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「待って、ください、おねがい」

行ってしまう。なんて言ったらいい? どうしたらいい? わからないのに、口からはぽろぽろと意味のない言葉ばかりが溢れ出る。振り返った先輩の顔は怖くて見られなかった。

「今度こそちゃんとついていきます、絶対はぐれません、コケても無視していいです、から、だから、」

――行かないで。

喉が締め付けられて、最後まで言えない。シャツを握る指先は氷のように冷たい。早く立って、荷物持って、歩かなきゃ、

「ちげーよ馬鹿」

ふわりと風が起こった。恐る恐る前を見ると、五条先輩がこちらに背中を向けて屈んでいる。訳もわからず呆ける私に、先輩はちらりと横顔を見せて短く言った。

「早くして」
「え……」
「三秒以内。さーん、にー、いーち、」

急なカウントダウンに、考える間もなく慌ててその肩に手をかけた。「下駄は自分で持てよ」と言いながら、私を背負った先輩が一気に立ち上がる。一瞬であまりに現実味のない高さまで上がるので、目眩がしそうだった。

「せ、先輩」
「しょうがねーだろ、これが一番手っ取り早いんだから」
「でもこれは」
「俺のおんぶに文句あるってか?」
「……だって、彼女さん、は」
「はあ? んなもんいないけど」
「でもさっき」
「さっき? ……あー」

見てたのかよ、と五条先輩は何かを思い出すような素振りで空を仰いだ。それから一度私をゆすり上げると、ゆっくりと歩き出す。

「あれ“窓”。前に任務で一緒になっただけの知り合い」
「まど……」
「しかも俺らより一回りは上だし、子持ちだし」
「え、……そう、なんですか」
「そーだよ」

……彼女じゃないんだ。じゃあ、いいのか。いいのかな。右手に下駄をぶら下げて、先輩の肩を掴む左手に少しだけ力を込めた。熱に浮かされているみたいに頭の芯がぼやけて、考えがまとまらない。

背中、大きいな。五条先輩の目線ってこんなに高いんだな。そりゃあ私なんて子供に見えるかもな。取り留めのないことばかりが思い浮かぶ。目の前で、白銀の髪がふわふわと揺れていた。開いては消えていく花火の色を映し取ったそれがまるで虹のように淡く光るのを、ただぼうっと眺めた。

「……先、輩」
「んだよ」
「……なんで、来てくれたんですか……?」

しばらくして、ようやく絞り出せたのはそれだけだった。迷子になったら置いてくって言っていた。怒ってないのかな。呆れてないのかな。
ちょっとだけ後ろを向いた先輩と視線が絡まって、すぐに逸らされる。

「……お前がいなくなったら、誰が俺のジュース買ってくんの」

前を見たままぶっきらぼうに言い放つその声がひどく優しく聞こえて、胸が痛かった。そんなの自分で行ってくださいよとか、軽口すら叩けない。だって口を開いたら最後、やっと引っ込んだ涙まで一緒に出てきてしまいそうだった。

情けない自分を、恥ずかしい自分を見られたくない。嫌われたくない。なのに、離れたくない。私の頭の中はいま、そんなことばっかりだ。これが恋だというのなら、なんて浅ましくて欲深い気持ちなんだろう。

「——五条先輩、」

ただの後輩でも、パシリでも、所有物でも、ガキでもなんでもいい。そばにいられるなら。だって、もう、こんなにも。

「好きです……」

夜空で一際大きな花火が弾ける。五条先輩は足を止めて、暗い空に散っていく炎の花びらを見上げて、それからゆっくりとこちらを向いた。

「……なんか言った?」

間近に見たその瞳があんまり綺麗だったから、もうそれだけでよかった。なにも、と返すと、先輩はまた前を向いて歩き出す。一粒だけ溢れてしまった涙は、黒いシャツの背中に落ちる前にそっと拭った。

伝わらなくていい。このまま、花火と一緒に散ってしまえばいいと願った。

「あっ……!?」
「あ?」
「……あの、げた、下駄が片方どっか行っちゃいました……!」
「は!? ざっけんなよクッソどこだよわかんね……もう降りろよお前!」
「ごめんなさいごめんなさい落とさないで!!」

 

五条先輩に背負われて着いた先は、小高い場所にある展望台のような広場だった。会場の中心部から少し離れているせいか人影はまばらだ。穴場、っていうやつだろうか。

「これは派手にやられたねー」
「いつもすみません……」

誰が持ってきたのか、七、八人は余裕で座れるくらいのレジャーシートの上で、硝子さんに足を診てもらった。夏油先輩と五条先輩は展望台の淵に巡らされた柵に跨って、花火をバックに変顔の写真を撮ろうと試行錯誤している。たぶん暗すぎてうまくいかないと思うし、危ない。

「はい、できた」
「ありがとうございます……!」

ふたりが落ちやしないかと無用な心配をしているうちに、赤黒く内出血していた私の足は綺麗さっぱり完治した。なんなら元の肌色より白くなっている気がする。反転術式って美白効果もあるんですか。感動の眼差しを向けた私に「そんなのないよ」と笑いながら顔を上げたところで、硝子さんはぴたりと動きを止めた。

「あれ。泣いた?」
「え」
「目がちょっと赤い」
「あっ……いや、あのこれは……」
「五条にいじめられたの?」
「ちが!!」

思わず大きな声が出てしまった。慌てて両手で口を塞いで、五条先輩のほうを見やる。自撮りに夢中で聞こえていないようだった。よかった。

「……います……」

二回りほどボリュームを落として続けると、硝子さんはふうんと興味なさげに呟いた。本当に興味ないんだろうなあ。

「……ま、自分から探しに行くくらいだしね」

硝子さんが独り言のように呟いたとき、向こうの空で矢継ぎ早に花火が上がり始めて、会話はそこで終わってしまった。きっとこれがクライマックスだ。自撮りを諦めたらしい先輩たちもいそいそと戻ってきて、五条先輩は私の隣にどすんと勢いよく腰を下ろした。広々としていたレジャーシートの上が途端に窮屈になる。

「治った?」
「当たり前。誰が診たと思ってる」
「さっすが家入センセー」

茶化して笑う五条先輩のサングラスに花火が映り込んで、万華鏡みたいにきらきらと光った。その横顔をぼんやり見上げていたら、頭を掴まれて「花火見ろよ」と無理やり前を向かされた。こっち見てなかったのに、なんでバレたんだろう。

「視線がやかましいんだよお前は」
「……すみません」

振り仰いだ夜空を埋め尽くすように、数え切れないほどの炎の花が咲く。こんな景色を五条先輩の隣で見ているなんて、夢だと言われてもきっと信じてしまう。いまこの瞬間に感じるものすべて、音も匂いも何もかも、切り取ってずーっと残しておきたいくらい、愛おしい。

「……きれいですねえ」
「……ん」

来年もまた、みんなで来たいなあ。今度は七海と灰原も一緒に。その頃には、私ももっとましな後輩になれているだろうか。手を引いてもらわなくても、心配をかけずに済むくらいには。

「そろそろ帰ろうか。早めに出ないと電車に乗れなくなる」
「おー」

最後の大きな冠菊が地上に垂れ落ちていくのを見送って、夏油先輩が立ち上がった。それを合図にみんなで帰り支度を始める。私もゴミをまとめて近くの集積スペースまで運んで行った。高台から見下ろす道には、すでに帰路につく人たちが溢れ始めている。申し訳ないけれど、帰りも硝子さんに手を繋いでもらおう。

「硝子さ、」
「傑〜、そっち混んでるからこっちから行こうぜ」

声を掛けようと振り返った私の横を、背の高い影が通り過ぎた。
五条先輩だ。そう思ったときには、手を引かれていた。

「!? っわ、」

私の右手を握り込むように大きな手が掴んで、前へ前へとどんどん引っ張っていく。歩幅について行けなくて足がもつれた。それでも先輩の足は止まらない。

「五条せんぱ、ちょっ、待っ……!」

転がるように追いかける私を見下ろして、先輩はべっと舌を出した。

「だっさ」

――ああ。この想いを封印するには、やっぱりまだ時間がかかりそうだ。だからいまだけ、ほんの少しだけ、この手を握り返してもいいですか。

 

 

 

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