ぎゅーってしてね

『大丈夫だ、怖くない』

まだあどけない声で彼が言う。あたたかい手が私の背中を撫でた。労るように、宥めるように、何度も何度も。

『ここにいるから』

擦りむいた膝がじんじんと痛んで、泣き腫らした目は燃えるように熱かった。呪文みたいに繰り返されるその言葉だけが、妙にはっきりと耳を打った。

『お前が泣き止むまで、ここにいる』

それがあまりにも確かな声だったから、おんなじ背丈の肩口に額を押し付けて、私はまた少し泣いたのだ。

 

「……ん、」

眠りの底から浮かび上がるように、ふっと目が覚めた。薄暗い。いまどこにいるんだっけ。再び閉じようとする瞼を押しとどめ、何度か瞬きを繰り返す。ぼやけた視界に映る壁や家具は、見慣れた自分の部屋のそれよりもだいぶ殺風景だった。

「――起きたか?」

穏やかな声が降ってくる。頭だけで振り返ると、宵闇色の瞳がこちらを見ていた。ベッドの隅で丸まった私の隣に、恵が腰掛けている。呆れたような、少しだけ心配そうなその顔を見て、ようやく思い出した。ここ、恵の部屋だ。

「めぐみ……おはよう?」
「もう夕方」

恵の肩越しに窓から見えた空は、昼と夜の間の色をしていた。ずいぶん寝ていたみたいだ。ここに来たのは朝方六時くらいだった気がする。徹夜での任務を終えて高専に戻ってきて、なんだか無性に恵の顔が見たくなって、自分の部屋にも戻らず、そのまま。

「起きたなら、なんか食うか? つってもカップ麺くらいしかねえけど」
「ううん……大丈夫、ありがと」

まだ覚束ない口でふわふわと答える。恵の声音はやけに優しかった。いつもなら、こんな風に急に部屋に押しかけたりしたら怒るのに。のそのそと起き上がった私の顔を、恵はじっと見つめてくる。あんまり寝起きの顔をまじまじと見ないでほしいんだけどなあ。

「えっと、ごめんね。起こしてくれてよかったのに」

すっごい寝ちゃった、とおどけて笑ってみせても、恵はやっぱり黙っていた。切長の瞳が探るようにくるりと動くので、咄嗟に背を向ける。寝乱れたシャツの首元をわざと時間をかけて直した。制服のまま布団に潜り込もうとした私に恵が貸してくれたものだ。ぶかぶかの黒いTシャツからは、洗剤の香りと一緒に恵のにおいがした。

恵とは、お互いまだ小学生だった頃に出会った。引っ越した先がたまたま彼の家の近くで、たまたま同じクラスに編入して、たまたま同じモノが“視えた”。
といっても当時の私は、ソレが何なのかすら知らないでいた。呪力やら術式やらという大層なものが自分にも備わっているらしいとわかったのは、恵を介して五条先生の下についてからのことだ。

大して葛藤もせず、私は呪術の道に足を踏み入れた。物心ついてこの方、ずっと怯えていた得体の知れない化物からこの身を守る術があるのなら、それを求めることは当たり前のように思えた。

「――ナマエ、」

不意に手首を掴まれて顔を上げる。ずいぶんと近くに恵の瞳があって、胸の奥が波立った。昔から変わらない、強くて優しい光を持った目だ。この目に惹かれたのもまた、私にとってはごく自然なことだった。

「ナマエ」

もう一度、囁くように名前を呼んで、恵は一気に私を引き寄せた。いつの間にやらこんなに大きくなっちゃって、私の体なんてその両腕にすっぽりと収まってしまう。そのまま、恵は硬いおでこを私のそれに思いきりくっつけてきた。ごつん。痛いよ。ぎゅっと眉根を寄せた自分の顔が丸い瞳に映り込む。恵が薄く口を開くと、湿った吐息が私の唇を撫でた。

「恵、どうしたの」
「……任務でなんかあったのか」
「なんで?」
「帰ってきたとき、ひどい顔してた」
「ひどい顔って。失礼だなあ」

大袈裟に顔を顰めて見せると、恵も負けじと眉間に皺を寄せる。私が何かを誤魔化そうとするとき、恵はいつもこういう顔をした。私の考えることなんて、とうに見透かしているくせに。

「……なにもないよ。徹夜して疲れただけ」

答えると、私を抱く腕にまた少し力が込もった。

本当に、なにもおかしなことなんてないのだ。
呪詛師との交戦だった。追い詰めたけれど、死に物狂いで抵抗されて、捕まえきれなくて、殺した。一瞬でも遅れていたら、そこで死んだのは私だった。

ずっと、そんな世界を生きている。私も、恵も。

「……お前な、せめてもうちょいマシな言い訳考えろよ」

恵が大きく溜息をついた。ついでに舌打ちでも飛び出しそうな不機嫌な顔で、なのにその声はひどく優しいから始末に負えない。おかしくって涙が出そうだ。
広い背中に腕を回して、あらゆる隙間を埋めるようにぴったりとくっついた。寝起きの私と同じくらいに恵の体はあたたかかい。どちらのものかもわからない心臓の音が、二人の体を静かに震わせていた。このままとろけてひとつになれたらいいのに、なんて馬鹿みたいなことを思った。

「あのね、夢を見たよ」
「どんな」
「小学校の頃、私を追いかけ回してた呪霊を恵が祓ってくれたときの」

いまにして思えば、なんということはない蠅頭レベルの呪霊だったと思う。けれど、視えるだけでまだ何も知らなかった私には、逃げても逃げてもついてくる異形の姿はとんでもなく恐ろしかった。呪霊を引き連れて家に帰ることもできず、泣きべそをかいて逃げ回っていた私を、恵が助けてくれた。

いまよりもずっと小さな体でぎこちなく私を抱きしめて、『大丈夫、ここにいるから』って、何度も何度も言い聞かせて。

「恵、あのときみたいに、ぎゅってして」
「もうしてる」
「もっと」

縋り付いてねだれば、応えるようにぐっと腕の力が強まった。肺が押し潰されて息が詰まる。でも二度と離れたくないくらい心地いい。そのうち恵がどんどんこちらへ体重をかけてくるので、耐えきれなくなった私の体は後ろへ傾いた。恵は器用に私の頭を支えてゆっくりと着地させる。こんなところまで大人にならなくてもいいのに、と少しだけ恨めしく思う。

「めぐ、」

口を開こうとした私を、恵はなおもきつく抱きしめた。私の体に存在を刻み込もうとしているみたいな、荒い仕草だった。

「……恵、もしかしてちょっとその気になってる?」
「好きな女が自分の服着てベッドの上で甘えてきたら、ならねえほうがおかしいだろ」
「暴論」
「うるせ」

首筋に当たる黒髪がくすぐったくて笑ってしまった。顔を上げた恵の、欲に濡れた瞳を見つめ返して、私はやわく目を細めた。それを合図に熱い唇が降りてくる。ひとつ、ふたつとキスを重ねるうち、頭の芯がふにゃふにゃにふやけていく。悲しみも痛みも恐れも何もかもが遠ざかって、後に残るのは、じんと胸を焦がす愛しさだけだった。

これから先も、きっとそうだ。恵が抱きしめてくれたなら、大抵のことはなんとでもなってしまう。そんな単純な世界を、私は生きているのだ。

ぎゅってして
ぎゅってして
ぎゅーってしてね


Title by 失青