よいこのためのラブソング

コンビニを出ると、途端に冷たい木枯らしが襲いかかってきた。駐車場の隅に吹き溜まった枯れ葉が一斉に舞い上がり、やがてくるくると踊るようにして落ちてくる。僕は上着の襟に顔を埋め、買ったばかりのホットレモネードのペットボトルをポケットの中で握りしめた。信号が青に変わると同時、目の前の横断歩道を大股で渡る。

とっぷりと日の暮れた東京の街は、しんと静かな空気に包まれている。とうに終電の時刻も過ぎて真夜中に差しかかろうというこの時間、通りを歩く人の姿はまばらだ。
冬の底へと向かう十二月半ば、一日に占める夜の割合は日に日に大きくなり、比例して外気温もぐんぐん下がりつつあった。明日には雪でも降るかもしれない。湿り気を孕んだ冬風を正面から浴びながら、手の中のレモネードだけが燃えるような熱を伝えてくる。帰ったらホットミルクを淹れてやろうか、と濃紺の夜空にぽっかりと浮かぶ丸い月を見上げて考えた。そうして大通りから一本逸れた細い路地を歩いていくと、すぐに見慣れた公園に行きついた。

「にゃーん」

不意に聞こえてきた声のほうへと視線を巡らせれば、砂場の脇に据えられたベンチの足元、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる人影があった。後ろから近づく僕の気配にはまるで気づいていない。特に足音を忍ばせることも歩調を緩めることせず、すたすたと歩み寄ると、「にゃーん」とまた同じ声がした。人間の。

「何やってんの」

呆れとともに吐き出した息が真っ白く煙る。小さな頭がぴくりと動き、緩慢に僕を振り仰いだ。そうして僕の姿をそのガラス玉みたいな瞳に収めると、赤い唇からもくもくと白い息を吐きながら、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「みて、ごじょう。にゃんこだよ」
「にゃんこじゃないよソレ。よく見て」

彼女が熱心に話しかけていた相手を見やる。冷たい風に吹かれて震えているのは、どこからか飛んできたのだろうコンビニのレジ袋だった。拾い上げようと手を伸ばした矢先、ぴゅうと通り抜けた強い風に煽られて、逃げるように公園の奥へと舞っていってしまう。なるほど、酔っ払いの目にはそれが暗闇の中を駆ける動物みたいに見えるのかもしれなかった。

「あっ、にげた」
「いい大人が真夜中に一人でレジ袋に話しかけてるなんて、軽くホラーだよ」
「れじ?」
「ほら立って。帰るよ」

いまだしゃがみ込んでいる彼女の手を取って強引に立ち上がらせる。マフラーも巻かず、寒風に晒されるままの白い首筋へと、幾分かぬるくなったレモネードのペットボトルを宛てがった。「ひゃー」と色気も何もない悲鳴を上げ、彼女は楽しそうにころころ笑っている。およそ年上とは思えない、少女みたいにあどけないその笑い方に、胸の奥をくすぐられるような心地がした。

この人をこんな風に迎えに来るのは、もう何度目だろうか。すぐに思い出せるだけでも、春夏秋冬、あらゆる季節の記憶がある。最初は確か、僕がまだ学生だったとき。今日と同じように寒い冬の日で、地方出張から帰ったタイミングを見計らったかのように、真夜中に携帯が鳴った。
待ち合わせ場所は決まってこの公園だった。時にはブランコに揺られながら、時にはベンチでぼんやりと月を見上げながら、彼女はいつもここでひとり、僕が来るのを待っている。確かな約束なんてものはなく、ただ彼女からの〝待ってるよ〟というたった一言だけで、僕は毎度馬鹿みたいに素直にここへやって来る。

「今日はまたえらく酔ってんね」
「あのねえ、めずらしいワインが入っててねえ、歌姫さんがね、いっぱい飲もーっていってね」
「楽しかった?」
「うん、たのしかった」
「そりゃよかった」
「へへ」

なぜか得意げに笑う彼女の前に屈んでやると、彼女は躊躇う素振りもなく僕の背中へ身を預けた。酒で温まった小さな体を背負い、いつもの道を歩き出す。もう何度も通った、きっと目を瞑っていたって辿り着ける、彼女のアパートへの道。僕の背中で、彼女はふんふんと上機嫌に鼻歌を歌う。流行りのラブソングのサビのところばかりが繰り返し、寝静まった住宅街に響いた。

「あのさあ」
「んー?」

等間隔に立つ街灯の明かりの下を、わざとらしいほどにゆっくりと進んでいく。ゆるく首元へ回された彼女の細い手が蛍光灯に白く照らされ、またすぐに暗闇へ沈んだ。

「そろそろ僕に捕まる気ないの?」
「んー」

何度目かもわからなくなった問いに、彼女もまた何度目かわからない曖昧な返事を寄越した。へたくそな鼻歌が止むことはない。

学生時代から彼女はそうだった。いつだってふらふらと覚束なく、捉えどころがなく、真昼に浮かぶ月みたいにどこか希薄で現実味がなかった。学食で安い焼肉定食を向かい合って食べたその夜から急に音信不通になり、ようやく行方がわかったときには地球の裏側をひとりきりで放浪していたなんてことも、一度や二度ではなかった。そういう自由で不確かな人だった。

ひとつ所に留まっていることが窮屈なのだと彼女はよく言った。気まぐれに近寄ってきては子供じみた無邪気さで人を振り回すくせに、いざ手を伸ばして捕まえようとした途端、蝶々のようにひらひらと指の隙間を舞って飛んでいってしまう。近所の公園も、南米の山の奥も、彼女にとってはその足が届くというだけで等しくただの目的地でしかないのだ。そこに誰がいようと、いまいと。

「この僕がこーんなに甲斐甲斐しく尽くしてんのに」
「いつもありがとうねえ」
「そういうのじゃないんだよなあ」

わかってるくせに、と茶化して言ってみても、彼女はやっぱり気の抜けた声で笑うだけだった。

「じゃあせめて、こんなにへべれけになるまで飲むのやめてくんない?」
「どうして?」
「僕が来れないときに、他の男に頼られたらたまんないから」
「五条がいないときはこんなにならないよ」
「どういう理屈だよ」
「わたしはねえ、五条が来てくれるってわかってるときしか、酔っ払わないんだよ」

知らなかったでしょう、と悪戯をこっそり打ち明けるように彼女は囁いた。冷えた僕の耳朶を、ふわりと熱い吐息が掠める。いつも透き通るように凛としているこの人が、酔ったときにだけ奏でる甘ったるく濁った声に、僕は滅法弱い。

「……ねえ」
「んー?」
「やっぱ付き合ってよ」
「やーだ」
「あ?」

いまの絶対オッケーの流れだったろ。
思わず舌を打った僕のことなどお構いなしに、彼女はレモネードをゆっくりと飲み下した。人の背中でよくもまあ悠々と。琥珀色の液体に温められた彼女の口からひときわ白い吐息が溢れ出し、柑橘と蜂蜜の甘い匂いとともに僕の目の前を通り過ぎていく。

「五条ものむー?」
「飲まないよ酔っ払い」

悔し紛れに彼女の太腿を支える手の力を緩めたら、きゃーきゃー喚きながら彼女はぎゅうと僕の首に縋りついた。こんなにも簡単に近づく距離なのに、最後の隙間を埋めるピースが見つからない。この人を振り向かせて繋ぎ止めるだけの何かを、僕はずっと探し続けている。

「五条はいい子だねえ」

とろりとした声音と同じ温度の指が僕の髪を撫でた。さっき見た猫の幻影を追いかけているのか、そうっと髪の合間に埋められた手のひらはいつまでも離れない。

「いい子にさせてんのは誰だよ」
「……わたし?」
「よかった、自覚だけはあるみたいで」

その気になれば、いまこの瞬間にだって、彼女のすべてを僕は奪うことができる。それでもこうしてされるがまま、優しく従順な振りを続ける理由を、この人だってとうにわかっているはずだ。

何度も何度も訪れた狭いアパートの部屋で、僕はこれから彼女のためにホットミルクを作り、彼女が夢に落ちていくのを見守って、小さなソファで縮こまって眠る。笑ってしまうくらいに平和な、決まりきった夜が今日も僕らには用意されている。

「いい子の五条くんに、そろそろキスくらいさせてくれてもよくない?」
「だーめー」
「こんだけ長い間おとなしく待ってんだからさあ、何かご褒美ないとやってられないんですけど」
「……でも、まだ、だめなの」

珍しく、彼女は僅かに言い淀んだ。もしかしてもう眠たくなってきたのだろうか。心を許してくれるのは結構だが、あんまり無防備にいられるといっそ腹立たしくすらなってくる。せめて嫌味のひとつくらい言ってやろうと、肩に乗っかっている彼女の横顔を窺った。思いがけず、じっとこちらを見つめている黒い瞳と視線が絡まる。新月の夜のようにまっさらに透き通った、僕の好きな彼女の目だった。

「――だって、まだもうちょっとだけ、私のことで困っててほしいから」

そう言って照れくさそうに笑った彼女の白い吐息が、僕のそれと混じり合って夜闇に消えていく。頭の奥で、安っぽいラブソングのハミングが鳴っている。はーあ、と僕は思いきり溜息をついた。こんなのもう、朝までいい子でいられるわけないだろ。

よいこのためのラブソング

「……やっぱあとでキスするわ」
「だめだってば!」

 

 


2023年12月のイベントで無配にしていたお話です。