プラットフォームで夜明け待ち

※伏黒視点
※伏黒くんが高専四年生

 

 

「めぐみぃ、のんれる〜?」
「飲んでませんよ」

目の前の光景に、俺は目を覆いたくなった。つい二時間ほど前、久しぶりにご飯に行こうよ、と俺を誘ってきた相手はいま、グラス片手に上機嫌でニコニコと笑っている。そして、ぐでんぐでんに酔っ払っている。ちょっと洗面所に立って戻ってきたらこれだ。どうしてこうなった。

まだ飲む、と駄々をこねる彼女の手からグラスを奪い取り、通りかかった店員に水を頼んだ。黄金色の液体が揺れて、アルコールの匂いが鼻をつく。俺にはまだ許されていないそれを、彼女は今日、どれほど口にしただろうか。

プラットフォームで夜明け待ち

俺のひとつ上の学年にいたミョウジナマエさんは、今年の三月にめでたく高専を卒業した。あの学年の中では乙骨先輩の次にまともな人で、在学中から真面目に任務をこなし、貯めた資金でいまは国内外をふらふら遊び歩いている。呪術師として本格的に働き始めるまでの、おそらく人生最後の長い夏休みだと笑っていた。

人懐っこい彼女は、よく周りの人間を食事に誘った。実家が大家族なので、ひとりでいるのが寂しいのだと言った。禪院先輩などはしょっちゅう寮の部屋に押し掛けられ、同じベッドで眠らされていたらしい。そうやって軽々と人の懐に飛び込んでも許されてしまうような、人の良さと愛らしさがあった。

俺もまた、そんな彼女にいつの間にか丸め込まれた連中のひとりだった。初めて二人きりで話したときのことをいまだに思い出す。俺がまだ一年の頃だ。

 

「伏黒くん、ちょっといい?」

白い入道雲が立ち上る、暑い夏の日だった。寮の廊下の向こう側から現れたミョウジ先輩は、俺を見るなりつかつかと歩み寄ってきたかと思うと、腰に手を当て、ふんと胸をそらして立った。

「私とお素麺を食べませんか!」
「はあ」

俺より十五センチほど低い位置にある彼女の顔は真剣そのものだ。まるで大事な勝負でも挑むような気迫に押され、俺は考えるより先に頷いていた。

「よかった〜伏黒くんがいて。今日みんな出払っててさ」

朗らかに笑う彼女と俺の間には、山盛りの素麺が入ったガラスの器が置かれていた。溶けかけの氷が、からん、と涼しげな音を立てる。傍らには綺麗に刻まれた薬味まで用意されていた。豪快な振る舞いの割に几帳面なのだな、と意外に思った。

「なんで素麺なんすか」
「さっき五条先生に会って、いっぱいもらったの。お中元なんだって」
「……へえ」

なんとなく素直に感謝する気になれなかったが、素麺に罪はない。ついでにミョウジ先輩にも。いただきます!と威勢よく手を合わせる彼女につられて、俺は箸を伸ばした。

ミョウジ先輩は、食べながらよく喋った。家族のこと、任務のこと、禪院先輩が頼りになること、狗巻先輩が牛カルビおにぎりを買っていたこと、パンダ先輩の耳がほつれたこと、乙骨先輩がいなくてみんなの世話が大変なこと。そして、ひとりで食事をするのが苦手だということ。

「私の実家、古い日本の家でね。食事はみんなで集まってしてたの。だからひとりだと味気なくて」
「その割に、先輩ってあんまり帰省とかしないですよね」

何気なく言ってしまってから、あ、と思った。呪術師の家はいろいろと面倒なことが多い。気軽に触れるべきではなかったと後悔した。一瞬息を詰めたように見えたミョウジ先輩は、しかしすぐにふにゃりと口元をゆるめた。

「……あー、うん。帰れないんだよねえ」

追い出されちゃったから、と照れくさそうに言った彼女に、俺はどう返したらいいのかわからなかった。

ミョウジ家は代々続く医者の家系で、それを継がずに呪術師を志したミョウジ先輩は、勘当同然で家を出たのだという。

「……なんで」
「自分にしかできないことが本当にあるのか、確かめてみたかったの」

さっぱりした口調で言う彼女の瞳はきらきらと瞬いて、その目で俺を見てニッと笑った。ひとりは寂しいと言いながら、ふとした瞬間にすべてを置き去りにしてふらっと出て行ってしまいそうな、そんな奔放さを秘めた目だった。呪術師にならなかったとしても、遅かれ早かれこの人は家を出ていたのだろうとぼんやり考えた。

それ以上訊くのも気が咎めて、俺は黙ってまた素麺を掬い上げた。器の中身が半分ほどになる頃には、ミョウジ先輩は自分の椀の中に残った氷を箸でつついて遊び始めた。食べ終わったのならさっさと部屋に戻ればいいのにそうしないのは、ひとりを嫌っているからだろうか。それだけではないといい、などと淡く期待している自分には気づかないふりをした。

「ひとりのときは何食ってるんですか」
「んー。食べないで寝るかな」
「……不健康」
「だよねえ」

俺は些か呆れて彼女を見た。タンクトップから伸びた白い腕は、少し力を入れて握れば折れてしまいそうな細さだった。筋トレしてもムキムキになれない、とこぼしていたのを思い出す。食が細すぎるんじゃないだろうか。二の腕なんか、片手で簡単に掴めそうな——

「あ」

彼女が急に声を上げて、俺ははっとした。無意識に手を伸ばしかけている自分がいた。ぎゅっと指を握り込む。何を考えてるんだ俺は。

先輩は手元に夢中で、こちらのことは気に留めていないようだった。密かに息をつく。俯きがちな彼女の襟元から覗く鎖骨に目を奪われそうになり、さっと視線を落とした。さっきから俺はどうかしているみたいだ。暑さで頭がやられたのかもしれない。

「伏黒くん。これあげる」

楽しそうな声がして、視界の端で何かが揺れた。顔を上げると、ピンク色の素麺が一本、彼女の箸からぶら下がっていた。

「食べたらきっと、いいことあるよ」

先輩は花のような笑顔でそう言って、はい、と俺の椀にその素麺を浮かべた。淡いピンク色は、つゆの底に沈んですぐに見えなくなった。
それを見届けるうち、自分の内側を何か得体の知れないものが浸食していくのを、じわじわと自覚した。

「……先輩」
「あ、ごめん! 私の箸で取っちゃったの、嫌だった?」

椀を見つめたままの俺を、彼女は怒っていると思ったようだった。違う、そんなんじゃない。けれど、胸の内にせり上がってくるこの感情をなんと言葉にすればいいのかわからなくて、俺はただぼそっと呟いた。

「……俺でよければ付き合いますよ、飯」

数秒おいて、彼女はたいそう嬉しそうに微笑んだ。

それから、たまに二人で食事をするようになった。それは寮の共有スペースだったり、任務帰りのラーメン屋だったり、洒落たカフェだったりした。しばらくすると彼女は俺を名前で呼ぶようになって、またしばらくして俺も彼女を名前で呼ぶようになった。

ちゃんと見ておかないとすぐに食事を抜くからという理由で、俺は暇を見つけては彼女を連れ出した。本当は、手を離せばすぐにひらひらと飛んでいきそうな彼女をただ必死に繋ぎ止めていただけだった。あの夏の日、俺のそばで氷をつついて遊んでいた彼女の姿が、ずっと頭から離れなかった。

 

「ナマエさん」
「んう?」

うるんだ瞳で俺を見る彼女に、息が止まりそうになる。しどけなく晒け出された赤い首筋が目に毒だった。酒を覚えたてのくせに調子に乗るからだ。酔いが回りきるまで表に出ない、一番タチの悪い酔っ払い方だった。

「……頼むから、俺のいないところでそんな風にならないでくださいよ」

手元の覚束ないナマエさんを手伝って水を飲ませながら、俺は呆れと懇願を込めて呟いた。こんな状態で言って聞かせたところで覚えてなどいないだろうが、だからこそ言えることだってある。
彼女は唇を濡らしたまま、あどけない顔で俺を見た。

「めぐみがいるとこでならいい?」
「……まあ、そうですね」

どの口で、と我ながら思う。同じことが何度もあったら、とても正気を保っていられるかどうかわからない。それでも、他の男の前でこんな姿を晒されるよりは何万倍もマシだった。

「んふふ、そっかあ」

なんだか幸せそうに笑うナマエさんの熱い指が、俺の手の甲をするっと撫でた。腹の底から何かが込み上げてきて、胸焼けがしそうだった。本当にわざとでないなら恐ろしい女だと思った。

「めぐみもおさけ、つきあってよぅ」
「未成年に飲まそうとしないでください」
「……なんでみせいねんなの、めぐみ」

はやく大人になってよ。

そんな理不尽なことを言って、彼女はついにテーブルに突っ伏した。途端に、すこー、という間抜けな寝息が聞こえてくる。いい気なものだ。人がどんな思いでこの関係に食らいついてきたかも知らないで。

「……あんたが勝手に一年早く生まれるからだろ」

誰にともなく呟いて、俺は子供のような顔で眠る彼女の髪に触れた。

 

 


ハタチになったらちゃんと告白して、お酒に付き合って、その後の人生にも付き合ってくれるつもりの伏黒くん。

Title by 誰花