手にペットボトルを握らせて、夏油さんは軽快に笑った。普段は優等生ぶっているこの人が、その実こういう悪戯が大好きなことを私はよく知っている。

「よく冷えてるだろう?」
「ほんとびっくりするくらい冷えてますね……」
「教室から見ていて、あんまり暑そうだったから」

先生には内緒だよ。おどけた振りで唇に人差し指を立てる彼は、きっと自習を抜け出してきたのだろう。首を捻って背後の校舎を振り返ると、二年生の教室の窓から真っ白な髪が覗いていた。『サ・ボ・る・な』。ニヤニヤしながら口の動きだけで伝えてくる五条さんを無視して、くるりと正面に向き直る。残念だけれど、いまは構ってあげられない。
夏油さんにお礼を述べてから、手元の固いキャップを思い切りひねった。夏の青空に抜けるように、プシュッという小気味よい音が響く。一口含むと、舌の上でしゅわしゅわと泡が弾けて、微かな柑橘の香りが鼻先を掠めた。

「……これ、五条さんだったら絶対めちゃくちゃに振ってから渡してきますよね」
「あいつは小学生だからね」
「夏油さんは優しいですね」
「普通だよ」

普通。普通かあ。じっと見上げると、いつも通りの涼しげな微笑みが返ってきた。夏油さんにとっては、教室の窓から見えただけの後輩のために、わざわざ自習を抜け出して差し入れを持ってきてくれることも、普通なのだろうか。それが私じゃなくて、七海でも、灰原でも、同じようにしたのだろうか。
――きっとそうなんだろうな、と思う。この人はそういう人だ。彼がそうすべきだと思ったら、相手が誰であっても、分け隔てなく同じだけのものを与えるのだ。

初めて出会ったときから、夏油さんは優しかった。一般家庭育ちで右も左もわからなかったヒヨコみたいな私に、呪術師の何たるかを教えてくれたのは夏油さんだ。座学然り、体術然り、呪力操作然り。この前のテストなんか、夏油さんのおかげで乗り切ったと言っても過言ではない。あまつさえ、なんとか赤点を逃れたことを報告したときには、ご褒美だよなんて言って美味しいクッキーをくれたりもした。もちろん任務中のさりげないフォローだってお手の物だ。

最初は、そりゃあ舞い上がった。私だって青春真っ只中の乙女なのだ、多少は夢を見たりもする。でもそれはほんの束の間のことで、すぐに気がついてしまった。どうやら彼は誰にでも同じように優しいらしい。その証拠に、同期の灰原なんかはすっかり彼に懐いてしまっていた。それが私にはちょっとだけ、だいぶ、かなり、面白くないのだった。

「……私だけだったらよかったのになあ」
「ん?」
「ううん、独り言です」

ぽつりと呟いた言葉は、蝉の声に紛れて消えた。私の小さな欲望も、夏の暑さに溶けて無くなってしまえばいいのだ。他人が求めるものを求めるだけ与えてくれるこの人は、けれども彼の中の一等大事な部分だけは、決して誰にも触れさせないみたいだった。それが悔しくて、少し寂しい。胸につかえた何かを洗い流すように、もう一度ペットボトルに口をつけた。

「――君だけだよ、って言ったら、信じてくれるかい?」

不意にこちらを向いた夏油さんの声は、やけにはっきりと耳に届いた。サイダーを含んだ口をぱっかり開けてしまいそうになって、慌てて唇を結ぶ。待って。こんなにクリアな幻聴ってある? 私の頭、暑さでおかしくなった?

「ん、え」
「独り言だよ」

夏油さんは人好きのする顔でにこりと笑う。飲み下しきれなかったサイダーが唇の端から零れて、私の首筋を濡らした。それを拭うように、無骨な指先が熱い皮膚の上を這う。無邪気な笑顔と裏腹にその仕草はひどく艶かしくて、目の前がチカチカした。またからかわれているのかな。黒い瞳を見つめ返しても、その奥にある何かを掴むことができない。

「君が私を優しいと言う何もかもは、ただの下心だ」
「したごころ」
「嘘だと思うなら、いまここで証明してあげてもいいよ」

心臓がどくどくと早鐘を打ち始める。頭の中が沸騰しているみたいに、うまく考えられない。下心って、証明って、なに。 ぴくりとも動けなくなった私を見て、夏油さんはまた笑った。さっきまでの朗らかな笑顔とは全然違う。燦々と輝く太陽の下にはおよそ似つかわしくない、真っ黒な欲を孕んだ瞳だった。

「……あ、の。げとうさ、」
「全部、独り言さ」

震える喉からなんとか声を絞り出せば、それすらも封じるように唇を撫でられる。握りしめたペットボトルがすっかりぬるくなっていることにも気がつかないくらい、触れた指先は熱かった。

「――さて。どうしたものかな」

キスのひとつでわかってもらえたらいいんだけど。困った素振りでうそぶく彼をどうやら大きく見誤っていたらしいと気がついても、もはやすべてが手遅れだった。

君が知らない話をしようか


ワンライに投稿したお話を加筆修正したものです。

Title by 大佐