16

ドォンという轟音とともに夜空が瞬き、人垣が揺れた。
大会の開始を告げる、大輪の花火だった。

(や、やばい。はぐれちゃった……)

はっと我に返ったときにはもう遅かった。次々と流れてくる人の波に押されて、先輩たちが進んでいった方向からみるみるうちに離されてしまう。

「痛った……!」

誰かに思い切り足を踏まれた。下駄を履いた足の甲に、土まみれの靴底がざらりと擦れる。みんな上を見るのに夢中で、ぶつかろうがなんだろうがお構いなしなのだ。

もみくちゃにされながら、なんとか人気のない脇道に逃れて、ようやくひとつ息をつくことができた。
目の前に続く細い路地には、自分の影だけが頼りなく伸びている。再び人混みに身を投じる気にもなれず、そのまま奥へと進んだ。熱気に当てられて火照った頬を冷ましたくても、通り抜ける風は生ぬるい。背中を汗の粒が流れ落ちる。気持ち悪い。

お祭りの音から遠ざかるようにふらふらと歩いていくと、古ぼけた神社の石段に行き着いた。大人ふたりがギリギリすれ違えるくらいのこぢんまりした階段の続く先は、鬱蒼とした鎮守の森だ。てっぺんにくすんだ朱色の鳥居が建っていて、その向こう側は真っ暗で何も見えない。それがぽっかりと開いた大きな口のように思えて、恐ろしかった。

(こんなの、見慣れてるはずなのにな……)

鳥居に背を向けて、石段に腰掛ける。先輩たちに連絡を入れなければいけない。携帯を取り出すと、案の定着信が入っていた。硝子さんと夏油先輩から二件ずつ。メールも来ている。それから、五条先輩からの着信が、一件。

硝子さんと夏油先輩にそれぞれ折り返したが、発信音も鳴らずに切れてしまった。回線が混んでいるのかもしれない。ふたりにはとりあえず『人酔いしてまったので少し休んでいきます。先に楽しんでてください』とメールを入れた。どのみち、すぐには合流できそうにない。最悪ひとりで帰らなければいけないかも。

五条先輩にもメールを送ろうか迷って、やめた。さっき見た光景が、ずっと脳裏にちらついていた。

(あの人、彼女かな……)

そりゃあ彼女くらいいるよね。五条先輩だもん。一瞬しか見えなかったけれど、綺麗な人だった。浴衣もとても似合っていた。私なんかよりずっと――

「……あー、最低……」

呟いたら、どん底だと思っていた気分はさらに深く沈んでいった。膝を抱えた腕の中に顔を埋める。あんなに気にかけてもらいながら軽率にはぐれてしまった自分も、あの女の人のことをひとりで勝手にぐるぐる考えてしまう自分も、全部最低だった。彼女だったらなんだっていうんだろう。私にはこんなことを思う権利すらないのに。

不意に、隣に放り出していた携帯が震えた。メールなら一度で鳴り止むはずだが、振動はしばらく続いている。青白い画面に浮かんだ文字は『五条悟』だった。

「……、…………、むり……」

震える親指を通話ボタンの上で散々さまよわせた挙句、私はばちんと携帯を閉じた。ダサいストラップごと、石段の上にそっと置き直す。急かすように点滅し続けるランプを眺めているうちに、どんどん胸が苦しくなった。それでようやく、自分が息を止めていたことに気がついた。

どんな顔で、どんな声で、何を喋ればいいのかわからない。きっといつも通りにできない。先輩、怒ってるかな。怒ってるよね。いい加減に愛想も尽きる頃かもしれない。謝って許してくれなかったらどうしよう。嫌われてしまったらどうしよう。
もう二度と、笑ってもくれなくなったら。

やがて携帯が眠るように沈黙すると、辺りはまた静かになった。

「……痛いなあ」

さっき踏まれた足は、薄暗がりの中でもわかるくらい赤黒く腫れ始めていた。あんなに思いっきり体重かけなくてもいいのに。そうっと下駄を脱いで、湿った土の上に足を下ろす。傷を洗うものも冷やすものも何もない。時を追うごとに増してくる痛みを抱えて、私はまた膝の上に額を預けた。

……私はきっと、どこかで自惚れていたんだろう。
ずっと憧れるだけだった人の近くにいることができて、名前を呼んでもらえて、一緒に映画を観たり、ご飯を食べたり、そんな取るに足らないことだけで、すっかり舞い上がっていたのだ。

もしかしたら私も、彼にとっての何者かに、なれるんじゃないかって。

(なんて、ばか……)

閉じた瞼の裏に、冴え冴えとした青が浮かんだ。情けなくて恥ずかしくて、いっそこのまま消えてしまいたいくらいなのに、思い出すのはその鮮やかな色ばかりだ。忘れろ。忘れてしまえ。祈るように念じながら、おでこをぎゅっと強く膝に押し付けて、きつくきつく目をつむった。

 

「――ナマエ」

どのくらいそうしていたのかわからない。名前を呼ばれた気がした。ぼんやりとしたまま顔を上げる。すぐ目の前に、すらりと長い二本の脚があった。

「おいシカトか」

心臓が止まるかと思った。聞き慣れた低い声を辿れば、青い瞳に行き当たる。大きな身体を丸めて、不機嫌そうにポケットに手を突っ込んで、こちらを覗き込んでいる、その人。

「ご、じょ……」
「んなとこで寝んな。犬かよ」
「なん、なんで」
「こっちの台詞。どこをどう歩いたらこんなとこ辿り着くわけ? 逆に天才だわ」

探すのクッソ時間かかった、と悪態をつきながら、五条先輩は携帯を取り出した。チッと小さく漏れた舌打ちに、滑稽なほど体が強張る。なんで、どうして。どうしよう。

「つーかお前なんで連絡、」
「ごめんなさい」

思っていたよりずっと声が震えた。先輩の大きな目がさらに丸く形を変える。それも見ていられなくなって、膝の上で握った拳に視線を落とした。だめ、泣きそう。

「……ごめんなさい……」

蚊の鳴くような声で繰り返す。俯いた頭の上で、五条先輩が大きな溜息をついた。それからぱちぱちと携帯を操作した後、勢いよくその場にしゃがみ込む。同じ高さまで降りてきた端整な顔に、ぎゅっと皺が寄った。

「……まだ気持ち悪いの?」

まっすぐに目を見られて、胸が詰まった。頭の中にはいろんなことが浮かんでいるのに何ひとつ言葉にならなくて、ぶんぶんと首を振った。

「じゃあなんで泣いてんの」
「ない、泣いてない、です……」
「は? 明らかに泣いてんじゃねーか」

これは違うんですよ。だってまだ目から溢れてない。一粒でも零さないように、さっきから必死になって瞬きを我慢している。先輩を困らせたくない。これ以上、最低な自分になりたくなかった。
五条先輩はまだ何か言いたそうにしていたけれど、折り畳んだ膝の上でふんと鼻を鳴らしただけだった。代わりに私の浴衣の裾に手を伸ばして、長い指でちょいとつまみ上げる。

「あーあ、土ついてるし。クリーニング高えぞ」
「……はい……」
「大事なもんなら汚すなって、」

ぱしぱしと乱暴に土をはたき落としていた手が、不意に止まった。その視線は私の足に注がれている。あっと思って咄嗟に足を引いたけれど、間に合わなかった。

「……何それ」
「これは、あの、さっきちょっとだけ踏まれ、て」
「…………」
「でもちゃんと、歩けるので」

大丈夫です、と続けた声が掠れた。何もかもが言い訳じみている。五条先輩は黙ったまま、おもむろに立ち上がって私に背を向けた。

「っ、まって」

黒いシャツの裾を掴んだのは、ほとんど無意識だった。

 

 

 

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