ネバーランドゆき水中列車

お題企画

※「プラットフォームで夜明け待ち」のその後のお話です
※伏黒くんが二十歳

 

 

 

「あ。誕生日おめでとう、恵」

駅のホームの丸時計がカチリとてっぺんを指した。
十二月二十二日――すなわち、隣に立つ後輩の誕生日だった。

「ハタチだねえ」
「……ありがとうございます」

振り仰ぐと、恵はくしゃりと鼻の頭に皺を寄せていた。やけに神妙な面持ちだ。せっかくの誕生日だというのに、そんな辛気臭い顔をするもんじゃないよ。

「ね、恵。褒めてほしいんだけど」
「何をですか」
「私、今日あんまり飲んでないでしょう」
「はあ」
「恵にちゃんと『おめでとう』言いたくて、我慢したんだよ」

なんたって私は慎み深い大人の女ですから。おどけて言ってやると、恵の口がぱかりと開く。あ、やっと皺が取れた。

「ねえ、えらい?」
「……そーですね」

私の顔を見つめて三秒後、そっぽを向いた彼の顔はやっぱり不機嫌そうだった。薄い唇からは白い息が細長く漏れて、すぐに冷たい空気に融けて消えた。

都心から少し離れたこの駅で、終電を待つ人影はまばらだ。なのに無意識なのか、みんな等間隔に並んで立っているのがおかしかった。思わず口元を綻ばせると、恵がまた怪訝な顔で見下ろしてくる。今日の夜空を映し取ったみたいなその深い青の瞳は、ずいぶんと高いところにあった。

この数年で、恵はまた背が伸びた。ハードな任務をこなしているせいか体つきもがっしりしてきて、見違えるほど大人になってしまった。あの夏の日に向かい合って素麺を食べた少年は、もう面影の中にしかいない。それを思うと私は、時折ひどく寂しい気持ちに襲われるのだった。

『――俺でよければ付き合いますよ、飯』

そんな他愛もない言葉が、何年も大事に抱え続けるくらい嬉しかったなんて、恵は知らないだろうな。

「恵ももうハタチかあ。なんかさみしいよ先輩は」

右手から最終列車が滑り込んでくる。軋むレールの音に紛れ込ませるように、私はなんでもない風で言った。たぶん、ちゃんと、普段の軽口みたいに聞こえていると思う。

「早く大人になれって言ったの自分じゃないですか」
「そうだっけ?」
「……やっぱ覚えてねーのかよ」

舌打ちでもしそうな口調だった。恵はたまーに口が悪いんだよなあ。そういうときは決まって子供みたいな顔をしていて、それを見ると私は少しだけ安心した。怒られるから本人には言わないけれど。
小さく笑みを作って、屋根の隙間に見える星空を仰ぐ。透き通った綺麗な夜だ。

「まあ、子の巣立ちを見守る親の気持ちっていうのかなあ」
「ナマエさん」

ホームの縁に向かって踏み出した私を、低い声が呼び止めた。あの頃よりも一段と深く響く、男の人の声だった。わざとゆっくり振り返ると、恵は挑むような顔をしてこちらを見ていた。寒さなんてものともしないと言いたげに堂々と、背筋をぴんと伸ばして。

「ナマエさん」

もう一度、今度は噛み締めるように、恵が私の名前を呼んだ。ふしゅう、と気の抜ける音がして電車のドアが開く。中はがらんとしていて、降りてくる人もない。白々と明るい蛍光灯の光を反射して、恵の切長の目が煌めいた。

「――好きです」

目が覚めるような一言だった。
聞き間違えようのないくらいはっきりと、凛とした声で恵は言った。

「俺は、ナマエさんのことがずっと、好きでした」

ずっと。言葉を重ねて、恵は大きな一歩で距離を詰めた。しんと澄まし返った顔で、でも決して目を逸らさない。

「え、あの、恵……?」
「乗らないんですか、電車」
「の、乗る、けど」
「乗らないなら、」

顔色ひとつ変えないまま、恵は躊躇なく手を伸ばして私の手を強く握った。冬風に晒されて冷え切った指先に、その体温はあまりにも熱かった。

「このまま、連れて帰りますけど」

言葉を失った私の背中で、バタンと大きな音を立てて電車のドアが閉まった。

ネバーランドゆき水中列車

恵に手を引かれるまま、自宅と反対方面の最終列車に乗って、気が付けば彼の住むマンションの扉の前に立っていた。恵は一言も喋らなかった。ただ、部屋の鍵をガチャリと回しながらこちらを見下ろすその顔には、はっきりと『逃げんなよ』と書かれていた。

「ナマエさん、コーヒー飲むと眠れない人でしたっけ」
「あ、う、でも、だい、大丈夫」
「何どもってんすか」

固いソファの上で身じろいでいると、目の前に大きなマグカップが置かれた。黒々と波打つ水面には、丸いシーリングライトを背景にした私の顔が映っている。自分でも笑ってしまうくらい情けない顔だった。当たり前だけれどこの部屋、どこもかしこも恵の匂いでいっぱいで、眩暈がしそうなのだ。

……落ち着こう。呪術師はいつだって冷静に戦況を見極めることが大事だ。所在ない両手で、私はまだ熱いコーヒーを口元へ運んだ。ふうふうと息を吹きかける振りをして、何度も深呼吸を繰り返す。そうしてようやくカップの淵に唇を寄せたとき、隣のスペースが大きく沈み込んで、恵が私の顔を覗き込んだ。

「……まあ、大人しく寝かせるつもりないですけど」
「!?」
「こぼしますよ」

――この子は、いったい何を。
危うくカップを取り落としそうになった私の手から、するりと熱が離れていく。雑にテーブルに戻されたコーヒーがちゃぷんと揺れて溢れた。こぼれちゃってるじゃん。そう言おうとして顔を上げたところで、私は再び言葉をなくしてしまった。

恵はコーヒーのことなんてこれっぽっちも見ていなかった。いつも穏やかに凪いでいたはずの藍色の瞳はいま、ぐらぐらと煮えたぎるような激しい感情を湛えて、ひたすらに私を捉えていた。

「め、めぐみ、待っ、」
「待つわけねーだろ、この状況で」

あ、まずい、と思う一瞬のうちに、私の体はソファに押し付けられていた。蛍光灯の明かりを背負ってもなお、恵の瞳は強く強く輝く。私の肩を掴む手も、鼻に触れる吐息も、燃えるように熱かった。

「いつもみたいに年上ぶってみせてくださいよ。ミョウジ先輩」
「な、なに、どういう意味……」
「できねーなら、なんでこんなとこまでノコノコついて来てんですか」

白い指で首筋を撫でられ、ひゅっと喉が鳴る。もう何年も聞いていなかった呼び名だった。記憶の中よりずっと低い声が、麻酔のように私の思考を鈍らせる。あの頃の恵と目の前の恵とが頭の中で交錯して、脳が揺さぶられるようだった。

「待って、私まだ頭が追いついてな、」
「俺がいつまでも無害な後輩でいると思ってたんなら、迂闊でしたね」

恵の肩を押し返していた手は簡単に絡め取られて、ざらついた布地に縫い付けられた。それだけで、どうしようもなく男女の力の差を感じてしまう。

——でも、迂闊、だったのかな、私は。

こちらを貫かんばかりの恵の目をじっと見つめ返す。覗き込んだら、歪んで映った自分の姿が微かに揺れた。

「……ムカつくんだよ、あんたのそういうところが」

押し殺すように言って、恵は私の鎖骨に触れた。言葉と裏腹に、その手は震えるほど優しかった。苦しげにきゅっと細められた瞳を目にして、たまらない気持ちになる。そんなにそっと扱わなくたって、簡単に壊れたりなんかしないのに。

「恵、」
「……なんすか」
「そ、その」
「嫌なら本気で逃げてくれないと、やめませんから」

ぐっと体重をかけられて息が詰まった。恵は瞳に滲んだ欲を隠しもしない。でもやっぱり怖いなんて思えなかった。だって私はもう知っている。恵が私を傷つけるようなことするはずがないんだって、疑いようもないくらいわかってしまっている。

ねえ恵。

私、最近ひとりでもちゃんとご飯食べるようになったよ。恵が口うるさく言うから、インスタントばっかりじゃなくてたまに自炊もしてるんだよ。夜更かししないで早く寝るようになったし、お酒の飲み方も覚えた。いつだって恵が見ていてくれるから、ひとりが寂しいなんて思わなくなったよ。

ぜんぶぜんぶ、恵のおかげなんだよ。ねえ、

「……好き……」

伝えたいことはたくさんあったはずなのに、口をついて出たのは、たったの二文字だった。

切長の目が大きく見開かれた。何か言われるその前に、私は手を伸ばして恵の頬に触れた。じんわりと熱を持つ肌をなだめるようにそっと撫でて、もう一度口を開く。でも、他の言葉なんか見つからなかった。

「好きだよ、」
「……は、?」
「好き」
「ナマエさん」
「恵が好き」
「わかった、から」

滑るように近づいてきた恵の唇は一瞬だけ止まって、それから躊躇いがちに私の唇に重なった。一秒だけの、もどかしいほど愛おしいキスだった。

「恵」
「……今度はなんだよ」

間近で見つめ合って吐息を絡める。不満げな声を漏らした恵の手を強く握り返すと、骨張った指がぴくりと跳ねた。

「こんな、どうしようもない女だけど、まだ一緒にいてくれる……?」
「今更すぎんだろそれ……」
「……うん。それからね、あのね、」

たまには傷つけたっていいよ。

世界中で彼にだけ聞こえる声で囁く。ぽかんと口を開けた恵の顔は傑作だ。小さく笑ってやったら、一拍置いて恵は盛大に溜息をついた。

「――もう、黙れよ」

そうして私の口を塞ぐ彼の唇は、やっぱり呆れるほどに優しかった。

 

 


全力で追い詰めたいけどやっぱり好きすぎて最後まで押し切れない伏黒くんと、急に大人になってしまった伏黒くんにぼんやり不安を抱いていた先輩。

お題:「プラットフォームで夜明け待ち」のその後/夏樹りおな様
お題ありがとうございました!二十歳になったら告白しようと決めた伏黒くん、律儀に当日の0時まで待ちそうなイメージです。

Title by 天文学