くそくらえ純情

「伏黒くん。お、折り入って、お話があります」

数歩先を歩く黒髪に向かい、私は意を決して切り出した。高専の長い長い石段をようやく登り切り、さて報告書をまとめるために事務室へ向かおうかというところだった。
振り返った切長の双眸が、夕映えの中できらりと光を放つ。単独での任務を終えて戻ってきたばかりだというのに、その顔はいつもと変わらず涼やかだった。学生といってもさすがは二級術師だ。ちなみにしがない補助監督の私は、階段を上がってきただけでもうへとへとである。

浅い呼吸を繰り返す胸を押さえて、ひとつ大きく息をついた。見渡す限り私たち以外に人影はない。——よし。

「……ほ、本来なら、お伝えするべきではないのかもしれないのですが」

油断すると声が震えてしまいそうだ。私のただならぬ様子を察してか、伏黒くんは神妙な面持ちでこちらに向き直った。途端に心臓が喉元までせり上がってくるような錯覚に陥る。

「……ミョウジさん」
「あの! 迷惑でしたら、きちんと断ってくださいね! 本当に!」

年下の男の子に、しかもまだ学生の彼に、言うべきことではないのかもしれない。あまつさえ私のようなぺーぺーの新米の分際で、公私混同も甚だしいではないか。五条さんあたりに知れたらどうなるか、想像するだけで身の毛がよだつ。いろんな意味で。

けれど、もうこれ以上、自分の気持ちに嘘はつけない。これまで何度も伏黒くんの任務に同行してきて、ようやく今日、決心がついた。どうしてもこれだけは、伝えなければ。

「……伏黒くんを困らせるつもりはないんです。でも、これを言わなかったら私、きっと一生後悔すると思って。だから」

ジャケットの裾を握りしめる手にぐっと力を込める。まっすぐに伏黒くんの目を見つめると、その透き通った瞳が俄かに見開かれた。心なしか、色白の頬には赤みが差しているようにも見える。

(お、怒ってる……!?)

「ミョウジさん、俺、」
「伏黒くん!」

ええい、こうなったら一息に言ってしまえ!
破れかぶれになった私は、伏黒くんの言葉をぶった切るようにして、お腹の底から精一杯の声を絞り出した。

「お願いです、玉犬ちゃんに触らせてください!!」
「……は?」

 

「――うわあ!」

伏黒くんが掌印を結ぶと同時に現れた大きな黒い犬に、私は年甲斐もなく歓声を上げてしまった。伏黒くんの式神――玉犬は、周りをぴょんぴょこ跳ね回る不審な女に動じる様子もなく、澄ました顔でご主人の足元にぴたりと付き従っている。つやつやした毛並みと賢そうな眼差しは、どことなく伏黒くんを思わせた。

「ああ〜可愛いですねモフモフですねえ!」

しゃがみ込んで頭やら顎やら耳の後ろやらを撫でてやったら、玉犬は黄金色の瞳を気持ちよさそうに細めた。暴れることもなく、お行儀良く座ったまま豊かなしっぽをぱたぱたと左右に振っている。紛うことなきお利口さんである。

「ご主人様に似て、とってもいい子ですね!」
「……どうも」

玉犬の背中に指を埋めながら伏黒くんを見上げると、彼はなんともいえない表情を浮かべて眉間に皺を寄せた。もしかして気安く触りすぎただろうか。慌てて手を引っ込めた私の隣で、伏黒くんが同じように膝を折って屈み込む。骨張った手が玉犬の頭をぐりぐりと撫で回した。ずいぶん雑な仕草だったが、黒いしっぽは私のときとは比べ物にならないくらいの勢いでわっさわっさと揺れている。その様子がなんとも微笑ましくて、思わず頬が緩んだ。

「ふふ、元気なしっぽです」
「ミョウジさん、犬好きなんですか」
「はい! 昔、実家で飼っていたんですよ。大きくって、ふわふわの白い毛の、やんちゃな子でした」
「……へえ」
「この子を見ていたら、なんだか思い出してしまって」

物心つく前から、きょうだいのようにいつも一緒にいた白い犬。もう写真の中でしか会えないけれど、あの真摯な眼差しを思い出すと、いまだに言い様のない愛おしさが胸に溢れてくる。伏黒くんを見る玉犬の瞳の透明さは、あの子のそれによく似ていた。

無理を言ってすみません、と頭を下げると、伏黒くんは少しだけこちらを向いた後で、またすぐに玉犬に視線を戻した。

「別に、これくらい大したことないです」
「……怒ってないです?」
「怒ってません。拗ねてはいますけど」
「拗ね……?」

どうして伏黒くんが拗ねるのだろう。ぽかんとする私をよそに、伏黒くんはすっくと立ち上がる。

「ミョウジさん」
「はい」
「……今度、散歩、行きますか。一緒に」
「いいんですか!?」

瞬間、私はロケットもかくやという勢いで飛び上がった。頭に浮かんでいた疑問符などは空の彼方だ。玉犬の耳がぴくりと跳ねる。驚かせてごめんよ。

「式神もお散歩するんですか!」
「まあ……」

ストレスとか溜まるものなのかな。その辺の事情に通じていないのでよくわからないけれど、犬のお散歩という魅力的なお誘いの前では、もはやすべてがどうでもよかった。

「ぜひ! お願いします!」
「……とりあえず、近場の公園とかでもいいすか」
「はい! 海でも山でもどこへでも!」
「じゃあ、後で連絡するんで」

伏黒くんがスマホを取り出したので、私も自分のスマホのメッセージアプリを起動する。普段は仕事用の電話番号とメールアドレスでしかやり取りしないから、プライベートの連絡先を交換するのは初めてだ。アプリの友達一覧に伏黒くんの名前が加わったところで、私は重大なことに気がついた。

「……こういうのって、ぱ、パワハラになるんでしょうか……!?」
「は?」

だって、術師と補助監督という以前に彼は学生で私は社会人で、一応年上でもあるわけで。迷惑なら断ってくださいね、なんて言いはしたものの、真面目な伏黒くんのことだ、気を遣っている可能性だってある。
伏黒くんは長い睫毛を羽ばたかせてぱちりと瞬きをした後、「俺は別に、」と言いかけて口籠った。別に、なんですか。聞き返す前に、ぱっと目を逸らされる。

「……心配なら、そうならないような関係になればいいんじゃないですか」

片手で口元を覆うようにして、伏黒くんがぼそっと呟いた。任務外で一緒に出かけても、おかしくないような関係――それって、つまり。

「いいですね、それ!」
「は」
「それじゃあ、これからは犬友達ということでどうでしょうか」

ぽん、と手を打った私の顔を見つめて三秒。伏黒くんの薄い唇はみるみるへの字に曲がっていって、しまいには溜息を吐き出した。身体中の空気を入れ替えようとするみたいな特大のやつだ。

「えっ、ダメでした……?」
「……いや、もういいですそれで」

やけに諦観を含んだような声で言った後で、伏黒くんはおもむろに私の手を取った。私のそれより一回りは大きな手のひらに、一瞬にして爪の先まで丸ごと包み込まれる。うん?

「あの……?」
「気にしないでください。おまじないみたいなもんなんで」

ぎゅうと強く握られて、思わず肩が跳ねる。一体なんのおまじないだろうか。伏黒くんはそれ以上説明する気はさらさらないといった顔で、すんと取り澄ましている。そういう顔、きみの式神とそっくりですよ。

「……? お散歩、楽しみにしていますね」

私の手を握ったまま、伏黒くんはゆるりと目を細めて笑った。その瞳の奥に一瞬だけ不敵な光が散ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。

「――俺も、楽しみにしてます」

くそくらえ純情

「聞いたよナマエ〜、恵と公園デートしてるんだって? それってセクハラじゃない? 未成年者略取じゃなーい?」
「ご心配なく五条さん。伏黒くんと私は純然たるイヌトモですので!」
「何それ新しいソシャゲ?」

 

 

 


年上の補助監督さんに意識してもらいたい伏黒くんの純情が空回りしがちという話。

Title by 大佐