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※原作と時系列が異なります。
※いろいろ捏造しています。

 

 

 

八月は飛ぶように過ぎていった。
結論から言えば、寮でみんなで映画を観ようという約束は叶わなかった。私は京都で行われた大規模任務に駆り出され、お盆を挟んで十日間近くを東京から離れて過ごした。ようやく帰ってくる頃には、五条先輩は夏油先輩とともに星漿体の護衛任務に就いて、沖縄へと飛んでいた。

「硝子さん、これ京都のお土産です」

食堂で早めの夕食を一緒にとった後で、私は小さな包みを差し出した。甘いものが苦手な硝子さん用に買ってきた、緑茶のティーバッグだ。

「ありがと。休み潰れちゃって災難だったね」
「いえ。持て余してたので、むしろよかったです」

苦笑を漏らせば、真面目だねえと呆れたような眼差しが返ってくる。京都行きの話が出たときも硝子さんは気の毒がってくれたのだけれど、実際のところ私は二つ返事で了承した。ここでひとりぼっちで過ごすより、任務で駆けずり回っているほうがよっぽどましに思えたからだ。

「向こうはどうだった?」
「すっごく勉強になりました! 行ってよかったです」
「うわガチで真面目じゃん」
「結界術に詳しい方が多くて、いろいろ教えてもらって……あ、京都校に知り合いもできたんですよ」
「へー、何年生? 男?」
「男の人です。三年生って言ってました」
「三年なら今度の交流会で会うかな」
「そっか、そうですね」
「写真とかある?」
「ありますよ」

その人は、京都での任務で同じチームになった術師だった。元々は関東出身らしいのと、歳が近いこともあって、滞在中は何かと気にかけてもらっていたのだ。今年の姉妹校交流会は東京開催だから、任務がなければ私も挨拶くらいできるかもしれないな。そんなことを考えながら最終日に一緒に撮った写真を見せると、途端に硝子さんがぎゅうと眉を顰めた。美しいかんばせが台無しだ。

「どうしたんですか!?」
「……いやなんか距離近くね」
「え? ……そうですか?」
「肩抱かれてんじゃん」
「夏油先輩もよくやってません?」
「……あー……」

あいつを基準にするのだけはやめなと言って、硝子さんは額に手を当てる。

「あのねナマエちゃん。もしそいつから『おはよう』とか『おやすみ』とかくだらないメール来ても、気安く返しちゃだめだよ」
「え」
「……『いま何してるの?』とか」
「なんで知ってるんですか!?」
「遅かったか」

はーっと溜息をつく硝子さんはエスパーか何かだろうか。それとも私のメールは傍受でもされてるのか。怖い。

「……まあ五条が戻ってきたら虫除けさせればいいか」
「五条先輩」

唐突に低く呟かれた名前を聞いて、思わずぱちりと瞬きをした。言葉に詰まった私に目敏く気づいた硝子さんが、面白そうに口角を上げる。そんな意地悪な顔ってあります?

「明日には帰ってくるって」

沖縄での滞在を一日延ばしたらしいことは、七海と灰原から聞いている。「そうでしたっけ」も「早く会いたいですね」も違う気がして、結局私はそのまま口を噤んでしまった。

「……やっぱり五条となんかあった?」

こちらを覗き込む大きな瞳は、嘘をついても無駄だと言外に告げている。まったくこの人はどこまでわかって言っているんだろうか。そんな目で見られたらもう、大人しく白旗を揚げる代わりに苦笑を返すほかなかった。

「……本当に、何もないですよ。ただ自分の気持ちを整理したというか、それだけで」

東京を離れている間、思い返すのはいつも、五条先輩の顰めっ面だった。迷子になった私を探しに来てくれたときの顔。落とした携帯を拾ってくれたときの顔。乱暴に頭を掻き回していったときの顔。

五条先輩は優しい。きっと何回も呆れながら、それでもいつだって私を助けてくれる。そんな人を、自分の気持ちに振り回されて困らせるようなことは、もうしたくないと思った。

――だから、この恋は置いていこう。

何度も頭を巡らせてたどり着いたのは、やっぱりそんな答えでしかなかった。

このタイミングででしばらく東京を離れられたのは、良い機会だったと思う。新しい人や知識にたくさん出会って、まだまだ自分には足りないものがあると知って、それだけでも少し前を向くことができた。いまは自分の目指すものに向かってひたすらに進んでいく、そのことだけを考えている。

「――なので、もう大丈夫です」

まっすぐに見つめ返せば、硝子さんはふっと息をついて微笑んだ。ちょっと見惚れてしまうくらい素敵な笑顔だった。細く開いた窓からは夕暮れの風がふわりと舞い込んで、硝子さんの髪を揺らして、それから私の胸の内も全部さらって、優しく通り過ぎていった。

「沖縄土産、死ぬほどリクエストしてやろ」
「あ、いいですね!私、海ぶどう食べてみたいです」
「海ぶどうってぶどうじゃないからね?」
「えっ」

 

体術の稽古とお風呂を済ませて部屋に戻ると、もう日付が変わりそうな時間になっていた。いつもならすぐに寝てしまうけれど、明日は土曜日で任務もない。なんとなくもったいない気分になり、ベッドに腰掛けて読みかけだった文庫本を手に取った。

――沖縄にいるみんなは、ちゃんと休めているだろうか。

栞を挟んだページを開いて、ふとそんなことが頭をよぎる。夜蛾先生は今回の任務を“荷が重いかもしれない”と言っていたらしい。五条先輩と夏油先輩が組んでも荷が重いなんて、相当とんでもない任務なのだろう。だって普通に考えれば、並の呪詛師が束になってかかってきたとしても、返り討ちにしてなおお釣りがくるくらいのコンビなのだ。七海と灰原だっているし。

ぼんやりとした不安を振り払うように、わざと音を立ててページをめくった。便りがないのはいい便り、とか言うじゃないか。そう思っても、考え始めるとどんどん気になってきてしまうのが人間の性である。さっきから目は紙の上をつらつらと滑るばかりで、内容がまったく頭に入ってこない。

こんなことなら、昼間のうちにメールのひとつも送っておけばよかった。たった一言でも返事が来れば、それだけで安心できたかもしれないのに。

そうして行きつ戻りつしながら、ようやく数ページを読み進めた頃だった。テーブルに置いた携帯がぶるぶると震えて、私はベッドの上で飛び上がった。心臓がばくばくとけたたましく暴れ始める。転げるように携帯に取り付いて、表示された名前を見て息が止まった。

「ごっ五条先輩!? どうかしましたか!?」
『生きてんの?』
「……へ?」

慌てて耳に当てた携帯から飛び出してきたのは、びっくりするほど短い問いかけだった。思わず画面を二度見して相手の名前を確認してしまう。五条悟。だよね。

「え、わた、はい、生きてます……」
『生きてんならウンとかスンとか言ってこいよ』
「ええ……?」

……うん、この理不尽な物言いは間違いなく五条先輩だ。とりあえず緊急事態ではなさそうだけれど。想定していた言葉をごくんと飲み込んだ私に、先輩は拗ねた子供のような声で続けた。

『……お前さあ、京都行ってる間ぜんッぜん連絡してこねーじゃん』
「は、はあ」
『せっかく土産いろいろ買ってこさせようと思ってたのに……』

お、おみやげ……?
しばし呆然とした後、今度こそ一気に拍子抜けして、私はベッドにへろへろと横たわってしまった。深夜にいきなり電話してきて一体なんなんだろう。危うく心臓が止まるところだった。

「急に電話来たのでびっくりしました……」
『なに、俺らがヘマしたとでも思ったわけ』
「それはないですけど、何かあったのかと……」
『なんかあったとして、お前に電話して解決することある?』
「それもそうですね……」

嫌味を言われたところで言い返す気力もない。私はベッドの上でごろんと仰向けになり、張り詰めた息を大きく吐き出した。とにかく、お土産の心配ができるくらいには元気そうだ。

「あの、怪我とかしてないです……?」
『……お前ナメてんの?』
「訊いてみただけです怒らないでください」

こんなやり取りでほっとしてしまう自分がいることに、少し笑えた。考えてみれば、五条先輩の声を聞くのは二週間ぶりだ。夏休み前後は京都に行くことになったと報告して、ふうんと気のない返事をもらったのが最後だった。正直、東京にいないことすら忘れられていると思っていた。

「……えっと、京都土産のことなら大丈夫ですよ。夏油先輩に教えてもらって、五条先輩の好きそうなお菓子もばっちり買ってきたので」
『は? 傑には連絡したのかよ』
「え、はい」
『…………』
「……え!? ちがうんですちがうんです! 五条先輩はおうちが忙しそうって聞いて、だからわざわざ連絡しないほうがいいかなって思って!」
『……あっそ』
「忘れてたとかそんなんじゃなくてですね!?」
『別になんも言ってねーだろ!』

あれ、なんだか五条先輩にだけ意地悪したみたいになってしまった。まさか忘れるどころかそのことばっかり考えてましたなんて、口が裂けても言えない。夏休みの課題でわからないところを教えてもらいたくて夏油先輩に電話したはずのに、「もう何がいいか悟に直接訊きなよ」と苦笑いされたくらいなのだ。ちなみに課題は全然進まなかった。

『お前、明日任務?』

まだ山積みのままの課題のことを頭から追い出していると、五条先輩が言った。電話の向こうでうっすらと人の話し声のようなものが聞こえる。テレビの音?

「明日はオフですが……」
『……じゃあいまからちょっと付き合えよ』
「え? 何にですか?」
『BSで海外ドラマ一挙放送してるから、見る』
「いまから!? もう日付変わりますよ!?」
『眠くねーんだよ』
「でも先輩、明日も早いんじゃ……」
『いいから早く下降りてテレビつけて一分以内に』
「えええ」

五条先輩の言うことはいつだって唐突だ。そして私はそれに抗う術を持たない。おかげで真夜中に寮の階段を全速力の忍び足で駆け降りる羽目になった。

急いでつけたドラマは、その時点でもう三話まで終わってしまっていた。話が全然わからない。何より、真っ暗な談話室のソファで膝を抱えて、五条先輩と電話しながら、あらすじも知らない海外ドラマを見ているというこの状況自体、訳がわからなかった。

「え、この女の人って誰ですか?」
『あーそれ敵だけど実は主人公の生き別れの妹』
「なんでさらっとネタバレするんです!?」
『だいたいわかるじゃん流れで』
「そういう問題じゃ……!」

五条先輩はすでに一度見たことがあるらしく、素知らぬふりでとんでもないネタバレを次々に放り込んでくる。もうラストの展開ほとんどわかっちゃったよ。これ本当に朝まで見るのかな。だいたい明日も任務なのに寝なくていいんだろうか。どれもこれも、口に出したら怒られそうなので黙っている。

「……一回見たことあるやつなのに、つまんなくないんですか?」
『別に』
「そういうものですか……あっ! 私この俳優さん好きです」
『お前こういうのが好み?』
「背が高くて手足長くてアクションも上手だし、格好良くないですか?」
『……ふーん』

小声でくだらないことを話している間も、ドラマは延々と続いていく。途中で私の携帯の電池が残り少なくなって、部屋から充電器を取って戻ってきても、五条先輩は電話を切らなかった。通話料やばいんじゃないかな。いっぱい稼いでるからどうってことないのか。「この後こいつ裏切るんだよな」「だからやめてくださいよ」さらりと呟く低い声に、何度目かわからない返事をする。

電話だと、なんだかいつもよりうまく話せる気がして不思議だった。いま五条先輩がどんな顔をしているのか、すぐ隣にいるみたいに想像できた。全然ちがう場所にいるのに、確かに同じ時間を生きて、同じものを見ている。そんなちっぽけなことで、胸の奥がほんわりとあたたかかった。

気がついたら窓の外はすっかり明るくなって、夏の朝の透明な日差しが、誰もいない談話室をきらきらと照らし始めていた。眩しさに目を細めながら、生き別れの妹と再会を果たした主人公の泣き顔をぼうっと眺める。結局、最終話まで見てしまった。

「先輩、ねむくなってきました……」
『あ? ……あー、もう朝か』
「ねていいですか……」
『……俺も風呂入って目覚ますか』
「やっぱり眠かったんじゃないですか」
『眠くねーよお前みたいな雑魚と一緒にすんな』
「眠たいのに雑魚とか関係あります……?」

五条先輩の言うことはいつだって無茶苦茶だ。無茶苦茶だけど、なんか楽しかったな。バレないように小さく笑って、私は談話室のソファにぺたりと横になった。上下の瞼がいまにもくっつきそうだ。ふにゃふにゃな唇をなんとか動かして、五条先輩、と呼びかける。電話の向こうは静かだった。先輩も寝ちゃったのかな。まあいいか。

「――先輩、ちゃんと無事に、帰ってきてくださいね……まってます、から……」

少しの沈黙の後、誰に言ってんだよ、と笑った声を遠くに聞いて、私はついに意識を手放した。

 

 

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