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「失礼しまーす……」

そろり。教室の引戸を半分だけ開けて中を覗き込むと、気怠げなブラウンの瞳と目が合った。三つ並んだ机のうち、他の二つは空っぽだ。中にいるのが硝子さんだけだと分かって内心ほっとする。扉の残り半分を開け放った私を、硝子さんはきょとんとした顔で見つめた。

「珍しいね、二年の教室来るの」
「あー、えっと、任務の連絡で……」
「私? じゃないよね」
「あの、……五条先輩、です」

自分でも意識しないうちに、声を潜めてしまう。その名前を口にした途端、なんだかとても心が落ち着かなくなった。花火大会の後からずっとそうだ。あの夜に置いてきたはずの気持ちが、いまだもやもやと足元にまとわりついている、そんな心地がした。本人としばらく顔を合わせていないのがせめてもの救いだった。

「五条なら……」
「いえ! いらっしゃらないなら大丈夫です! メール入れておくので!」

硝子さんの言葉を待たずに早口で捲し立てる。担任の先生に言われて伝えに来たはいいものの、できれば会いたくはなかった。いやどうせ明日の任務で否応なく会うことになるのだけれども。いそいそと教室を去ろうとした私の頭に、ずんと重たいものが乗っかったのはそのときだった。

「ここいるけど」
「!?」
「明日お前となの?」

――五条先輩、だ。細く見えるくせにずっしりと重量のある腕が、頭頂部からぐいぐいと私を押さえつけてくる。私の頭は肘置きじゃないんですよ。呼吸を止めてしまいそうになるのをなんとかこらえて、さっとその腕の下から抜け出した。平常心、そう平常心だ。ここに来る前にお手洗いの鏡で練習した通り、にっこりと口角を持ち上げる。

「は、はい。行き先は吉祥寺だそうです。よろしくお願いします」
「ふーん……」

私の顔を見下ろして、五条先輩は鼻先だけで答えた。俺ひとりでよかったのに、って思ってるんだろうなあ。そんな勝手な想像だけで心が曇っていく。「じゃあ詳細は補助監督さんからのメールを」見てくださいね。言いながらさりげなく後退しようとしたら、今度は手のひらがぽすんと頭に乗ってきた。に、逃げられない。

「なん、でしょうか」
「……いや相変わらずチビだな〜と」
「先輩が大きすぎるだけかと……」
「もっと食わないと縦も横も増えねーよ?」
「よ、こ!?」
「お前ぺらっぺらじゃん」

ぺらぺら、とは。五条先輩の視線を追って自分の身体を見下ろしたところで、不本意ながらその意味を瞬時に理解した。そもそも五条先輩には二度も抱えてもらったり背負ってもらったりしているわけで。ということはつまり、私の体重とかいろいろがすでにバレているわけで……だめだ考えたら死にたくなってきた。

「はい五条セクハラ〜」
「はあ? どこが?」
「それがわからないからお前はクズなんだ」
「だってあんま軽いと戦闘中すぐ吹っ飛ばされんだろ」
「ナマエちゃん、嫌なことは嫌って言ってやったほうがいいよ。こいつホントにわかってないからね」
「あ?」

硝子さんの呆れ果てた声に、五条先輩は眉を吊り上げてこちらを見た。かちりと目が合う。息が苦しくなる。こんなことで傷つくなんて、私は心までぺらぺらになってしまったのかもしれない。頬の筋肉を最大限に使って無理やり唇の端を持ち上げると、今度は正面から顔を掴まれた。

「変な顔すんな」

おかしいなあ。ちゃんと練習してきたはずなのに、全然うまくできないや。

 

翌日、任務先の吉祥寺駅前に着くと、平日だというのにたくさんの人で賑わっていた。さすがは住みたい街ランキング上位だ。道行く人たちがみんなオシャレに見えてしまうのは、私の目の錯覚だろうか。

「道の上に屋根ついてます……!」
「アーケード商店街ってやつだろ」
「あーけーど!?」
「……恥ずかしいからやめてお前ほんと」

行き交う人々の頭の上から写真を撮ろうと躍起になって携帯を掲げていたら、後ろから伸びてきた五条先輩の手にひったくられた。カシャ。私が目一杯に背伸びしたよりも遥かに高い位置で、人工的なシャッター音が鳴る。

「あ……」
「はい」

差し出された携帯の画面には、私が撮りたかった通りの風景がばっちり綺麗に写っていた。それなのに、とてつもなく胸が締め付けられるのはどうしてだろう。花火大会の日、五条先輩と同じ高さで見た景色がふっと脳裏をよぎる。ありがとうございます、と絞り出すように言って、携帯を受け取ろうとしたときだった。

先輩の手に、指先が、触れて。

「――っ!!」
「は?」

それはもう電光石火のごとき速さで、私は手を引っ込めた。体が勝手にそう動いたというほうが正しい。これ、きっと脊髄反射ってやつだ。変なところだけ冷静な頭でそう考えた直後、プラスチックがコンクリートにぶつかる乾いた音が響いて、五条先輩がぽかんと口を開けた。

「いや何やってんだよ……」
「……あ、え、っと、電気、静電気が、その」

本当に何やってるんだろう私。もたもたしている間に、長い腕で足元から携帯を拾い上げた五条先輩がネックストラップを広げて私の首にかけてくれる。香水だろうか、花のような香りがふわりと鼻先を掠めて、息を止めた。

「……お前さ、昨日からなんかおかしくねえ?」
「きっ、気のせいですよ」
「拾い食いでもした?」
「さすがにそれは」

訝しげにこちらを覗き込んでくる五条先輩に向かって、へらりと笑ってみせる。けれども先輩の眉間の皺は和らぐどころかいっそう深くなるし、つやつやの唇はぎゅっと真一文字に引き結ばれてしまった。なんでだろう、また私、うまく笑えてないのかな。

「……もしかして怒ってんの」

歪んだ口元から出てきたのは、疑問系かどうかもわからないくらいの低いトーンだった。怒ってる? 私、怒ってるみたいに見えてたんだろうか。もしかしてめちゃくちゃ感じ悪かった? 昨日から?

「え、お、怒ってないですよ全然ゴキゲンですよ!? なんか怒るようなことありましたっけ!?」
「…………わかんねーならいい」

慌てて否定したけれど、サングラスの奥の瞳にどう映ったかはわからなかった。私なんかより、五条先輩のほうがよっぽど不機嫌そうに見える。そんな顔しないでほしい。私だって、自分がどこかおかしいことはわかっているのだ。五条先輩の前でいつもどんな風に笑っていたか、そんなことも思い出せないくらい。

「……ごめんなさい。私、感じ悪かったですか……?」
「別に悪かねーよ」

——五条先輩の特別な誰かになれなくたっていいと、そう思った気持ちに嘘はなかった。身の程だって痛いくらいわきまえている。けれどもやっぱり姿を見たら、声を聞いたら、目を合わせたら、胸の奥がじくじくと疼くのを止められなかった。

ごくりと飲み込んで笑う。なんでもないと自分に言い聞かせる。それを繰り返していけば、いつか“好きな人”じゃなく、ひとりの尊敬する先輩として、この人を見ることができるんだろうか。それっていつなんだろうか。わからない。上手な恋の終わらせ方なんて、私は知らない。

「……だから変な顔すんなって」
「わっ」

大きな手で私の頭を乱暴に掻き回して、五条先輩は晴れた空の下へと歩き出した。白銀の髪が夏の日差しをきらきらと反射する。青い瞳が振り向く前に、追いかける。

 

駅からしばらく歩いたところに、その映画館はあった。今回の任務地、築ウン十年というレトロな建物だ。ずいぶん前に閉業していて、いまは人の出入りもない。にも関わらず、夜な夜な映画の音と女性の声のようなものが聞こえると付近で噂になって、高専に調査依頼が来たということらしい。三階建ての外壁は所々剥がれ落ちて、建物全体を呑み込むように鬱蒼と蔦が生い茂っていた。

立ち入り禁止の黄色いチェーンが張られた正面入り口からぐるりと裏へ回り、あらかじめ預かっておいた鍵で通用口を開けた。軋みながら開いた扉の向こうは、ひんやりとした空気と湿った匂いに満たされている。五条先輩の後について中に入ると、臙脂色の絨毯からふわふわと埃が舞った。

「一丁前に四つもスクリーンあるな」

懐中電灯の明かりを壁の館内図に当てて、五条先輩が言った。一階はいま私たちがいるロビーと売店、二階と三階にこぢんまりしたスクリーンが二つずつあるようだ。

「手分けして見てみます?」
「ポンコツのくせに偉そうなこと言うじゃん」
「す、すみません……」

事前にもらった資料の情報を信じるなら、今回の呪霊はそこまで強力ではないはずだ。仮にひとりで祓えなくても、きっと五条先輩と合流するまでの時間稼ぎくらいはできる。というか、そうでなくてはここに来た意味がない。そのために毎日鍛錬を積んでいるのだ。

五条先輩は胡乱な目で私を見ていたが、呪具をぎゅっと握りしめてみせると、「……なんかあったら叫べよ」と言って先に階段へ向かった。

「俺は三階行くから」
「あ、はい」

……これは、任せてもらえたと思っていいのかな。
2段飛ばしで上がっていく五条先輩から少し遅れて、私も古びた階段に足をかけた。

 

 

 

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