15

駅周辺の大混雑をどうにか切り抜け、屋台の立ち並ぶ通りをぶらぶら進んでいるときだった。

「……あ」

ポップな文字が踊る暖簾を目にして、つい足を止めた。繋いだ手の先で硝子さんが振り返る。丸い瞳をくるりと動かした彼女は、ああ、と納得したように呟いた。

「りんご飴ね」
「あの、買ってきてもいいですか?」
「いいよ。好きなの?」
「好きっていうか……」

再び、派手な暖簾の下に視線を巡らす。透明な飴を纏った真っ赤なりんごたちが、白熱灯の明かりを受けてガラス細工のようにきらきらと光っていた。お祭りといえば屋台、屋台といえばりんご飴。そんな安直な憧れである。そう白状すれば、硝子さんは一言、なるほどねと言って微笑んだ。

「おーいクズども」

硝子さんが呼びかけると、少し先を歩いていた五条先輩と夏油先輩が振り向いた。相変わらずのあけすけな呼び方だ。それで通じてしまっているのがまたなんとも言えない。すれ違う人がぎょっとしてこちらを見るのがわかったけれど、先輩たちは何ら気にしていないようだった。

「どっちかナマエちゃんとりんご飴並んで」
「いやお前が並べよ」
「私はちょっと外の空気を吸ってくる」
「さっきからずっと外だよ硝子」
「ナマエちゃん、どっちのクズがいい?」
「えっ」

……いや、そんないい笑顔で訊かれましても。咄嗟に二人のほうを見てしまった後で、慌てて首を振った。特に五条先輩なんか、明らかにめんどくさそうな顔で頭を掻いている。『ガキンチョのお守り』なんて言われてしまった手前、易々とお願いできるはずもない。ブチギレられる。

「だっ、大丈夫です! ひとりで、」
「ダメ。あとで合流できなかったら大変だし、ナマエちゃんナンパとかにホイホイついて行っちゃいそうだから」
「ナンパなんかされないですよ私」

とんでもないとぶんぶん手を振った私に、「じゃあ私がついてくよ」と言ってくれたのは夏油先輩だった。

「夏油先輩、」
「他にも買いたいものがあれば付き合うよ」

夏油先輩の手がさらりと私の肩を抱いて、行列の最後尾へと促す。あまりにも自然な動作だったから断る暇もなかった。見上げれば、にっこりと鮮やかに微笑んだ顔がある。有無を言わせない笑顔だった。

「悟は焼きそば買ってきてくれるかい? 私たちの分もよろしく」

後ろに投げかけた夏油先輩の視線の先は、大きな身体に遮られてよく見えなかった。

 

「……夏油先輩、付き合わせちゃってすみません」
「悟には頼みづらいって顔してたから」
「う」

違ったかな?なんて素知らぬ振りで訊いてくる夏油先輩はたいそう意地悪だ。そんなすっとぼけた顔することある?

「ち、ちがいません、けど……」

りんご飴の列は思いのほかするすると進む。意味ありげに口の端を持ち上げてみせた夏油先輩に小さく答えて、あとはカラコロと鳴る下駄をひたすら眺めた。考えていることがすぐ顔に出てしまう癖を早く直さなくちゃならない。それでなくても私の周りは、他人の心の機微に敏い人ばかりなのに。

「それに、こんな人混みで女の子をひとりにしたら危ないしね」
「おんなのこ」

思わず顔を上げてしまったら、今度は軽快に笑われた。だって、女の子なんて可愛らしい単語、自分にはどうもしっくり来なくてくすぐったい。

「……五条先輩は、ガキンチョって言ってましたけど」
「悟の言うことをあまり真に受けないほうがいいよ」
「同じようなこと、七海にも言われました」
「だろうね」

なんでですか、と尋ねる前に、レジのところまで辿り着いてしまった。小銭を払って、ぽってりと丸いりんごが刺さった竹串を受け取る。目の高さまで持ち上げてくるくると回転させると、ステンドグラスのように屋台の灯りを透かして輝いた。

「きれい……」

いまにもとろけだして滴り落ちそうなその丸い輪郭にそっと舌を這わせる。甘ったるい砂糖の味の向こうで、爽やかなりんごの香りが広がった。

「美味しい?」
「美味しいです! 先輩も一口どうですか?」
「いや、私は遠慮しておくよ」
「あ……そうですよねすみません」

食べかけでは失礼だったかなと慌てて手を引っ込めると、夏油先輩は困ったように眉を下げた。

「ああごめん、そういう意味じゃないんだ」

どうにも私の頭の中は筒抜けらしい。たまに、夏油先輩は人の思考を読む術式でも隠し持っているんじゃないかと疑いたくなってしまう。

「……ナマエは素直だからなあ」
「え?」
「ほら。早く食べないと、悟が戻ってきたら取られちゃうよ」
「五条先輩って甘いの好きでしたっけ?」

聞き返したら、曖昧な笑みだけが返ってきた。うん?

そういえば五条先輩は、と見渡すと、屋台で焼きそばを受け取っているらしい白い頭がすぐに見つかった。なんの飾り気もない服装をしているにも関わらず、やたらと目立っている。行き交う女の子たちがちらちらと視線を送るのが遠目にもわかった。

高専にいると時々わからなくなるけれど、五条先輩はやっぱり特別なのだ、いろんな意味で。十数メートルと離れていないその場所が、急にとてつもなく遠く感じた。きらきらのステージを世界の端っこから眺めている気分だった。なんだか見ていたくなくて体ごと背を向けると、夏油先輩の黒い瞳と視線がぶつかる。

「そうだナマエ、次は私と手を繋ごうか」
「え、」
「エスコートには多少自信があるんだ」

言って、夏油先輩は一歩こちらに近づいた。エスコート、って。切長の目が俄かに不敵な光を帯びるのを、私はぽかんと口を開けて見ていた。なんだか、距離が、近いような。あでやかに微笑んだ顔と、差し伸べられた手とを見比べる。五条先輩のそれよりも分厚くて、筋肉質な手のひら。

「……えと、あの、」
「傑」

答えるより早く、後ろから声が掛かった。振り返ると、五条先輩がこちらへ歩み寄ってくるところだった。向かい合った私たちを見て、形の良い眉が訝しげに顰められる。夏油先輩は差し出していた手を自然な仕草でひらりと翻すと、なんでもないという風に軽く振ってみせた。

「何してんのこんなとこで。飴買えた?」
「別に、悟が心配するようなことは何もないよ」
「俺が何を心配すんだよ」

五条先輩は焼きそばのパックを三つ重ねて、片手で危なげなく持っていた。私の手じゃ絶対にこんな持ち方できない。薄いけれど、骨張っていて、指が長い。男の人の手だった。

――五条先輩も、この手で女の子をエスコート、したりするんだろうか。そんなことをほとんど無意識に考えたとき、不意にこちらを向いた五条先輩とばっちり目が合った。

「……なに」
「あ、な、なんでもないです!!」

別にやましいことなんてないのに、自分でもびっくりするくらい体が跳ねた。思わず後退りした私の肩が後ろを通りかかった人にぶつかるのと、それを見ていた夏油先輩が声を上げるのはほぼ同時だった。

「あ! ナマエ、危な――」

その人は相当に酔っ払っているようだった。ぶつかった拍子に覚束ない手元のプラスチックカップが大きく揺れて、中身のビールがこちら側へこぼれ出るのを視界の端で捉えた。

あ、浴衣、汚しちゃったな。

やけに冷静な頭にそんなことがぽつりと浮かんだ直後、りんご飴を持ったままの手を強く掴まれた。私の身体に触れる寸前だった黄金色の液体は、まるで見えない膜に阻まれるようにぴたりと止まった後、すぐに滑り落ちて地面に染みを作る。

「……ほんっとお前さあ……!」

珍しく焦ったような声が降ってきた。自分の手首を握る大きな手を見て、何が起こったのかようやく理解する。——五条先輩の、術式。

「ご、ごめんなさい……」

ぱちぱちと瞬きを繰り返している間に、ぶつかった相手は千鳥足で離れて行ってしまっていた。カップの中身が減ったことにも気がついていないようだった。

「気をつけろっつったろ」
「ありが、」

お礼を言うつもりで顔を上げて、ひゅっと息を呑んだ。思ったよりもずっと近くに五条先輩の顔がある。触れ合った皮膚が急激に熱を帯びた。

「あ、ありがとうございます! もう大丈夫です」
「……、」

慌てて身を引こうとしたものの、叶わなかった。先輩がぎゅっと手に力を込める。なんで。嫌だ、絶対いま顔赤いのに。見られたくないのに。丸いサングラスの向こうから青い瞳が覗く。お祭りの熱気と喧騒の真っ只中にあって、その青だけがただただ吸い込まれてしまいそうに静謐だった。

「せ、先輩、手、はなしてくださ、」
「それ」
「え?」
「ちょーだい」

返事をするよりも早かった。私の手ごと口元に引き寄せたりんご飴に、先輩はがりりと齧り付いた。白い歯が薄玻璃のような飴細工を破ると、果実の甘やかな香りが溶け出す。伏せられた長い睫毛から目が離せなかった。

「……甘」

大きな一口を含んだまま、五条先輩は唇を歪ませて呟いた。じゃあなんで食べるんですか。そんなことも聞けないでいる私を残して、何事もなかったように離れていく。一瞬だけ露わになった舌の赤が、瞼の裏に焼きついて消えてくれなかった。

「悟、そろそろ行こう。始まりそうだ」
「喫煙所寄って、硝子拾ってくか」
「ナマエ、ちゃんとついて来るんだよ」

振り返った夏油先輩に、掠れそうな喉で「はい」と返すのが精一杯だった。頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されているみたいだ。齧り取られたりんごの実の黄色が、宵闇の中で毒々しいほど鮮やかに浮かび上がって目が痛んだ。

……私、なんだか変だ。胸の奥がもやもやして、気持ち悪い。五条先輩の言葉や仕草や視線ひとつに、どうしようもなく揺さぶられてしまう。蒸し暑い夏の夜のせいだけじゃなくて、息苦しい。

前はこんなんじゃなかった。パシられたって貶されたって平気だった。たまに優しくしてもらえたら素直に嬉しかったし、それだけでよかった。だって五条先輩は憧れの人で、私はとっくに振られてて、だからそれ以上なにかを望むことも期待することも、あるはずがなかった。願ったって叶うわけもないのに。そんなことちゃんとわかっているのに。

浅い呼吸をどうにか整えて顔を上げる。先輩たちの姿はずいぶん先に遠ざかっていた。のろのろと歩く私はすぐに何人もに追い越され、一歩進む間にもどんどん距離が開いていく。早く追いつかないと本当にはぐれてしまう。もつれそうな足を叱咤して、歩みを早めようとしたときだった。

(――女の、ひと)

人波の合間から見えた五条先輩の隣に、見知らぬ女性の姿があった。藍色の浴衣を纏って、長い髪を結い上げたその人は、親しげな笑顔を浮かべて先輩と言葉を交わしている。すらりと背が高く、遠目にも綺麗な人だとわかった。

考える余地なんかいくらでもある。高専以前からの友達とか、親戚とか、仕事関係の人とか。そもそもただの後輩である私には関係のない話だ。頭ではすべてわかっている。けれど、足が動かなくなった。

往来の真ん中で立ち止まったままの私を、すれ違う人たちが鬱陶しそうに見やっては通り過ぎていく。そのうち、どんと肩を押されてようやく呼吸を取り戻した。一瞬だけこちらを向いた五条先輩と目が合った、気がした。それもすぐに人混みに阻まれて見えなくなった。

右手に持っていたはずのりんご飴も、いつの間にか失くしてしまっていた。

 

 

 

>> 16


夏油先輩はこういうことを(わざと)平気な顔でやってのける男だと思います。