19

一階に比べ、窓のない二階フロアはまったくの暗闇だった。懐中電灯の小さな光の輪を道標に、しんと静まり返った廊下を進む。壁際に並んだソファと色褪せた映画のポスターを順番に眺めていくと、左手と正面突き当たりに、それぞれスクリーンへの入り口が見えた。

まずは手前、左側の部屋だ。残穢は見当たらなかった。扉を薄く開けて、中を窺う。……異状なし。念のためにしばらく客席を歩き回ってみても、何も出て来なかった。ハズレかな。いったんフロアへ戻って、もうひとつの扉へと歩を進めようとしたときだった。

(……何か聞こえる……?)

微かな物音を捉えて、私はぴたりと足を止めた。風の音というには鮮明で、歌声と呼ぶにはあまりにも歪なそれは、奥の部屋から漏れ聞こえている。どうやらここが問題の部屋らしかった。気配を潜めて近づき、分厚い扉をそっと押し開ける。

ぱっと目に飛び込んできたスクリーンが映していたのは、寂しげなスノーノイズだけだった。風景も人物もなにひとつない、白黒の砂嵐。その後ろで、耳障りな調子外れの音楽が延々と鳴り続けている。

仄白く照らし出された客席に視線を巡らす。
最後列の真ん中に、若い女のような背格好の何かが立っていた。

「す……キ……」

床にまで届く長い髪の隙間から、その呪霊はニタリと笑ってこちらを見た。ぽっかり空いた穴のように虚ろなふたつの目が、けれども確かな殺意を持って私を捉える。次の瞬間、呪霊は大きく飛び上がって天井を蹴ると、その勢いのままにこちらへ突っ込んできた。

「ア……ア、スき、ダよォ」

身体の前に構えた呪具で攻撃を受け止める。長い爪がぎしりと刃に絡み付いた。押し負けまいと両手で柄を握って、足を思い切り踏ん張る。毎日のように馬鹿力の相手と訓練しておいてよかったと、このときばかりは思った。

「ス、き、すき好きすきス、キす、」

爛れた唇が、うわごとのように繰り返す。

(好き、か……)

呪霊は、人間の負の感情が寄り集まって生まれるのだという。誰かを好きだと思う気持ちは、こんなにも醜いものなんだろうか。叶わずに捨ててしまった想いがあったのかな。抱えたまま潰れてしまった心があったのかな。好きだった人に裏切られたり、大切な人を傷つけてしまったり、そういうことだってあるのかもしれない。苦しくて辛くて、でも、どうしようもなく好きで。

「――うん、わかるよ」

恋って、もっと楽しいものなんだと思っていた。その人のそばにいるだけで毎日が満たされるような、キラキラした何かなんだと。

握りしめた刀に呪力を流し込む。呪霊がギャッと短く悲鳴を上げて後ろに飛び退ろうとするのを、呪符を貼り付けて封じた。見えない糸に縫い付けられたように固まった呪霊は、もう何も言葉を発さなかった。

「でも、それだけじゃダメなんだよ……」

呟いて、私は一気に刀を振り抜いた。もやもやした自分の気持ちまで全部吹っ飛ばすくらいに、思いっきり、それはもう威勢よくフルスイングした。七海が見たらきっとびっくりするだろうな。やればできるなら最初からやってくださいとか、小言までついてきそうだけれど。

断末魔も残さず黒い塵になって消えた呪霊を見送って、私はひとつ大きく息をついた。首に提げた携帯を手に取り、連絡先を開いて発信ボタンを押す。たったそれだけの動作に、鼓動が速くなる。

「――五条先輩。任務完了しました」

 

「なんか食って帰るか」

映画館を出て裏口に鍵をかけていると、後ろで大きく伸びをしながら五条先輩が言った。ひんやりと肌にまとわりついていた空気を溶かすように、夏の日差しが照りつける。太陽はもうすぐ天頂に差し掛かろうかというところだった。

「え、そういうのっていいんですか?」
「もう任務終わっちゃったし、迎え来るまで暇じゃん」
「確かに……」

ここまで送ってきてくれた補助監督さんは、いま別の現場の調査に回っている。帰りにまたピックアップしてくれるそうだが、予定より早く任務を終えてしまったので、待ち合わせまではまだ一時間ほど余裕があった。
ちょうどお昼時だし、そう言われるとなんだか急にお腹が空いてくる。制服のポケットに鍵をしまって振り返ると、五条先輩がくあっと大きな欠伸をしたところだった。

(そういえば、さっきは変な顔してたな……)

呪霊を祓った後、二階のフロアで合流したときだ。劇場から出てきた私を頭から爪先まで一瞥して、先輩は鼻の頭にくしゃりと皺を寄せた。怒っているような、拗ねているような、不思議な表情だった。

『祓ったの』
『は、祓いました』
『お前ひとりで?』
『だめでした……?』
『……怪我は』
『ないです……』
『……あっそ』

それきり黙ったまま見下ろされるのに耐えられず、毎日の訓練が実を結んだんですかねえ、なんておどけて言ってみたら、調子に乗るなと頭を小突かれた。ひとりで祓わないほうがよかったんだろうか。いやでも、先輩の手を煩わせるのも……。

「……なんか食いたいもんある?」

悶々と巡らせていた思考を、五条先輩の声が遮った。私にも意見を聞いてくれるあたり、怒ってはいないようでほっとする。とはいえオシャレな街で遊んだことなんてほとんどない私には、気の利いた答えがぱっと思いつかない。こないだ雑誌で見たの、なんだったっけ。クリームとかフルーツがたくさん乗ってて美味しそうだなって思って。

「ぱ、パンケーキ、とか……?」
「……お前でもそういうの興味あるんだ」
「いえちょっと思いついただけで……あ、でもお昼ごはんに食べるものじゃないですね……?」
「いーよ別に」
「……甘いので大丈夫なんですか?」
「コーヒーくらいあるだろ」

それじゃあ食事にならないんじゃ。五条先輩は気にする風もなく、携帯でぱぱっとお店を調べるとすぐに歩き始めた。失敗した。ラーメンとかファミレスとか、男の人でもちゃんと食べれそうなところにすればよかった。自分で言っておいて後悔する。だって、まさか五条先輩相手に私のリクエストがすんなり通るなんて、誰も思わない。

 

……というわけで、私の目の前にはいま、でっかいパフェがあります。

「パンケーキじゃねーのかよ」
「お、美味しそうだったので……」

だって暑いし。季節限定だし。ごにょごにょと口ごもる私の向かいで呆れたように頬杖をついて、五条先輩は手元のアイスコーヒーをかき混ぜた。縦長のグラスからカラコロと涼しげな氷の音が鳴る。その傍らには、真っ赤ないちごと真っ白な生クリームに飾られたパンケーキがあった。五条先輩が注文したやつだ。私がパフェとどっちを頼むか最後まで悩んでいたメニューでもある。

「先輩もパンケーキ食べるんですね……?」
「うるせーな腹減ったんだよ」

先輩はフォークだけで器用にパンケーキを切り取って口へと運んだ。一口大きいな、と思った瞬間に、花火大会のりんご飴を思い出してしまって、ぱっと目を逸らす。

「……食わねーの」
「た、食べます……」

慌てて手に取ったスプーンで、すでに溶けそうなアイスクリームを掬って口に含んだ。優しいミルクの味とバニラの香りに、強張った身体が少しだけ解ける。五条先輩は最初の一口だけで手を止めてしまって、コーヒーのストローを齧りながら窓の外を眺めていた。何かを話すべきなのか、何を言えばいいのかもわからなくて、ひたすらにパフェを食べ進める。
駅前の混雑が嘘みたいに店内の客はまばらだ。スピーカーから流れるピアノの音が、静かな雨のようにぽつりぽつりと降り注ぐだけだった。

「夏休みどうすんの」

しばらくして、唐突に五条先輩が口を開いた。
夏休み。そっか夏休み。入学したとき、短いけれどお盆の頃にお休みがあると聞いた気がする。すっかり忘れていた。

「言われてみれば、もうすぐですね……みんな何するのかな」
「さあ。だいたい帰省するんじゃね」
「あ、そっか。そうですよね」
「お前も実家帰んだろ」

言われて、ぴたりと手を止めた。

青い瞳がこちらを見るのと入れ替わるように、パフェの器に視線を落とす。スプーンの上に残ったままのアイスクリームがゆるりと溶け出して、白い雫になって滴り落ちた。

「実家、は……あまり、歓迎されないかも、です」

開いた唇からは、不自然に乾いた笑いが漏れた。
ずっと頭の隅に追いやっていた人たちの顔が、暗い影のようにぼんやりと浮かび上がってくる。寮に入ってから、家にはまだ一度も帰っていない。何回か連絡はあった。どれも、事務的な用件だけだったけれど。

「……じゃあ、一日くらい寮で映画でも観るか」

カラカラ、コロ。中身がほとんどなくなったグラスの中で、またあの澄んだ音が鳴る。呼び起こされるように顔を上げて、思わず瞬きをした。目の前に、たっぷりとクリームを絡ませたパンケーキの一片が差し出されていた。

「え、」
「俺も親戚連中の集まりに顔出すくらいはするけど、すぐ戻ってくるし。いろいろめんどいから」
「そう、なんですか。それでこれは」
「いーから口開けろ」

誇らしげにてっぺんを飾るいちごをまじまじと見つめる。これはつまり、くれるっていうことだろうか。困惑していると、急かすようにフォークを鼻先まで突きつけられ、肩がぴくりと跳ねた。
断ったら、変に意識してると思われるかな。もしかして、食べようとしたら引っ込められるパターンかもしれない。五条先輩の顔を窺いながら、恐る恐る口を開く。そんなにじっと見ないでほしい。口、開けるの、恥ずかしい。

「もっと開けろよ入んないじゃん」
「!?」

痺れを切らしたような声とともに、フォークを持つのと反対の手でいきなり顎を掴まれた。びっくりしてぱかっと開いた口の中に、ものすごい速さでパンケーキが突っ込まれる。絶対いま変な声出た。ちょっといくらなんでも乱暴すぎません? 文句を言おうにも、一口が大きすぎて咀嚼するのに精一杯だ。いちごの爽やかな酸味と生クリームの控えめな甘さが合わさって、舌をとろかしてくる。……これは。

「……おいひい……」
「ヨカッタネ」
「もうちょっともらってもいいですか……?」
「俺いらないからもう全部食えば」

まだほとんど食べられていないパンケーキのお皿が、こちらへと押しやられてくる。いいのかな。お腹空いてるって言ってたのに。疑問に思いながらも、「あと十分で食え」と告げられては遠慮などしていられない。時間が経ってもふわふわなままのそれを一口含んだらやっぱり美味しくて、思わず頬が緩んだ。

「……お前はそーやってへにゃへにゃしとけよ」
「ヘニャ……?」

ぼそっと呟かれた言葉の意味は、よくわからなかった。聞き返す前に先輩がお手洗いに立ってしまったし、何よりパンケーキを食べるのに一生懸命だったのだ。まさかその間にお会計が済んでいるなんて、ポンコツな私はお店を出るときまでまったく気がつかなかった。

 

 

>> 20


罪滅ぼしとかご褒美とか、その他いろいろ。