お題企画
非常にまずいことになった。
ふらつく頭を押さえ、なんとか足を踏ん張る。落ち葉の積もった地面はふにゃふにゃと柔らかくて、そのまま沈み込んでいくように錯覚してしまう。手の甲で拭った額には、冷たい汗がびっしりと浮かんでいた。なのに体中がガタガタ震えるほどの寒気を感じる。温感の狂った自分の手ではよくわからないが、たぶん熱があるのだろう。
霞む目で、少し先を歩く黒髪を見やった。気づかれたくないなあ。
一緒に任務に当たった彼は、森の中で目標の呪霊を見つけるや否や、鮮やかな一撃で瞬殺してしまった。私が術式を発動する暇もなかった。任務でまともに役に立たなかった上、こんな醜態を晒すわけにはいかない。
――そう思ったものの。
「っ……!」
普段なら絶対に躓かないような小さな木の根に足を取られ、私は簡単に地面に転がった。湿った土が顔にくっついて気持ち悪い。伏黒が振り向く前に立ち上がりたいのに、体に力が入らない。
「……ミョウジ?」
かろうじて顔だけ上げると、異変を感じ取ったらしいつんつん頭がこちらに向き直るところだった。地べたに這いつくばる私を見て、切長の目がまんまるく形を変える。バレた。最悪だ。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ちょっとコケただけ……」
「ちょっとってレベルじゃねえだろ」
駆け寄ってきた伏黒にへらりと笑いかける。正直、このままここで眠ってしまいたいくらい体が重い。いつまでも立ち上がれずにいる私を、伏黒は怪訝そうな顔て見下ろした。
「……お前、」
あっと思ったときには、伏黒の手が両脇に差し込まれて、私はひょいと助け起こされていた。制服にくっついた土が剥がれ落ちてぱらぱらと音を立てる。地面に足をつけた途端、立ちくらみのような眩暈に襲われた。だめだ、頭がぼーっとする。
思わず伏黒の腕に縋ると、彼はきゅっと眉を顰めた。そのまま片手で私の体を支え、もう片方の手で汗まみれの額に触れる。
「体調悪いなら早く言えよ」
「……ごめんなさい」
俯いて謝るしかない自分が情けない。伏黒は小さな溜息でもって返事をしてから、指先で私の顔についた土を払った。その仕草があまりにも優しくて、鼻の奥がつんとなる。
「歩けるか?」
「うん……」
「……抱えてやってもいいけど」
「い、いやだ」
「はいはい」
お前はそうだよな。独り言みたいに呟いた伏黒は、私の右腕を取って自分の肩に回した。左手で私の腰を抱えるようにしながら、そろりと歩き出す。文句ひとつ言わない涼やかな横顔を見上げて、私はいよいよ溢れそうになる涙をぐっと堪えるために唇を噛んだ。
——そうやって私の面倒な部分をしれっと許してくれる伏黒のことが、どうしようもなく好きだ。
伏黒は優しいから、何の役にも立たない私のことさえ、当たり前のように助けてくれる。そんな優しさに甘えるだけ甘えて、ちっぽけな意地も貫き通せない自分が惨めで、悔しくて、このまま消え去りたい気分だった。
『守りたい子がいるんだってさ』
この前、聞いてもいないのに五条先生が教えてくれた。そこらじゅう擦り傷を作った伏黒が、ぶすくれた顔で寮に戻ってきた翌日のことだった。
『その子に何かあったとき、一番に頼ってもらえるように強くなりたいんだって。それでわざわざ僕に稽古頼んでくるの。泣けるでしょ』
意地悪く笑う先生の顔を見たら、それが津美紀さんを指しているのではないことくらい、すぐにわかった。
『頑張り屋さんで、笑顔がすんごぉく可愛い子なんだって』
ようやく絞り出せたのは、そうなんですか、なんていう間抜けな返事だけだった。相変わらず他人の心を乱すのが好きな人だなとか、生徒のことを嬉々としてペラペラ喋る教師ってどうなの、とか、そんなことを考えられるようになったのはずいぶん後になってからだ。
頑張り屋で、笑顔の素敵な女の子。きっとふわふわの綿菓子みたいに可愛い子なんだろう。私の想像の中のその子は、衒いのない無垢な瞳を細めて幸せそうに笑っていた。一輪の白い花みたいに可憐な笑顔だった。
うん、わかるよ伏黒。私でも好きになっちゃうよ。仕方ない。私には逆立ちしたって敵わない相手だ。私、痛いのもしんどいのも嫌いだからちっとも頑張れないし、伏黒の前で可愛く笑うこともできないもん。
だったら――
だったらせめて、仲間として隣に立てるように。大切な子を守る伏黒のことを守れるように。そうなりたいと思っていたのに、それすらも叶わないなんて。
「……ごめんね、伏黒」
掠れる喉で呟いた。自分がどうやって歩いているのかもよくわからない。ただ伏黒の力強い手の感触だけを頼りに、どうにか足を踏み出している。
「気にすんな。車乗ったら寝とけよ」
「うん……」
「……泣くなよ」
「だって、」
伏黒の穏やかな声でスイッチが入ったかのように、涙がぽろぽろと零れ落ちた。この熱のせいで、私はとうとうばかになってしまったみたいだ。泣くな、これ以上困らせるんじゃない、そう思うのに、頭も体も心も全然言うことを聞かない。みんなてんでバラバラに動いて、千切れてしまいそうだった。
「……伏黒、好きな子がいるんでしょ……」
「はあ? いま関係ねーだろ」
うん、おっしゃる通りです。だけど私の口はもう止まらない。次から次へと溢れる涙に引っ張られるみたいにして、胸の底にしまっていたものまで転がり出てきてしまう。
「わ、私、それでも……仲間として隣に立っていられるならいいって、思ってたんだよ」
「ミョウジ?」
「伏黒が大事な子のこと守れるように、私が伏黒のこと、守ってあげるんだって、思ってたの……」
「ちょっと待て、一体何の話だよ」
足を止めた伏黒が、私の両肩をやんわりと掴んで顔を覗き込んだ。意味がわからないという表情で眉間に皺を寄せているのに、その目は心配そうに揺らいでいた。それだけでもう胸が押し潰されそうになる。伏黒は優しい。優しいなあ。
「……なのに、任務じゃまるで役に立たないし、熱出して、迷惑かけて。こんなんじゃ全然、伏黒のそばにいる資格もな、」
「わかったから、ちょっと落ち着け」
しゃくり上げる私の言葉を伏黒が遮って、一瞬の後、視界が真っ黒になった。淡いマリンの香りと少しの汗が混じったにおいがする。ほんわかと包み込むような体温で、どうやら伏黒に抱き締められているらしいとわかった。
「……落ち着いたか?」
「う、うん……ううん……」
「どっちだよ」
伏黒はふっと息を漏らして笑った。私の好きな、困ったような優しい笑い方だ。
頭のすぐ真上から低い声が降ってくるので、びっくりして涙は引っ込んでしまった。けれど今度は心臓がドキドキしてしょうがない。あれ、私なんでこんなことになってるんだっけ。
カチコチに固まった背中を、伏黒は子供をあやすみたいな手つきで撫でてくれる。それから反対の手で私の頭をぎゅっと胸元に抱き寄せて、囁くように呟いた。
「……俺の好きなやつは、」
ああそっか、伏黒の好きな人の話だった。嫌だな、聞きたくないな。そう思いながらも、耳に流れ込むその声が心地良くて、もうなんでもいいからこのままでいたくなってしまう。
「すげー意地っ張りで、素直じゃなくて、負けず嫌いで」
「……そうなんだ」
「すぐ泣くくせに、なんでも一人で抱えようとして墓穴掘って」
「……うん……?」
「熱出してぶっ倒れてもへらへら笑ってて」
「だ、大丈夫かな、その子……」
私は思わず顔を上げて伏黒を見た。なんだかずいぶんイメージと違うなあ。とりあえず、熱があったらちゃんと休んだほうがいい。じゃないと大変なことになっちゃうよ。経験則だけど。
伏黒は、ぎゅっと唇を引き結んで顰めっ面をしていた。五条先生との稽古の帰りみたいな顔だ。
「……ほんっと、危なっかしくて見てられねえ」
おもむろに伏黒の手がおでこに伸びてきて、汗で張り付いた前髪をそっと払ってくれた。指先が離れる瞬間、強張っていた深い青の瞳が、とろりと柔らかく解けていくのが見えた。
「――なのに俺のこと守ってやりたいとか言う、同級生の変な女だよ」
ひゅ、と喉が鳴った。
ついさっき自分が口走ったことを思い出す。それ、それって。
「……うぇ、え?」
「なんだよその顔」
目を白黒させるばかりの私の頬を両手で挟んで、伏黒はおかしそうに笑った。ああなんて甘い笑顔なんだろう。夢なら醒めないでほしい。
「ゆ、ゆめ……?」
「……これでもそう思うか?」
言って、伏黒は私の頬を指でつまんで引っ張った。痛い。夢じゃない。
でも、だって、伏黒の好きな子は。
「わ、たし……だって、ぜんぜん頑張れないし」
「じゃあなんで今日、具合悪いって一言も言わなかった?」
「……ふ、伏黒の前で、うまく笑えないし……」
「そこは努力してくれ」
言うが早いか、伏黒は軽々と私を抱き上げた。急に地面から足が離れて目が回りそうになる。咄嗟に伏黒の首に縋り付いたら、にやりと悪戯な笑みを返された。いま絶対わざと乱暴に担いだな……!
「ちょっ、ふしぐろ、」
「帰るぞ」
きっぱりとした口調で言われ、私は口を噤むしかない。文句は言わせねえぞ、と顔に書いてある。
「熱下がったら、お前には聞きたいことが山ほどあんだよ」
私を抱えたまま、軽快な足取りで伏黒は歩き出す。
――そんなこと言って、私がどれだけ伏黒のこと好きか、知ったらびっくりするんだからね。
言い返す代わりに、私はゆるりと目を閉じた。柔らかな体温に身を委ねると、すぐに睡魔がやってくる。
とりあえず、目が覚めたらもう一度、ぎゅって抱き締めてもらおうかな。
—
逆にびっくりさせられる同級生と、あとで五条先生をボコりに行く伏黒くん。
お題:同期夢主と両片思い/林檎様
お題ありがとうございました!伏黒くんの面倒見良さそうなところがとても好きです。
Title by icca