てのひらにイデア4

「え、告白されたの?」

まだ肌寒さの残る四月のとある日、午前の座学を終えた教室で、硝子ちゃんがぱちりと目を瞬かせた。私たちは二年生に進級したばかりで、お説教のために担任に呼び出された悟くんと夏油くんのいない教室は、嘘みたいに穏やかだった。

「う、うん……」
「京都校の……二年だっけ? あー、もう三年か」

だるそうに机にもたれかかって私と話しながら、硝子ちゃんはパチパチと携帯をいじっていた。自分から訊いてきた割にあんまり興味がなさそうだなあと、私は膝の上で組んだ指先を所在なく弄んだ。

硝子ちゃんは、いわゆる恋バナというものにほとんど関心を示さない。かくいう私自身も彼女とは別の意味でそういう方面には疎かったから、こんな話をするのもこれが初めてのことだった。「そういえばあいつどうなった? あの、合同演習で連絡先聞いてきたやつ」と硝子ちゃんが急に尋ねてきたところから始まったわけだが、恋バナってこう、もっとはしゃいだり恥じらったりしながらするものじゃなかっただろうか。「いつ、どこで」「それは男女の交際的な意味で?」なんて淡々と繰り出される質問に答えていると、なんだか医務室で問診を受けているみたいな気分になる。

「で」
「うん?」
「断ったんでしょ?」
「え、なんでわかるの?」

私は訳もなく背筋をぴんと伸ばした。お医者さんに不摂生を指摘されたときのような、妙な後ろめたさがあった。
硝子ちゃんは私の問いには答えてくれない。代わりに茶色の髪をさらりと揺らし、携帯の画面から離れた眠たげな瞳をこちらへ向けた。

「他に好きな男でもいる?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ何」

何、と言われても。

「……手、握られたのが、やだったから……?」

私はその日のことを思い出しつつ答えた。好きだ、付き合ってほしいとどこかで聞いたことのある台詞とともに、彼は私の手を両手でぎゅうと握ったのだった。
それが、なぜだか私にはとても居心地の悪いことだった。その人のことを嫌いではなかったはずなのに、何か自分の大切な場所に無断で立ち入られたような、後退りして逃げ出したくなるような、そういう気持ちになったのだ。

「手汗やばかった?」
「そういうんじゃないってば」
「ふーん」

ぱちん、と携帯を閉じる音が大きく響く。

「だってさ」

不意に硝子ちゃんが、他に誰もいないはずの教室の扉に向かって声をかけた。驚いて視線を巡らすと、そこにはコンビニのビニール袋を片手に提げた、不機嫌そうな男の子が立っていた。

「悟くん」

おかえり、という私の言葉を無視した悟くんは、つかつかと近づいてきて硝子ちゃんにビニール袋を手渡した。煙草と、缶コーヒーと、からいガム。「ん」と受け取った硝子ちゃんがいつも持ち歩いている三点セットだ。買ってきてあげたのだろうか。制服で煙草なんか買いに行ったらダメじゃん。というか未成年が買うこと自体がダメなのだけれど。悟くんのほうをじっと見上げると、おもむろにその手がこちらへ伸びてきて私の手を捕まえた。

「……嫌?」

短く、悟くんが言った。さっきの話を聞かれていたみたいだ。一体いつからあそこにいたんだろう。戸惑いつつも、私はその手をやわく握り返す。

「……嫌、じゃない」
「……これは?」

悟くんは、今度はお互いの指と指とを絡ませて、手のひら同士を擦り合わせるみたいにぴたりとくっつけた。悟くんの手は少しかさついていて、あったかい。子供の頃のことを思い出した。だだっ広い迷路のような本家のお屋敷の中を歩き回るときも、こうして手を繋いでいるだけで、私はいつもひどく安心したものだった。

「嫌じゃないよ。不思議と悟くんには昔から、何されても」

唇を曲げてこちらを見ている悟くんを見つめ返す。どうしてって訊かれたとしても、たぶん私はうまく答えられなかった。私にとってはそれが当たり前のことで、何を考える必要も、迷うこともなく、ただ。

「悟くんだけは、特別」

 

 

駆け込んだ資料室の扉を乱暴に閉めて、私はその場に蹲った。床に放り出した巻物の束が四方八方へと転がっていったけれど、拾い上げる気にもなれなかった。

(……そ、っかあ……)

悟くんに、好きな人がいる。

考えてみれば、何もおかしなことなんてない。悟くんだって十代の、ひとりの男の子なのだ。好きな相手がいて、その人のことで悩んだり苦しんだりするのも、普通のことだ。
私はただ、考えたくなかっただけだった。〝婚約者がいるから〟〝家の格が違うから〟そんな理由で諦めるほうが楽だった。それがなければ私が選ばれていたかもしれないって、自分を慰めることができたから。

制服の上から、胸元にそっと手を当てる。小さな丸い輪郭を確かめるように指の腹でなぞった。
結局、このペンダントには何の力もなかった。何かの術式が発動することも、身に着けた私の体に影響を及ぼすこともない。おとぎ話に出てくる魔法みたいなことも、何ひとつ起こらなかった。
信じていたわけじゃない。期待と呼ぶにはあまりに淡くて、祈りと呼ぶには愚かすぎる。私の中に残っていたのは、そんなちっぽけな気持ちだけだった。

「――おい、開けろ!」

資料室のドアノブがガチャガチャと喧しい音を立てた。「ここにいるのわかってんだよ」と悟くんの苛立った声がする。
何も言わずにいきなり逃げてきたから、きっと怒ってる。ちゃんと謝らないと。ちゃんと、いつもみたいに普通に笑えるようにならないと。――じゃないと、もっと嫌われてしまう。そう思うのに、声を聞いただけで涙が溢れて止まらなくなった。

「……ご、めん、ちょっと、お腹、痛くて」
「はあ? 嘘つくなよ」
「後でちゃんと、謝りに行くから。だからいまは」
「もういい。そこどけ」
「え、」
「ぶっ壊す」

は、と声を上げる暇もなかった。ドン、と物凄い音がして、分厚い資料室のドアは簡単に外へ開いた。子供の拳ほどの大きさの南京錠が弾け飛び、思わず身を竦める。

悟くんはいつも強引だ。出会ったときからそうだった。池には突き落とされるし、屋敷中連れ回されて両親から叱られるし、探検とか言って裏山に引っ張り出されて、迷子になりかけたこともあった。悟くんといるとハラハラすることばかりで、心臓がいくつあっても足りないと思った。
だけど、いつも最後には手を引いてくれた。自分のしたことなんてさっぱり覚えていないみたいな意地悪な笑顔で、『お前はほんと俺がいないとダメだな』って言いながら。

そうだよ。私は悟くんがいないとダメだ。心がぐずぐずになって、ひとりではうまく立ち上がることもできない。いまだって。

「……泣いてんの、お前」
「や……やだ、来ないで」

悟くんが俄かに目を見開く。私はずるずると後退りして、埃をかぶった棚に背中を押し付けた。こんな狭い部屋の中で逃げたってどうしようもない。わかっているけれど、少しでも悟くんから離れたかった。不格好な姿なんて、これまでこの人の前にいくらでも晒してきた。でも、今日だけは見ないでほしかった。〝幼馴染〟なんて無邪気な名前の下に、こんなにもどす黒くてぐちゃぐちゃの感情を隠し持っていたことを、どうしたって知られたくなかった。

悟くんが私の腕を捕まえる。顔を見られたくなくて、必死になって下を向いた。ぎゅっと強く掴まれたところが、千切れそうなくらい、痛い。

「……離、して、お願い……っ」
「人の話は最後まで、」
「いやだ、聞きたくない‼」

振り払おうとした腕が、後ろの棚を強かに打った。錆びてネジの緩んだ棚板が傾き、上に乗っていた書類や物資の段ボールが崩れ落ちてくる。咄嗟に目を瞑ると同時、床に押し倒されて背中をぶつけた。けれど、ドサドサと周りに物が落ちる音がやんでも、覚悟した痛みはやってこなかった。

そろりと目を開ける。悟くんが、私を守るように覆いかぶさっていた。

「さ、さとるく……」
「……それ」

サングラスの外れた青い眼差しが、私の首のあたりに注がれる。途端に体が強張った。その視線の先にあるのは、制服の襟元から零れ出たあのペンダントだ。

「……っ!」
「なんで付けてんだよ」
「や、」
「そうまでして誰かと縁結びたいわけ?」

悟くんの指がチェーンにかかる。このまま少しでも力を込められたら、こんな細い鎖は簡単に引き千切れるだろう。「やめて」と伸ばした手は呆気なく捕らえられ、床に縫いつけられた。見上げた青い瞳は、忌々しげに細められている。

占いも、おまじないも、信じてない。こんな小さな石に願って叶うなんて思ってもいない。それでも最後の最後に縋るくらい、許してくれたっていいじゃないか。だってもう私には、こんなものしか。

「……こわさ、ないで……」

やっとの思いで絞り出した声は情けないほど震えていた。ぼやけた視界の中で、綺麗な青色が滲んで揺れている。

「……そんな必死になるほど、好きなやつがいんの」
「……、っ……」
「……そう」

悟くんの指がゆっくりとペンダントを放し、私の眦を拭って離れていく。

なんとなく、これが最後だと思った。
このままこの部屋を出たら、私たちはもうあの頃の二人とは別の誰かになってしまう。私は彼を〝悟くん〟と呼ばなくなって、彼が私に手を差し伸べることもなくなって、お互いに違う相手と結ばれ、この気持ちもきっと、なかったことになる。
なかったことに、できるのだろうか。こんなにも胸の底から溢れて溢れて、止まらないのに。

「――悟くん、すき……」

気がついたら、口から零れ出ていた。

「すき、すきなの、ごめんなさい、悟くんのことが、好き……」

床に転がったまま、子供みたいに泣きじゃくった。制服の袖がびしゃびしゃになっても涙が止まらなかった。行かないで。まだそばにいて。鈍臭いって叱って、呆れたみたいに笑って、手を引いてほしい。そうじゃないと私はもう、うまく息もできない。

「わたし、私もう、悟くんがいないと」

必死に伸ばした手が、強く引っ張られた。
目をみはった。抱き起こされた私の体は、悟くんの腕の中にすっぽりと収まっていた。頬に柔らかな白い髪が触れる。え、と漏らした息まで丸ごと抱きしめるように、悟くんがぎゅっと力を込めた。

「……お前、ほんっと、いい加減にしろよ……」
「う、ごめん、なさ」
「遅いんだよ、いつもいつも」
「うん……」
「意味わかってんの?」
「う、ん……?」
「……馬鹿」

髪を撫でられて顔を上げると、熱い唇が私のそれに触れた。「へ」と間抜けな声しか出てこない。ぽかんと口を開けた自分の顔が、青く澄んだ瞳に丸く映り込んでいた。

「……こんなときまで鈍臭いとか。簡単にファーストキス奪われてんじゃねーよ」
「なっ、なんで初めてって」
「は? 違うの?」
「ち、がわないけど……」
「じゃあ、これからも俺以外としないで」

乾いた指先が私の頬を滑り降りる。そのまま胸元の小さな石に触れて、きゅっと握り込んだ。

「――こんなものなくても、ずっと俺のそばにいてよ」

ぷつり。首からペンダントが切れ落ちる。そんなことも気にならないくらい、降り注ぐ眼差しが綺麗で見惚れていたら、悟くんは呆れたように笑った。いつか私が恋をした、あのきらきらと輝く眩しい笑顔だった。