花とルーペ

「そういえば、ご結婚されるんですね」
「んぇ?」

運転席からぱっとこちらを振り返った伊地知くんの顔には、まるで屈託がなかった。黒のセダンを高専の車寄せにぴたりと停車させた直後のことだ。私はといえば、心地よい揺れと任務後の疲労感に誘われてうとうとと舟を漕いでいたせいで、ひどく間抜けな返事しかできなかった。

「おめでとうございます」
「えーと……?」

私はしばし伊地知くんの朗らかな笑顔を眺めた。私、結婚どころか付き合ってる相手もいないんですけど。最後に彼氏がいたのなんて……、いや過去を振り返るのはやめよう。じゃあうちの従姉妹か? でもあの子まだ小学生だしなあ。

夢現の頭を差し引いてもまったく祝われる心当たりはないが、この曇りない眼差しを見るに、からかわれているわけではなさそうだ。だいたいこの人にそんな芸当ができるはずもない。きっと何かの勘違いか人違いだ。伊地知くんてば、そそっかしいところあるよね。ふふっと笑みをこぼした私の余裕は、しかし次の一言で完全に吹き飛んでいった。

「でもびっくりしましたよ。まさかミョウジさんと五条さんがご結婚されるなんて」

……んん?

確かに学生の頃から仲が良かったですもんねえ、なんてしみじみと言っている伊地知くんの言葉がよく理解できない。もしかして私まだ寝てるのかも。

「……ごめん伊地知くん、もう一回言って」
「え? ですから、ご結婚を……」
「誰と、誰が?」
「ミョウジさんと、五条、さん、が……」

言いながら、伊地知くんの顔からはどんどん表情が抜け落ちていった。ちょっとすみません、それってどこのミョウジさんですか?

花とルーペ

「あ、おかえり〜」

息せき切って駆け込んだ応接室に、五条悟はいた。
腹立たしいほど長い脚、胡散臭い目隠し、にやにやと笑う口元、それぞれを順番に見やり、私は確信した。こいつが犯人だ。

「さあ五条くん。説明してもらおうか」
「えーなになに? 怖い顔〜」

呼吸を整える間も惜しんで、ソファにどっかり腰掛ける長身に全速力で近づいた。私がどんなに凄んでみせようがこの男、愉快そうな顔を隠しもしない。やだーナマエったら息切らしちゃって、そんなに僕に会いたかったの照れるなあ。しゃあしゃあと言い放つ口をグーで塞いでやれないのが心底残念である。

「私とあんたが結婚するって噂になってるんですが」
「うん、だって僕がみんなに話したんだもん」
「んなこたァわかってんですよ」

何がおかしいのか、五条はぶははと下品に笑った。

伊地知くんの車を飛び出してからが大変だった。会う人会う人に好奇の、あるいは憐れみの目を向けられ、時には質問攻めにされ、五条の居場所を尋ねれば一様に生温かい笑顔で見送られた。つまりみんながみんな“そのこと”を知っているのである。知らないのは私ばかりだ。なにこれドッキリ?

「言っとくけどドッキリとかじゃないよ」
「人の思考を読むな」
「まあまあ、とりあえず座って。お茶でも飲む? お煎餅もあるよ」

促されるまま、私は渋々と五条の向かいに腰を下ろした。聞いてもいないことをぺらぺらと喋り続ける五条はいつも通りに軽薄で、特段変わった様子もない。ドッキリじゃないならなんなのだ。夫婦のふりして極秘任務とか? 高専関係者まで騙して? そんな任務ある?

「あとこれ書いて、ハンコ押してね」

ローテーブルにぴらりと一枚の紙が広げられた。任務の書類だろうか。五条の署名がぱっと目に入る。こいつ、ひん曲がった根性しているくせに、まっすぐで綺麗な字を書くんだよなあ。妙なところで感心しながら、一緒に差し出されたボールペンを何気なく手に取った。えっと、妻になる人の氏名…………うん?

「それねー、こないだ任務先でもらってきたご当地婚姻届。可愛いでしょ?」
「ハァン?」

変な声が出た。五条がまた噴き出したのは無視して、穴が空くほどその紙を見つめる。なるほどよくよく見れば、余白にはカラフルな小花柄が散っているし、ピンク色の文字で『婚姻届』と書いてある。コンイントドケ。つまりこれに署名してハンコを押して役所に出したら、私と五条は晴れて法的に夫婦に……、

「いやちょっと待って結婚ってほんとにそういう結婚!?」
「結婚にそういうもこういうもなくない?」

私は思わずペンを放り出した。可哀想になんの罪もない黒のボールペンは、こつんこつんとテーブルの上を跳ねた後で床に転がり落ちる。ごめん、しばらくそこにいて。

「は、ちょ、なんで? どんな任務?」
「はあ? 任務じゃないよ」

なに言ってんの、と呆れた様子で五条は溜息をついた。まさか五条悟にこんな顔をされる日が来ようとは。
五条は偉そうに組んでいた長い脚を解いたかと思うと、テーブル越しに勢いよくこちらへ身を乗り出した。反射的に身体を引いた私の顔を、下から掬い上げるみたいに覗き込んでくる。くいっと持ち上がった唇は無駄に艶めいていた。ちょっとどこのリップ使ってるのかだけ教えてほしい。

「まー僕たちもそろそろかなって」
「行間すっ飛ばすのやめてもらえます?」
「だってナマエ、もうすぐ誕生日でしょ」
「……そうだけど」
「二十八で結婚したいって言ってたじゃん」

誰がそんなことを、と咄嗟に否定しようとして、止まった。なんだかそんな会話をした記憶がうっすらとある気がする。あれはたぶん何年か前の忘年会かなんかのときだった。珍しく五条が隣に座ってきて、ああめんどくさいのが来ちゃったなって思って、それで。

『ねえ、ナマエは何歳で結婚したい?』
『えー? まあ、二十八とか……?』
『へえ』

……うん、言ったかもしれない。どんな話の流れだったかも定かでないが、適当に答えたことだけは間違いなかった。だって任務帰りで眠たかったから。きっとまともに考えもしなかったはずだ。

「ね、言ったよね?」
「言った、かもしれないけど、だからなに……?」
「だから結婚しようよ」

あまりにあっけらかんと告げられて絶句した。論理が飛躍しすぎて場外ホームランだよ。まさか酒の席での戯言を本気に取るようなピュアな心の持ち主でもあるまい。そもそも私たちってそういう間柄じゃないし、五条にはちゃんと然るべき相手がいるはずだし。やっぱりどこをどう切り取ってどの角度から眺めてもおかしい。五条悟、ついに気が触れたか?

「勘違いしないでほしいんだけど、僕だって気まぐれでこんなこと言ってんじゃないよ」
「はあ」

また思考を読まれた気がして、意図せず声が低くなってしまう。私の胡乱げな視線には気がついているはずなのに、五条はさらに口元の笑みを深めた。

「なんかさー、ナマエとだったらいいかなって思ったんだよね」
「まじでまったく意味がわかんないです」

それを人は気まぐれと呼ぶんじゃないのか。困惑する私をよそに、五条はするりと目隠しを引っ張り下ろした。この世のものとも思えない、澄んだ青い瞳で私を見る。こいつの心の中もこれくらい綺麗だったらいいのにと何度思っただろう。いまのところその願いは叶いそうにない。

「……あのさあ、気づいてるか知らないけど」

五条の顔が目の前まで迫ってきていた。近いんですけど。吐いた息がその白い肌に触れてしまいそうで、思わず呼吸を止める。それをわかっているらしい五条が、したり顔でわざと大きく息をつくのも憎たらしかった。

「ちょっと。離れてもらえます?」
「お前、昔っから動揺すると敬語になるよね」
「は?」
「車に乗ったら子供みたいにすぐ寝ちゃうし」
「……そんなことは」
「あと、嫌いなものは最初に片付けるタイプ。いっつもピーマンから食べてる」
「それはいいじゃん別に!」
「靴は左足から履くし、寝坊した日はポニーテールだし、耳朶の裏にほくろがある」
「なっ……!?」
「他にもいろいろあるけど、聞く?」

私はたまらず右耳を手のひらで覆った。勢い余ってばちんといい音がする。なんだかよくわからないけど、とてつもなく恥ずかしいことを言われた気がした。靴を履く順番だとかほくろだとか、いまこの瞬間まで自分だって気がつかなかったようなことを、どうして五条が知ってるんだ。

「なんでそんなこと……!」
「さあ」

五条は軽やかに笑って、そっちじゃないよ、と手を伸ばした。ぬるい指先で左の耳朶に触れて、裏側をやわく撫でる。こんなの、別に知りたくなかったのに。

「――なんでだと思う?」

囁くように言って、五条はゆるりと目を細めた。その瞳にほんの一瞬だけ浮かんだ柔らかい光を見つけてしまったことを、私は心底後悔した。ああもう、本当に知りたくなかった。

「さっ! いますぐハンコ押すか、一ヶ月ムダな抵抗した後で押すか、好きなほう選んでいいよ」

僕って心が広いなあ。もはやなにも言えなくなった私に、五条がA3の紙をぐいぐいと押しつけてくる。最悪だ。一ヶ月後の自分の姿を軽率に想像してしまって、私はなす術もなくソファに沈没した。

 

 

 


面白いなーと思って観察してるうちに気に入ってしまった五条さん。

Title by icca