からまるカラメリゼ

「どんだけかけんのソレ」
「え?」

呆れたような声で言われて顔を上げた。握りしめた細長い小瓶の先から、赤い液体がぽたりぽたりと垂れ落ちる。酸味と辛味の混じった独特の匂いに鼻をくすぐられて、くしゃみが出そうになった私は唇をへの字に曲げてこらえた。

「なんです?」
「なんです? じゃなくてさあ。ソレだよソレ、タバスコ!」
「ああ」

五条さんが長ったらしい指で私の手元をさす。ほかほかと湯気の立つスパゲティの山の上、私が振りかけたタバスコの赤がこれでもかと散っていた。さっきからやけに見つめてくると思ったら、これを見ていたのか。

「からいナポリタンが好きなんです」
「ナポリタンを作ってくれた人に失礼だと思わない?」
「おいしく食べるのが一番のお礼じゃないですか?」

答えると、五条さんのつややかな唇の端がぎゅんとすごい勢いで下がった。くしゃみをこらえているわけではなく、いかにも不機嫌ですというのを前面に押し出している感じだった。
五条さんは私の向かいのソファ席にどっかりと腰かけて、というかふんぞり返って、私に負けず劣らず口をへの字に曲げていた。さっきの任務でよほどお疲れなのか、注文したパフェがなかなか出てこないので待ちくたびれたのか、ただの気分か。たぶん最後だな。

私は溜息をついて、そっと厨房のほうを振り返った。五条さんの機嫌が悪いときは、甘いものか面白い話で気を逸らすに限る。あいにく後者は私には難しいので、いちごパフェに望みを託すしかない。
夕飯どきを過ぎたファミレスの店内はがらんとしていた。ガサガサと大袈裟な音を立てて新聞を広げるおじさんと、ドリンクバーで粘る学生グループ、遅めのディナーをとっているらしい家族連れが離れたテーブルについているだけで、店員もみな裏へ引っ込んでいるようだ。五条さんのパフェが運ばれてきそうな気配はなかった。

「だいたいさあ、ナポリタンって甘いケチャップ味が売りなんじゃないの? それを個人の嗜好のために根底から覆しちゃうのって人としてどうかと思う」
「何もそこまで言わなくても」
「アイデンティティを否定されたナポリタンの気持ち考えてみろよ」

あ、これは重症かもしれないな。五条さんの指先がいらいらとテーブルを叩くのを見て静かに悟る。ここ数か月の中では一番の爆弾不機嫌だ。上層部との会議の後と同レベル。隣県での任務から高専へ帰る途中、五条さんがお腹が空いたと言うので急遽ロードサイドのこのファミレスに入ったのだが、もしかしてファミレスの気分じゃなかったのだろうか。料理を注文するまでは普通だったような気がするんだけど。

(ナポリタンの気持ち……)

一応、皿の上をじっと見つめてみるも、当然何も伝わってはこない。真面目に考えるのがばからしくなって私は早々に諦めた。五条さんの気分なんて特に理由もなくころころ変わるから、いちいち気に病んでも仕方がない――というのが学生時代から彼を知る者たちの総論である。きっとパフェを食べれば気分も落ち着くだろうと無視を決め込んでフォークを手に取ると、タイミング悪く今度はテーブルの上でスマホが震えた。

「……何。仕事の呼び出し?」
「いえ、たぶん私用かと……なんだろう」

ぽこんと浮かんだ通知欄には同僚の名前が表示されていた。最近赴任してきたばかりの男性補助監督だ。配属された席が私の隣だったため、何かと教えているうちに仲良くなって、たまに他愛もないメッセージのやり取りをしている。そういえばさっきもメッセージが来ていた。五条さんの手前、スマホを触るのは控えていたけれど、急ぎの用件だろうか。中身を確認しようとしたとき、五条さんの手元でボチャボチャと派手な水音がして私は動きを止めた。

「……五条さんこそ、それ」

白いカップになみなみ注がれたコーヒーの中へ、角砂糖が五つばかり沈んでいく。いっそ開き直って砂糖水でも飲んでいたほうがまだ潔いように思われた。

「コーヒーを淹れてくれた人に失礼だと思わないんですか」
「あー?」

ガチャガチャと銀色のスプーンで音を立ててコーヒーを掻き混ぜ、けれど五条さんは一向に口をつけようとしない。ぐるぐるぐるぐる、砂糖まみれのコーヒーがひたすらに渦を巻き続けている。

「こんなの機械で淹れてるに決まってんじゃん、ファミレスだよファミレス。何を期待してんのさ」
「……」

ああ言えばこう言う、とはまさにこの人のことだと思う。

「早く食えば、そのタバスコパスタ」
「それ五条さんが言います?」

行き場とタイミングを失ったフォークでぐるぐるぐるぐる、ナポリタンを巻き取りながら、私はまた溜息をついた。パスタってどれくらいの量を巻くのが適切なのかいまいちわからない。早くいちごパフェ来ないかな。

「……お前さあ」

からん、と高い音が鳴る。五条さんは動かし続けていたスプーンをようやくソーサ―に戻すと、テーブルに頬杖をついて呟いた。傷ひとつない白い頬が、大きな手のひらに押し潰されてやわらかく形を変える。

「はい」
「この間の、ほらなんだっけアイツ、最近赴任してきた補助監督……」
「茂部田さんですか?」
「そうそれ。そのモブと」
「めちゃくちゃ失礼な略し方しますね」
「行ったの?」
「はい?」
「……なんか究極のナポリタンがどうのって」
「ああ、はい」

よく覚えてましたね、と私が言うと、五条さんは別にと素っ気なく答えた。

茂部田さんというのはまさしく私の隣の席に配属された彼のことで、私がナポリタン好きという話の流れから、彼の行きつけの洋食屋さんに連れて行ってもらうことになったのだった。それをたまたま飲み会で一緒になった五条さんに話した。「おいしかったら報告しますね」と言っていたのにすっかり忘れていた。

「先週、食べに行きましたよ」
「ふーーん。どうだったの」
「普通に美味しかったですけど」
「……あっそう」
「お店のインスタのリンク送りましょうか」
「いい、いらない」

聞いてきたわりにあまり興味はないらしい。まあ五条さんならきっともっとおいしいお店をたくさん知っているだろう。実際、五条さんからはよくいろんな高級店の領収書が経費処理に回ってくる。誰と行っているのかは知らない。

「あのさ」
「はい?」
「僕、すんげーうまいイタリアンの店知ってるんだけど」

ほら、やっぱり。私はナポリタンを巻き取る手を止めて五条さんを見た。

「はあ。さすがですね」
「広尾にある、なんか有名店らしいんだけど、ナポリタンが名物でさ」
「へえ」
「……今度お前も連れてってや、」
「いや結構です」

食い気味に答えると、五条さんは「はあ?」と素っ頓狂な声とともに頬杖から顔を上げた。この五条悟の誘いを断る人間がこの世に存在するなんて信じがたい、と声に出さなくても心から思っているのだろうことが全部わかる。たぶん一字一句間違っていない。
私は半眼になって彼のコーヒーカップを見やった。五条さんの言葉を借りれば、アイデンティティを否定されたコーヒーの気持ちで。

「五条さんの味覚は信用ならないので……」
「いやいやマジでうまいから。食わないと後悔するってマジで、ホントに、絶対」
「ええー……」
「ナポリタン好きじゃんお前」
「好きですけど、でも五条さんと二人はちょっと」
「なんっでだよ」
「なんでと言われましても……」
「モブとは行ったのに? そもそもいまだって僕と二人で飯食ってるじゃん!」
「茂部田さんですよ」

次に茂部田さんに会ったときに間違って呼んでしまいそうだからやめてほしい。

五条さんは「なんで」とか「モブと僕どっちが大事なの」とかややこしいことを喚いている。そんなこと言われても、最近知り合ったばかりの同僚と学生時代からの先輩、二人を比べることなんかできっこない。
それに、これは本人には内緒だが、こんな人でも私は五条さんのことをけっこう尊敬しているのだ。なんだかんだ仕事には手を抜かないし、たまに……いや頻繁に意地悪だったり奔放だったり無神経だったりするけれど、ちゃんと優しいところがあることも知っている。その怪しい目隠しの下にどんな眼差しを隠しているのかも。だからこそ、軽い気持ちで距離を詰めることは難しい。

「なんていうか……五条さんと二人きりで食事するのってなんか、そわそわするんです」

言いながら、私はちらっと五条さんを窺った。また「はあ?」という顔をされるかと思ったけど、彼は予想外にぽかんと口を開けて呆けていた。

「……は?」
「その、自分でもよくわからないんですけど。五条さんの前で大きな口開けるの恥ずかしいし、きれいに食べなきゃって思うのにフォークの動かし方忘れちゃったりするし、味だって全然しなくて……」
「……もしかして、それでタバスコかけまくってたの?」
「……」

こくん、と力なく頷くと、五条さんは吐息のような声で何それ……と呟いた。そんなの私が聞きたい。いつからか、気づいたらこうなっていたのだ。記憶にある限りでは高専一年生の冬、食堂で五条さんと二人きりになったときが最初だった。あのときも私はナポリタンを食べていて、頬についたソースを五条さんが指で拭ってくれて、それで『意外と世話焼きな人なんだな』って思って……ああ思い出しただけで顔が熱くなる。

私は慌てて頭を振った。とにかく、いまだに仕事の場ですらこうなのだから、プライベートで食事になど行ったらどうなるかわかったものではない。しかも五条さんが行きつけにするような高級店。きっと緊張で何も喉を通らなくなってしまう。考えれば考えるほど恐ろしい。

「だから、食事に行くなら誰か誘って複数人で……」
「あーもしもし、すいません。今週の金曜日の十九時から二名、予約できます? ……はい、五条で」
「ちょっと!?」

私が止めるのも聞かず、五条さんは淡々と連絡事項を告げると電話を切ってしまった。傍若無人すぎる。

「予約したから」
「私の話聞いてました?」
「金曜、秒で仕事終わらせて集合。残業厳禁」
「なんで目隠し取るんですか」
「わかった?」
「えー……」
「タバスコいっぱいかけてもいいから」
「……作ってくれる人の気持ちは?」
「おいしく食べるのが一番のお礼だろ」
「ええー……」

こうなった五条さんはもう私の言うことなんか聞いてくれない。ああ言えばこう言う、そんな人なのだ。だけど久しぶりに見た青い瞳はやっぱりきれいで、五条さんはさっきの不機嫌など嘘みたいに楽しそうに笑っていて、私はそれだけでもういいか、という気分になってしまった。五条悟の誘いを断れる人間は、本当にこの世に存在しないのかもしれない。

「……服にソース飛ばしても許してくださいね?」
「いいけどせめて白い服はやめな」
「フォークの使い方おかしくても笑わないでください」
「それは努力する」

これ絶対笑われるんだろうなあ。諦めに近い気持ちを抱きながら、たったいま勝手に決められた金曜の予定をカレンダーに登録するべくスマホを開く。案の定、茂部田さんからメッセージが届いていた。『今週の金曜、飲みに行きませんか』……これはお断りしなければいけない。

「あのさ」

不意に名前を呼ばれた。断りの文句を打ち込む手を止め、顔を上げる。五条さんはやけに真剣な顔をしてこちらをまっすぐ見ていた。ビー玉みたいな瞳が二度、三度と忙しなくまばたきをする。

「はい?」
「あー、その」
「はい」
「……」
「五条さん?」
「……お前このあと時間あっ」
「大変お待たせいたしました~! ジャンボいちごパフェでえす」

元気な声とともに、私と五条さんの間に細長いガラスの器が割り込んできた。その名の通り、そびえる塔のように大きないちごパフェだった。てっぺんを飾る真っ赤な果実越しに五条さんと目が合う。

「……大きいですね」
「……ああ、うん、ソウダネ」

はああ、と五条さんが盛大に溜息をつく。ふてくされて頬杖をついた横顔は少年みたいにあどけない。ふと学生時代を思い出して、私はパフェの影に隠れて小さく笑った。
フォークにぐるぐる絡まったままのナポリタンと、砂糖まみれのコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。

からまるカラメリゼ