アンビバレンツ

ぐぎゅるるる。

足を踏み出した瞬間、なんとも情けない音が響いて、私はぎくりと動きを止めた。
橙色に染まりゆく秋晴れの空の下、高専の石段の一段目に片足を乗せたばかりだった。二段上から鋭い視線が落ちてくる。そんなに睨まなくたっていいじゃない。

「……えーと。お、お腹が空きましたね……?」
「空かねえよさっき蕎麦食ったばっかだろ」
「さっきって、もう三時間も前じゃん!」
「お前は一日に何回食うんだよ」
「え。いち、にー、さん、よん……」
「……もういい」

指折り数える私に大きく溜息をついて、伏黒恵は再び階段を上り始めた。自分で訊いたくせに。

「ねーコンビニ行こうよー、いまならまだ引き返せるよ」
「行かねえ」
「なんで!」
「報告書」
「じゃあ食堂でやろ! 食べながら!」
「こんな時間に食ったら晩飯入らなくなるぞ」

お母さんみたいだ。思ったことをそのまま口に出したら、再び射殺すような目で見られた。

今日は朝から忙しかった。眠い目を擦りながら八時には高専を出て、立川で最初の任務。そこからなんと山梨まで飛ばされた。お昼ご飯は、急いでかきこんだ一杯の立ち食い蕎麦だけ。ならば帰りのサービスエリアでご当地グルメを楽しもうと自分を慰めて任務を頑張ったのに、車に乗って、次に目が覚めたらもう高専だった。あまりの爆睡具合に我ながら感心してしまう。

「うう……私の山梨グルメ……ぶどう、信玄餅、ほうとう、高原ソフトクリーム……」
「ブツブツうるせえ」
「うるせえって言った! 伏黒がうるせえって!」
「黙って歩け」
「……!!」

なんて言い草だろう。お腹を空かせた可哀想な同級生に向かって。サービスエリアでご当地ソフトを食べ損ねた私の気持ちがわかるのか伏黒よ。淡々と階段を上っていく背中に手を伸ばし、制服の裾をぐいっと引っ張る。出会ってからまだ半年くらいなのに、コイツまた背が伸びた気がする。生意気な。

「もう無理お腹空いた歩けない伏黒おんぶ!」
「するかふざけんな」
「おーんーぶー!!」
「くっつくな!」

二段の差を一気に詰めて追い縋ると、伏黒は大袈裟なまでの抵抗を見せた。節くれだった手で私の頭をがっちり押さえ、強引に引き剥がしてくる。くそ、やっぱり力では敵わない。お腹も空いててパワー半減だ。

「伏黒のけち!」
「いちいちめんどくせえこと言うな。置いてくぞ」

なす術もなく一歩後退した私を放って、伏黒は乱暴に制服を正すとまた二段先を上り始めた。さっきよりペースが早い。

「……虎杖はおんぶ、してくれるのに」

けれども私が低く呟いた途端、その歩みはぴたりと止まった。「はあ?」という声とともに振り返った顔には、いかにも不機嫌そうに深い皺が刻まれている。おお、美形が怒ると怖いな。怯みそうになるのをなんとかこらえ、私はふんと胸をそらして立った。

「虎杖はこないだの任務のとき、おんぶしてくれた!」
「それはお前が怪我したからだろ」
「そ、そうだけど、でもしてくれたもん」

言い張ると、伏黒はぎゅうっと唇を真一文字に結んで私を見下ろした。何か言いたげなその顔を負けじと見つめ返す。

この半年間、伏黒恵の同級生をやってきて、私はなんとなく気づいてしまった。伏黒は、どうやら私と距離を置きたいみたいだった。虎杖に対する態度にも野薔薇に対する態度にも感じないよそよそしさみたいなものが、伏黒と私の間にずっと横たわっている。私はそれがもどかしくって、なんとか飛び越えたいと思うのに、その方法がいまだに見つからないのだった。

だから時折、こうやって駄々をこねてみたり、強引に近づいてみたりして、あの手この手で伏黒の懐柔を試みている。私だって小さな子供じゃないんだし、本気でおんぶしてもらいたいなんて思っているわけじゃない。ただ伏黒に、うるせえとかくっつくなとか置いてくとか言われて突き放されるのが、なんだかちょっと、面白くないだけで。

「お、やっと帰ってきた! 二人ともお疲れー!」

不意に無邪気な明るい声がして、私たちは揃って石段の上を振り仰いだ。噂をすれば影がさす。奥から駆けてきた虎杖が、てっぺんでひらひらと手を振っていた。榛色の瞳が懐っこく細められ、夕映えにきらりと光る。相変わらずわんこみたいで可愛い。ただいま、と応えようとして、私ははっと目を瞠った。彼がもう片方の手に持っている、白くて丸くてふかふかの、あれは。

「虎杖、それ……それ……!」
「あ、肉まん? さっき釘崎とコンビニ行ってきてさ」
「コンビニ!!」

引き寄せられるように、私は残りの階段を一息で駆け上がった。ああコンビニ。近くて遠い私の魂のオアシス。そうだよねこの時期の肉まんは最高だよね、私もそういうのが食べたかったんだよ。あっという間に目の前にやってきた私を、虎杖はきょとんと見下ろした。肉まんのほかほかとした香りが鼻腔をくすぐって、またお腹が鳴りそうになる。

「もしかしてミョウジ、また腹減ってんの?」
「減ってる……」
「半分食う? 俺の食いかけだけど」
「いいの!? お、お金払う……!」
「いーよそんなん」

ん、と肉まんを差し出してくれる虎杖の笑顔に後光がさして見える。これが博愛というものだろうか。呪術界をどれだけ探し回っても、きっとこんなに優しい人は見つからない。なんだか食い意地の張った自分が恥ずかしくなってきた。肉まんと虎杖の顔を三回見比べた後、控えめに口を開ける。ありがとう虎杖、この御恩は必ず返します。

「いただきま……、あ?」

しかし、想定していたジューシーなお肉の味は訪れなかった。目の前にあったはずの肉まんが忽然と消えている。は? なに? 私の肉まんは? 見れば、いつの間にか近寄ってきていた伏黒が、虎杖の手ごと肉まんを私の頭上高くまで持ち上げていた。見事なまでの“お預け”状態だった。

「ふ、伏黒……!?」

私は愕然としてその横顔を見上げた。どうしてそんな意地悪するの。私のことそんなに嫌いだったの? 肉まんも食べさせたくないくらい? 伏黒は終始無言で、難しそうに眉間に皺を寄せている。なんか言えよ。

「……あー、なるほどね」

数秒の沈黙を破ったのは虎杖だった。伏黒を見、それから私を見て、にっこりと頬を緩ませる。なにがなるほど? 私の肉まんは?

「ちょっとどういうこ、とっ!?」

抗議の声は、途中で裏返った。伏黒が両手でいきなり私の腰を掴んだかと思うと、米俵よろしく肩に担ぎ上げたのだ。唐突な浮遊感に目が回り、伏黒の背中にしがみつく。訳がわからなかった。

「そういうことな」
「そういうことだ」
「待ってなに二人で納得してんの!?」
「うるせえ」
「またうるせえって言った!!」

伏黒の顔は見えないけれど、だいぶ機嫌の悪そうな声をしていることだけはわかる。なのに私を降ろそうともしないまま、のっしのっしと大股で歩き始めた。ゆ、誘拐! 人攫い!

「ミョウジ」

呼ばれて顔を上げれば、虎杖が輝かしい笑顔で私たちを見送っていた。呑気に手を振ってないで助けてほしい。

「伏黒が、なんでも好きなもの奢ってくれるってさ!」

いやなんで!? ねえほんとになんなの!?

アンビバレンツ


そのまま購買まで連行され、菓子パンを買い与えられて大人しくなるクラスメイトの女の子。

Title by 大佐