さよなら純白

お題企画

※中学時代
※伏黒視点

 

 

ぬるま湯みたいだ、と思った。

同級生のミョウジナマエは、ピンセットに挟んだ白いコットンで丁寧に俺の顔を拭った。まるでシルクの洋服の染み抜きでもするみたいに慎重な手つきだ。ミョウジの手がとんとんとリズムを刻むたび、俺の頬から滲み出た赤がコットンを汚していく。あまりにも繊細なその動きに体がむず痒くなり、思わず身じろぎをしたら、ミョウジはぴくりと手を止めた。

「――痛かった?」

ごめんね、と言うミョウジの眉尻は情けなく下がっている。なんでお前のほうが痛そうなんだという疑問は口に出さない。いつものことだからだ。

「……別に痛くない。大した傷でもねえし、もういい」
「あっ、待って」

保健室の古びた椅子から立ち上がりかけた俺を、ミョウジの声が制した。背後の戸棚を振り返り、何かを手にしてすぐさまこちらに向き直る。つややかな黒髪がふわっと舞って、花のような香りが鼻腔をくすぐった。

「はい。これで大丈夫だよ」

顔にぺたりと貼り付く感触があり、ミョウジが満足げに笑った。戸棚のガラス扉に反射した光景を見て、俺はなんとも言えない気持ちになる。むっつりと唇を引き結んだ自分の頬には、拍子抜けするほどふやけた顔の猫のイラストが描かれた絆創膏が鎮座していた。

春の陽ざしが揺らめく、眠くなりそうなくらいに緩やかな午後のことだった。

さよなら純白

ミョウジナマエと初めて会話らしい会話をしたのは、二年に上がってすぐの頃だった。

「ふ、伏黒くん! ほっぺ、血が出てるよ!?」

昼休み明けに教室に戻った俺の顔を見るなり、隣の席で素っ頓狂な声を上げたのがミョウジだった。

クラス替えの直後で浮き足立っていた教室がそろそろと落ち着き始め、いわゆる“仲良しグループ”のようなものが出来上がりつつある時期。これからの学校生活を左右する交友関係を誰もが慎重に見極めようという中、問題児として全校に認識され始めていた俺に関わろうとする物好きは当然ながらいない、はずだった。

「先生! 伏黒くんが怪我しているので、保健室に連れて行っていいですか!」
「……は?」

ビシッと指先までまっすぐに揃えて右手を挙げたミョウジに、俺は間抜けな声を発することしかできなかった。

「あのね私、保健委員なの」

行こう、と俺の手首をやんわり掴んだ彼女を振り解くことなど容易かったはずなのに、あれよあれよと言う間に俺は保健室まで連行された。その手があまりに華奢で柔らかく、少しでも力を入れたら簡単に壊れてしまいそうで恐ろしかったのだ。

保健委員としての矜持なのかなんなのか、それから喧嘩して些細な傷を作るたび、ミョウジは俺を保健室へ引っ立てた。必要ないと強く断ってもまるで聞きやしない。ふにゃふにゃした見かけによらず彼女は頑固だった。「破傷風とか怖いんだよ」などと真面目な顔で諭してくるので、面倒になって途中からはなされるがままになった。

ミョウジの手はいつも温かい。人を殴ったことなど人生で一度もなく、きっとこれからもないであろう、白い小さな手だった。その手が触れるたび、ぬるま湯でふやかされていくような居心地の悪さを覚える。呪いとも暴力とも無縁の世界に住む綺麗な生き物。それを俺はどう扱えばいいのかわからなかった。

 

向かいでペンを走らせる白い頬を見やる。
いつも通りテキパキと手当を終えたミョウジは、保健室利用の記録をつけるためのノートに何事か熱心に書き込んでいる。養護教諭は職員会議があるからと先ほど出て行って、放課後の保健室には他に誰の姿もない。薄く開いた窓の外から、校庭で汗を流す運動部の声がさざ波のように聞こえてくるだけだった。

「伏黒くん、喧嘩してばっかりだねえ」

今日は天気がいいね、とでも話すみたいに朗らかな声でミョウジが言った。笑う顔にはまるで屈託がなく、丸みを帯びた輪郭がそのままとろりと溶け出してもおかしくないほど柔らかだ。そんな表情を見るといつも、胸の底をそっと撫でられたような、落ち着かない気持ちになる。

「……ミョウジ」
「うん?」

呼びかけると、黒々とした目がまっすぐにこちらを見た。この世の不浄など露ほども知らないと言いたげに深く澄んだ瞳には、ひとつの翳りもない。俺はその目から視線を逸らして、無機質な白い床を見つめた。

「お前、なんでまだ俺に構うんだよ」
「えっ」
「知ってんだろ、噂になってるの」

ミョウジは一瞬息を呑んだ後、うん、と小さく頷いた。

伏黒恵に彼女ができたらしいという噂は、瞬く間に学校中を駆け巡った。
考えてみれば当然だ。教室でも廊下でも、ミョウジは人目を憚らず俺に話しかけ、手を引いて歩いていたものだから、色恋沙汰に敏感な中学生が興味を持たないわけがない。

――あれだろ、ミョウジナマエ。
――大人しそうな顔して、やることやってんな~。
――伏黒と付き合うくらいだから、アイツも実は不良なんじゃねーの。
――裏で煙草とか吸ってたりして?

そんな馬鹿げた話を耳にするたび、吐き気がするほどの嫌悪を覚えた。
ミョウジナマエが不良?どこをどう見たらそんなことが言える。大真面目にふざけた猫の絆創膏を貼ってくるようなやつだぞ。そう声を大にして言いたかった。ひとつでも陰口を叩いたやつを一人残らずぶん殴ってやりたかった。

「……でも、私、大丈夫だよ」

ミョウジは困ったように目尻を下げて笑った。
それと反比例して自分の眉間に皺が寄るのを自覚する。

悪意や嘲笑などとはおよそ関わりのない場所で生きているべき人間だったはずなのに。勝手に一括りにされて、こそこそと後ろ指をさされて、それでも大丈夫なんてうそぶくのは義務感からか、根っからのお人好しか、それともただの馬鹿なのか。たぶん、全部だ。

窓から吹き込んだ生暖かい風が彼女の髪を攫った。それを押さえつける指は細く、あまりにも頼りない。

――その手でまた触れてほしいだなんて思ってしまう自分を、一番ぶん殴りたい。

「もう俺に関わるのやめろ」

できるだけ何の感情も込めずに言った。

そもそも最初から拒んでいればよかったのだ。頬にできた小さな切り傷なんて、放っておけば勝手に治る。なのに、じわりと染み込んでくるあたたかさに身を委ねてしまった。

居心地が悪くて当然だ。ミョウジは俺とはまったく違う。小さくて脆くて柔らかくて、そんな彼女に自分の殻みたいなものが溶かされていくのがわかった。

つまり俺はずっと癒されていたのだと、そう気づいたときにはもう遅かった。

「……で、でも!」

焦ったような声音に、怪訝に思って視線を上げる。いつも穏やかな表情を浮かべるばかりだったミョウジの顔が、さあっと色を失っていった。

「でも、これが私の仕事で、だから……」

ミョウジは言い淀んで、でも簡単には首を縦に振らなかった。
そんなに必死になることか、と思う。ミョウジがどんなに使命感を抱いたところで、たかだか中学校の委員会活動だ。問題のある生徒と同じに見られる不利益と比べたら、どうってことないだろうに。

「……委員会なんか適当にやっとけよ」

もう話しかけるなよ。そう言って立ち去ろうとしたのに、できなかった。俺の制服の裾を、ミョウジの両手が掴んでいた。それはもう、皺になりそうなくらい強く。

「おい、」
「……や、やだ……っ」

蚊の鳴くような声でミョウジが言って、それだけで俺は動けなくなる。まただ。また俺はこの手を振り解けない。

「……なんだよ。文句でもあんのか」
「ち、ちがう」
「じゃあ何」
「あのっ……その、噂が嫌なんだったら、ちがうよって私からみんなに説明するから、」

お願い。

いつもへらりと笑って他人を許すところしか見たことがなかったのに、その声があまりに切実だったから少しだけ驚いた。そういえばこいつは見かけによらず頑固だったな、と思い出す。そんなことがわかるくらいには一緒にいたみたいだ。

「……お前、そこまで保健委員に誇り持ってんのかよ」

変なやつ、と言いかけたとき、ミョウジが弾かれたように顔を上げた。

「委員会とかどうでもいいよ!」
「は?」

俺は眉を顰めた。あんなに熱心に活動していたくせに、急に何を言い出すのか。
ミョウジはまっすぐに俺の目を見ていた。いつになく強い眼差しに、息が詰まりそうになる。

「……わ、私、わざとだもん」
「何が、」
「伏黒くんとお話したくて保健委員になったの!」

やけくそみたいに放たれた言葉が、鈍器になって俺の頭を殴った。今度こそ息が止まった。かつてないくらい、俺はいま、目を見開いていると思う。

……ちょっと待て。つまり、喧嘩っ早い同級生と接点を作るために、わざわざ。

口を開けたものの、言葉が出てこない。
薄々わかってはいた。ミョウジがどこかずれていることなんて。それでもこれは、いくらなんでも斜め上すぎやしないか。

「だから、だから、……もっと伏黒くんと一緒にいたいし、たくさんお喋りしたい……です……から……」

ミョウジは指が白くなるほど俺の制服を握りしめて、唇を震わせた。なんで敬語、なんていうくだらない疑問が浮かんでは消えていく。

「私と、お、お友達になってくれませんか!」

いまにも泣き出しそうな真っ赤な顔で言う彼女を見たら、なんだか急に気が抜けた。ここまできてそれかよ。本当に、ミョウジナマエという女は俺とはまったく別次元の生き物のようだ。俺がいくらあれやこれや考えたところで、そんなもの簡単にぶち壊してきやがる。

「――前から思ってたけど」

俺は初めて自分から彼女の手に触れた。細い手首を掴んで引き寄せると、軽い体はいとも簡単に腕の中に収まった。あほらしい。答えはこんなにシンプルだったのに。

「ふ、伏黒くん……!?」
「……お前ってほんと、ずれてるよな」

そんな顔しておいて、オトモダチなんて生ぬるい関係で終われると思うなよ。

 

 


「俺の彼女ですが何か」という顔で周囲を黙らせていく伏黒さん。

お題:中学時代の問題児伏黒と両片思い、伏黒目線/ぺんぺん様
お題ありがとうございました!両片思いになってるといいな……?

Title by エナメル