藍に注ぐ

「恵の好きなものォ?」

しなやかなポニーテールが翻り、端整な顔がこちらを向いた。身の丈ほどもある呪具を携えた彼女は、激しい鍛錬の後だというのに汗ひとつ浮かべていない。対してその後ろをついていく私は、もう息も絶え絶えといった具合だった。今日の組手は十戦九敗一分。惨憺たる結果である。それでも、グラウンドの隅にへたり込みそうになる足腰に鞭打って彼女を追いかけてきたのには、理由があった。

「知らねーな」
「そんなあ……! 真希ちゃん伏黒くんと付き合い長いでしょ、好きな食べ物とか好きな色とか好きなおでんの具とか知らない!?」
「だから知らねーって。あいつ自分のことほとんど喋んねーじゃん」

だから困っているのだ。ぐっと唇を結んで真希ちゃんを見上げれば、「そんな顔してもなんも出てこねーよ」と額を小突かれた。最後の砦、陥落。がっくりと肩を落とした私に一瞥をくれて、ほねっこガムでもやっとけば、と真希ちゃんは冷たい。あのね真希ちゃん知っていますか、伏黒くんはわんこじゃないんですよ。

藍に注ぐ

一目惚れ、っていうやつだったのだと思う。

一年と少し前、寮の玄関前の自販機で、オレンジジュースを買うか四ツ矢サイダーを買うか延々と悩んでいた私の元に、伏黒恵くんは彗星の如く現れた。つんつんと跳ねた黒髪と、涼しげな切長の目元、ふてぶてしく結ばれた薄い唇。当時の彼はまだ中学三年生だったわけだけれど、すでに私より頭ひとつ高いところにあったその横顔はずいぶんと大人びて、そして、精緻な芸術品のように美しかった。

『……あの。買わないならどいてもらえますか』
『え!? す、すみません!!』

息をするのも忘れて彼を見つめていると、伏黒くんは至極億劫そうに口を開いた。淀みのない凛とした声だった。慌てて飛びすさった私には目もくれず、彼はさっさと缶コーヒーを買って、そのまま道場のほうへ歩いて行った。そんな、ろくでもない出会いだった。
その後すぐ合流した同級生たちに、『真希ちゃんにそっくりの男の子に会った』と言うと、彼の名前を教えてくれた。五条先生のツテで高専に出入りしているというその男の子が、来年、私たちの後輩になるらしいことも。

ふしぐろめぐみくん。その響きを何度反芻しただろう。口に出してみるだけでもこそばゆくて、目を見てちゃんと呼びかけられるようになるまでには何ヶ月もかかった。そうして気がついた頃には、大事な大事な、一年で最も重要と言っても過言ではない“その日”が、もう目前までやってきていたのだった。

 

「……ふーーーーっ……」

深く深く呼吸をする。そうしていないと、息をするのも忘れてしまいそうだった。“その日”――十二月二十二日、つまり伏黒くんの誕生日が、来てしまったのだ。

朝から、授業はまるで頭に入らなかった。そわそわと浮き足立つ私を、クラスメイトたちは容赦なく囃し立てる。「お、なんだついに告白するのか? 春か? 青春なのか?」「しゃけしゃけ」「ナマエにそんな度胸あるわけねーだろ」「なんだつまらん」「おかか〜」エトセトラエトセトラ。言いたい放題ってこういうことを言うんだと思う。
……確かに、確かに告白する勇気なんかないけど! けどこうしてプレゼントを用意できたことだけでも、褒めてくれていいんじゃないのかな! だってだーれもアドバイスしてくれないし買い物にも付き合ってくれなかったじゃない! そう文句を垂れれば、真希ちゃんは「こういうのは自分で選ぶから意味があるんだろ」ともっともらしいことを言ってニヤニヤ笑った。つまりみんなして私を観察して楽しんでいるのだ。極悪非道にも程がある。

「……はあ。緊張する……」

吐く息は白い。日も傾いた頃、私は寮の玄関前の階段に一人腰掛けて、伏黒くんの帰りを待っていた。寮内では誰に見られるかわかったものではない。またさっきみたいに揶揄われるのはごめんだった。ただでさえ、彼を前にしてちゃんと喋れるか心配なのに。

西の山の稜線に引っかかった太陽が、滲むような優しいオレンジ色の光を放っている。それを眺めながら、少しだけ体を傾けて、すぐ隣にある自販機にもたれかかった。朝からずっとそわそわしていて、なんだか疲れてしまった。
目を閉じると、低く微かに響くモーター音が妙に心を落ち着けてくれる。伏黒くんと初めて会った日のことを思い出した。あのときに比べたら、だいぶまともに話せるようになったな。最初の頃は仏頂面ばかりだったけど、たまに笑顔も見せてくれるようになったし、私も、ちょっとは先輩らしく……、…………、

「――ナマエさん?」

はっと顔を上げると、さっきまでそこにいなかったはずの男の子が、真上から私を覗き込んでいた。不思議な色の瞳をきゅっと細めて、訝しげな顔で……え!?

「ふっ……しぐろ、くん……!?」
「こんなとこで昼寝ですか」
「ね、寝てない! 寝てないから!」
「凍死しても知りませんよ」

ちがうからちょっと目を閉じてただけだから、ほんとに! 必死に釈明してみても、はいはい、と受け流されて終わる。最悪だ。外でホイホイ寝るようなはしたない女だと思われた。プレゼントを渡すどころではない。私の恋、さようなら。
あまりのことに言葉を失っていると、すぐ隣でゴトリと重い音がした。腰を屈めた伏黒くんが、自販機からミルクティーのペットボトルを取り出す。あ、オレンジのキャップ。あったかいやつ。と思ったのも束の間、頬にぴたりと熱が当たった。

「あう」
「風邪引きますよ」
「え、あ、ありがとう……!」

どうぞ、と促されるまま、私は小さなペットボトルをぎゅっと両手で握り込んだ。惜しげもなく伝わってくる温度に、かじかんだ指先がほろほろ溶けていく。ふ、と吐息のような音がして上を見れば、伏黒くんが小さく笑っていた。途端に恥ずかしさがせり上がってくる。

「ご、ごめんね、私、先輩なのに」
「別に、ナマエさんにはそういうの期待してないんで」
「そ、そっかあ……」
「で、こんなとこで何してたんですか?」

伏黒くんが不審に思うのも当然だった。もう暗くなるというのに、中にも入らずこんなところでぽつねんと座り込んでいるのだ。まさか本当にうたた寝を決め込んでいたわけでもない。

意を決して、薄く口を開く。やばい、声、裏返りそう。

「……まっ、てた。伏黒くんを」

膝の上に抱えていた紙袋を持ち直し、のろのろと立ち上がる。そうすると、思ったより近くに伏黒くんの顔があった。まっすぐに前を向くこともできない。袋から包みを取り出す。両手に持って、差し出す。たったそれだけなのに、彼に見つめられていると思うと、体が言うことを聞かない。

「……お誕生日、おめでとう……」

やっとの思いで伸ばした腕は、笑えるくらい震えていた。たまらない気持ちになる。いますぐこの包みをぐしゃぐしゃに丸めて、そこのゴミ箱に突っ込んで、ぜんぶ無かったことにしたい。心臓が破裂しそう頭が爆発しそう。消えてしまいたい。

「……ありがとうございます」
「あの、気に入らなかったらその、す、すてても、いいですので……あっ」

私が張った予防線など簡単に断ち切って、伏黒くんは躊躇いもなく包みを開いた。綺麗な化粧箱に並んで収まった一対のカップが現れる。白と黒の、色違いのマグカップ。この前の日曜日、ショッピングモールを半日も歩き回ってようやく選んだものだった。見つけた瞬間、伏黒くんの顔が浮かんだ。それはもう直感としか言いようがなかった。

二色のうち、どちらにするかはどうしても決められなかった。あの日、オレンジジュースとサイダーでずっと悩んでいたみたいに。
私はいつもそうだった。優柔不断で、回り道や寄り道ばかりして、何をするにも人より何倍も時間がかかってしまう。

――でも、だからこそきっと、まっすぐな強い目をした彼に惹かれたのだ。

「これ、」
「あ、あの、どっちの色も可愛くて選べなくて! ほら、伏黒くんの式神も白と黒の子たちだったでしょ!? あとは、その、もし彼女とかいたら、二人で使っても……いいし……っ」

堰を切ったように言葉が溢れる。こんなことが言いたいわけじゃなかった。もっとうまい台詞だって用意してた。練習もしたはずなのに、なんで。彼女、なんて、口にするだけで胸が痛い。だいたい他の女にもらったものを彼女と二人で使うわけないじゃん。ああもう私はどうしてこう、ちゃんとできないの。

「ナマエさん」
「うあ、はい!」

勢いよく顔を上げる。伏黒くんは、柔らかな眼差しで私を見ていた。ありふれた自分の名前までも、彼に呼ばれるとなんだか特別な意味を持つみたいに聞こえてしまう。冬の朝の空気のようにしんと澄み渡ったその声が好きだと、何度でも馬鹿みたいに思ってしまう。

「……ナマエさんて、ほんとわかりやすいですよね」

へ、と間抜けな声が漏れた。迷いなく差し出されたのは、白のマグカップだった。たったいま私が彼に贈ったふたつのカップのうちの、片方。伏黒くんの手元に残った黒のカップと、対になるはずの。

「――こっちは、ナマエさんが持っててください」

ぼそっと呟くように言った伏黒くんの顔を、唖然として見つめ返す。指先に冷たい陶器の肌が触れて、ひんやりと熱を奪った。

「え、…………え!?」
「返品不可なんで」
「ちょっ、え、待って!?」
「彼女と使ってもいいんですよね?」

カップを握らせた私の手を引きながら、伏黒くんは意地悪く唇を吊り上げた。言った、確かに言ったよ? でもそれは、だって。

「ちゃんとそばに置いてくださいね」

有無を言わさぬ口調に、ようやっと理解する。息を止めたままひとつ頷けば、彼はやっぱりおかしそうに笑った。

 

 


あんなん実質告白じゃね?と思いながら温かく見守っているクラスメイトたち。
伏黒くんお誕生日おめでとうございます。

Title by 誰花