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「帯、よし。髪、よし」

ひとつひとつ、指でなぞって確かめる。鏡の中の自分の顔は、なんだかとても強張っていた。両手を頬に当ててぐにぐにとほぐした後で、珍しくチークを刷いていたことを思い出す。危ない、出かける前から全部取れちゃうところだった。

「浴衣、初めて着たなあ……」

上半身を限界まで捻って、背中で花の形に結んだ帯をなんとか半分だけ鏡に映した。たぶん、綺麗にできている、はず。他にも気になる箇所はたくさんあるけれど、どれだけ頑張ったところで残念ながら後ろ姿までは確認することができない。編み込んでスプレーで固めた後ろ髪をそろりと撫でて、どうか崩れてくれるなよと祈りを込めた。

夏油先輩が誘ってくれた花火大会の当日を迎えた。忙しい先輩たちはどうにか任務の隙間を作ることができたらしいのに、一年生で都合がついたのは私だけだった。灰原は地方任務に飛ばされて、七海は用事があるとか言って断ったようだ。本当かどうかは怪しいと思っている。あの人、騒がしいところ苦手そうだもんなあ。

時計を見ると、集合時間が近づいていた。最低限の荷物だけを入れた巾着をベッドから取り上げる。さすがに今日は“ダサい”ネックストラップを付ける気にならないので、携帯もその中にしまった。

部屋を出ようとして、最後にもう一度だけ未練がましく鏡を覗き込む。
藍の地に桔梗の花が染め抜かれたこの浴衣は、母のお下がりらしい。らしい、というのは人から聞いた話だからで、実際に母が着ている姿は記憶にはない。けれどもなんとなく側に置いておきたくて、高専の寮に移るときに家から持ち出してきたのだった。

(少しは大人っぽく見えたり、するかな……)

しゃらしゃらと涼しげな衣擦れの音が鳴る。さらりとした布地は心地良く肌に馴染んで、少しだけ背筋を伸ばしてくれるような気がした。

 

「え、なんで洋服なんですか」

寮の共有スペースに降りると、硝子さんと夏油先輩は私の姿を見て「おお」と物珍しそうな声を上げた。

「ナマエちゃん浴衣着たの? いいね、可愛い」
「似合ってるよ」
「え、え、先輩たち着ないんですか……?」
「着ないよめんどくさいじゃん」
「そもそも持ってないしね」

事もなげに言われて愕然とする。花火大会って老若男女みんな浴衣を着るものじゃないんですか。だって雑誌の花火大会特集に載ってるモデルさん、みんな浴衣だったし。尋ねると、「情報が偏りすぎ」と笑われた。

「そんな……!」
「いいじゃないか、華があって」

夏油先輩はにこにこと朗らかだ。いやよくないですよ。これじゃあ私だけ気合い入れまくってるみたいじゃないか。いまからでも戻って着替えようかと考えたとき、背後に誰かが立つ気配がした。

「華ぁ? いいとこタンポポだろこんなん」

振り返ると、愛想のない黒いTシャツ姿の五条先輩がこちらを見下ろしていた。ほんとにみんな洋服じゃん、いよいよ恥ずかしくなってきた。青い瞳で私の全身についと視線を走らせて、先輩は意地悪く唇を吊り上げた。

「金魚柄に兵児帯のほうが似合うんじゃね?」
「それって完全に幼児向けですよね!?」
「……ふーん」

私の反論を無視した五条先輩は、おもむろに浴衣の袖を掬い上げてしげしげと眺めた。背中を丸めた先輩との距離が急に詰まって、思わず息を止める。……どうしよう。着付け、ちゃんとできてるかな。髪飾りは曲がってないかな。そんなところまで見られているはずもないのに、帯の結びや後れ毛の一本まで気になってしまう。居たたまれなくなって、裸足の爪先をきゅっと丸めた。

「よく見たら結構いいやつじゃん。お前にはもったいねーな」
「は、母の、お下がりで……」
「かき氷ぶちまけて汚すなよ」
「気をつけま、す……」

袖を掴んでいた手がするりと離れていく。目を伏せた私の横を、五条先輩は足早に通り過ぎた。ふわりと風が起こって、ゆるく巻いた前髪を揺らす。顔を上げることができなかった。

(……やっぱり、似合ってなかったかなあ)

ぼんやりと思って、はっとした。私は何を期待してたんだろう。似合わねえって笑われなかっただけマシじゃないか。うん。

 

花火大会の会場の最寄駅は、すでに多くの人でごった返していた。人の波に押し流されるように電車を降りて駅の外へ出る。人垣から頭ひとつ飛び抜けている五条先輩と夏油先輩を目印になんとか進んで、少しだけ開けた場所に落ち着いた。

「大丈夫かい?」
「な、なんとか……」

ふうと大きく息をついた私の顔を、夏油先輩が心配そうに覗き込んでくる。こういうとき、背の高い人はいいな。かといって硝子さんもするすると器用に人の合間を抜けて歩くので、単に私がポンコツなだけなのかもしれない。

「やっぱり人が多いな。ナマエ、はぐれないように気をつけて」
「は、ガキかよ。おてて繋いでてあげましょーか〜?」

こちらに手を差し出してくる五条先輩の顔は明らかに面白がっている。そんなの、いろいろ恥ずかしすぎて繋げるわけないじゃないですか。反射的に、いりませんよ、と跳ねつけようとしたところで、しかしはたと思い止まった。

初めての花火大会で勝手がわからないうえ、まっすぐ歩くのもままならない今、はぐれる可能性は不本意ながら非常に高いと言わざるを得なかった。自分で結論づけておいて情けなくなる。けれども本当にそうなったら先輩たちには大きな迷惑をかけてしまうし、何よりどんなに馬鹿にされるかわかったものではない。

……死ぬほど恥ずかしいけれど、ここは我慢してお願いするべきなのかもしれない。肉を切らせて骨を断つ作戦である。

ちらりと視線を上げる。そういえば、五条先輩が前に教えてくれたやつ――確か、こういうときは“素直に『うんお願い』って言っとけば男は満足する”。いまこそ実践するときでは。

「……お、お願いします……?」

葛藤の末、おずおずと手を重ねようとすると、五条先輩の口から「は」と短い吐息のような声が漏れた。え、なんでそんなに驚くんだろう。僅かに見開かれた瞳と目が合って、指が触れる寸前、ぱっと手を引っ込められた。着地点を失った私の手は虚しく宙を泳ぐ。

「え?」
「……やっぱヤダ」
「は、あの」
「お前の手、ベタベタしそうだもん」
「べた……!? し、しないです!」

ひどい。自分から言ったくせに。それに手だって毎日ちゃんと石鹸で洗っている。呆然と自分の手のひらを見つめると、隣で硝子さんが盛大に噴き出した。笑い事じゃない。

「繋いであげればいいのに〜」
「冗談。ガキンチョのお守りなんざごめんだわ」
「ガキンチョって、一個しか違わないじゃん」
「迷子になったら置いてくから」

好き放題に言い捨てて、五条先輩は夏油先輩と連れ立って人波の中に踏み込んでいってしまった。

硝子さんの言う通りだ。年はたった一個しか違わないのに。七海や灰原には『ガキ』なんて絶対言わないのに。大人びた浴衣を着ても、髪を綺麗に結いても、やっぱり私は子供扱いのまま。

「しょーがないから、私と繋ぐ?」

硝子さんが悪戯っぽい笑みでこちらを見ていた。いいなあ。私もこんな風に綺麗に笑えるようになれたら。胸がちくちく痛むのを掻き消したくて、差し出された白い手をぎゅうと握った。

「……ベタベタします?」
「しないよ」

 

 

>> 15


ガキはどっちなんだかね〜と思っている硝子さん。