やわらかい手つきで奪ってくれ

※五条視点

 

 

 

迂闊だったとしか言いようがない。

「ごじょー」

にこにこと楽しそうに笑うナマエの、ふやけきった顔を呆然と見つめる。テーブルの上には、さっきまで彼女が口をつけていた飲み物の缶が転がっていた。可愛らしいパステルカラーでフルーツの絵が描かれたそれには、ご丁寧にも『これはお酒です』と注意書きがなされている。なぜ気が付かなかったのだろう。四六時中ぽやぽやして見える彼女が、今日こそは本当に酒に酔っているのだと。

「ごじょー。目、みせて」

舌ったらずな声で呼ばれてはっとする。無邪気な指がサングラスにかかったかと思うと、拒むべきか否かを考える暇もなく視界が明るくなった。ダイニングテーブルを挟んで向こう側に座っていた彼女は、いまやその上に寝転がらんばかりにこちらへ身を乗り出している。

「……きれい」

正直に言おう。うっとりと目を細めて僕を見つめるナマエは、いままでになく蠱惑的で艶かしかった。少なくとも、恋人でもなんでもない、なんならそんな対象として見たことすらなかった彼女の、その濡れた瞳から目が離せなくなるくらいには。

ナマエは熱を帯びた眼差しでとっくりと僕の顔を眺め回してから、ふと思い立ったように動きを止めた。黒目がちな瞳がぱちりと瞬きをすると、瞼に刷かれた大粒のラメがきらきらと光を放った。

「――ね、しよ?」
「は」

何を。

やっとのことで開きかけた口を、彼女の生ぬるい指先が塞ぐ。思わず息を呑んだ僕の眼前で、うふふ、とナマエが笑った。

「キス」

ああ、キスね。なるほど。了解。

やわらかい手つきで奪ってくれ

ミョウジナマエに対して、気の置けない同期という以外の感情を抱いたことがなかった。どちらかと言えば後方支援向きの地味な術式に、朗らかでどこかすっぽ抜けた性格、子供みたいな笑い顔。良くも悪くもスレた大人のような同期たちの中で、ナマエは常に半歩後ろをついてくる妹分みたいなものだった。僕も、彼らも、彼女自身もそう認識していたはずだ。

だからというか、僕は知らぬ間にすっかり油断していたらしい。たまに二人きりで食事をしたり、こうしてどちらかの家で夜を過ごしたりしても、お互いに“そういう”気など起こり得ないと思い込んでいた。万が一起こったとして、自分ならうまくやれるだろうという自信もあった。

「キス、したいの? 僕と」
「……うん……」

頬を赤く染め、瞳を潤ませてこちらを見るナマエを前にして、少なからず動揺している自分に戸惑った。これが行きずりの女であったなら、出まかせに甘い言葉のひとつも囁いて、好き勝手に抱いて、面倒になればすぐにでも放り出してしまうことだって、息をするように簡単にできた。なのにいまの僕ときたら、初めて触れるような繊細さでもってナマエの髪を撫でている。冗談じゃない。

「……したい」

熱い指を僕の手の甲に這わせて擦り寄ってくる彼女に絶句した。そんなエロい顔ができるんなら先に言っといてくれないと困る。燻り始めた感情をぶつけてやりたいと思っても、目の前にいるのがナマエだというだけで頭の芯は妙に冷えていく。この期に及んで、ナマエを相手に欲情などするものだろうか。女なんか掃いて捨てるほど寄ってくるというのに。

「ん、」

そう思いながら、気がつけば吸い寄せられるようにその小さな唇に口付けていた。甘ったるい果実とアルコールの香りで思考がぼやけてしまいそうになる。すぐに顔を離して、しっとりと濡れた感触を振り払うように、なんでもない風で笑ってみせた。

「はい、したよ。これでいい?」
「……もっかい……」
「……嘘でしょ?」

貼り付けた笑みが引き攣った。勘弁してくれと言いたくなる。別に男女の友情などと甘いことを夢見ているわけじゃない。ただ、お前は。

ナマエは駄々っ子のように頬をぷうと膨らませて僕を見た。酒というのはまったくもって恐ろしい。普段の彼女を知る人間が見たら目を疑うだろう。それくらい、いまのナマエは危うげな雰囲気を纏っていた。これが紳士の僕じゃなければ今頃どうなっていたことか。

「ほら、タクシー呼んであげるから。いい子はおうちに帰りなさい」
「もっかいしてくれるまで、かえらない……」
「ちょっとナマエちゃーん? いい加減にしないとさすがの僕も怒るよ?」
「ごじょう、」

さっさと追い出してしまおうと考えながらスマホを取り出しかけた僕を、ナマエのか細い声が制した。服の袖をきゅっと掴まれて動けなくなる。
いつもなら、何その顔、泣きそうじゃんウケる、なんて笑い飛ばせたはずだった。

「わたしとキスするの、嫌……?」

――あ、もうダメだ。

瞬間、何かがぷつりと切れ落ちる音が聞こえた気がした。それを倫理と呼ぶのか理性と呼ぶのかはわからなかった。ただもう明日がどうなろうが知ったこっちゃない。

ナマエの小さな頭を掴んで引き寄せて、噛み付くようにキスをした。角度を変えて何度も繰り返す。舌で唇をなぶってやると、ぎゅうと目を細めた彼女の口から「ふ、」とあえかな声が漏れた。普段の幼い表情ばかりが記憶に焼き付いているせいで、とんでもない背徳感に襲われる。これで満足かよ。聞いてやりたいのに、止まれない。テーブルに散らかったままの食器がやかましく音を立てるが、構っていられなかった。

息を継ごうとする隙間すらも塞いで、やわい皮膚に歯を立てる。そのまま、薄く開いた唇に舌先を差し入れようとしたときだった。

「――ん!」

不満げな声を上げたかと思うと、まるでピシャンと門扉を閉じるように、ナマエはきつく歯を食いしばった。行き場を失った舌が固い前歯にぶつかる。間抜けだ。

「……なに、どうしたの?」

つとめて優しく尋ねた僕の肩を、まったく力のこもっていない手のひらがぐいと押し返す。眉根を寄せて、口を真一文字に結んで、いかにも不機嫌ですという顔で、彼女は僕を見ていた。

「もういい」
「……は?」
「くるしいからもういい」

苦しいから、もういい。彼女の言葉が意味もなく頭の中で踊る。もういい。いやよくないだろ。最初に仕掛けてきたのはそっちなんだから。そう口に出す前に、細い指が伸びてきて僕の前髪に触れた。とろりと滴り落ちそうな甘い光を湛えた瞳で、さっきまで擦り合わせていた唇で、ナマエが言った。

「……おやすみ、ごじょう」

へにゃりと笑って、ナマエはそのままテーブルに突っ伏した。空き缶が床に転がり落ちてカラカラと虚しい音を立てる。それが止む頃にはもう、彼女の健やかな寝息が聞こえ始めていた。

「…………マジ?」

乾いた声で問いかけても、当然ながら返事はない。
あんな顔で、あんな声でねだってきたくせに? 『キスしてくれるまで帰らない』とか散々可愛いこと言ってきたくせに?
何も無かったようにすやすやと眠りこけるつむじが心底憎たらしい。そして何より、こんなことで簡単に余裕を失ってしまう自分がまだいたことに一番呆れている。初めて女とキスした中学生じゃあるまいし。

テーブルに投げ出された無防備な手に触れようとして、やめた。こんな穏やかな寝顔を見てしまったら、もう何をする気も起きない。

……仕方ないなあ。
彼女にか自分にか、いずれにせよ間違いなく今年一番の深い溜息をついて、僕はスマホを取り出した。

「――あー、硝子? 悪いんだけどさ、ちょっといまから荷物預かってくんない? ……そう、特大のやつ」

 

 

 


「往復タクシー代出すから今すぐ取りに来て」と頼まれてやってきて涙が出るほど笑う家入さんと、家入さんちで目がつ覚めて思い出して灰になる同期の女の子と、そんな彼女を結構大事にしてたのかもしれないと気がつく五条さん。

Title by エナメル