てのひらにイデア3

出張中の硝子ちゃんが帰ってくるまでの一週間、私は片足に頼っての生活を余儀なくされていた。医務室で簡単な処置を受け、痛み止めの薬を処方してもらってはいるものの、任務で飛び回れるほどにはまだ回復していない。坂道で転んだなんて周りには言えなくて、任務中にちょっと、とお茶を濁し続けていた。

教室での座学以外、実習にも出られないので、やることと言えば課題か読書か、先生の雑用の手伝いくらいだ。あまりにも暇で、昨日からは普段なら滅多に寄りつかない高専の書庫へ通い始めた。学生だけでなく術師や職員たちにも解放されているため、広さも蔵書数も並みの図書館に引けを取らない。ちょっと埃っぽいのは難点だけれど。

あのペンダントのことを調べようと思ったのも、書庫へ足を向けた理由のひとつだった。ペンダント自体から呪力を感じないのは相変わらずだが、青く澄んだ宝石を覗き込んでいると、なんとも言えない不思議な気持ちになるのだった。まるで心の奥底を見透かされるような、けれどずっと見つめていたいような――それはまさに、悟くんの青い瞳を見るときと、同じような感覚だった。

「やっぱり載ってないかあ……」

脇に積み上げた本の山に最後の一冊を乗せ、私は古ぼけた机に突っ伏した。胸ポケットの中でしゃらしゃらとチェーンの動く音がする。取り出して手のひらに乗せると、明かり取りの窓から細く差し込む西日を受けて青の宝石が透明に光った。

――縁結び、か。

おばあさんの言葉が、ずっと頭から離れない。
本当にそうだったら。こんな石ひとつで私と悟くんの縁がきつく結ばれてくれたなら、どんなにいいだろう。そんな風に考えてしまうから、だから私はこうして書庫にまで通って、ありもしない裏付けを探そうとしている。馬鹿みたいだった。

年月を追うごとに、私と悟くんの立っている場所は離れていく。術師としての能力だけじゃない。出会ったときはほとんど変わらなかったはずの背丈も、力の強さも、手の大きさひとつ取ったって、私と彼はもうまるで別々の存在みたいになってしまった。

昔はよかったな。何も考えず、ただ歳が同じ子供だというだけで、悟くんのそばにいられた。

母の話によれば、悟くんの婚約者は、代々御三家と婚姻を結んできた由緒ある〝花嫁〟の家系の娘なのだそうだ。私のような末端の分家の出身とは訳が違う。生まれたときから御三家に嫁ぐための教育を施されている、生粋のお嬢様だ。

『いつまでも〝悟くん〟だなんて気安く呼んではいけませんよ』

靄のかかったような頭で生返事をした私に、母は続けて言った。『あなたにも、縁談が来ているから』――。

「浮かない顔をしているね」

ぼんやりと眺めていた青い宝石に、濃く影が差した。
西日を遮るようにして、私の向かいの席にひとりの女性が腰掛けた。銀色の長い髪を後ろでひとつに束ね、細身の黒い服を纏ったその人には、見覚えがある。

「……冥さん?」
「久しぶりだね。調べ物に立ち寄ったら珍しいお客を見つけて、つい声をかけてしまった」

ご一緒しても? と片手に携えた本を掲げてみせる彼女に、断る理由もなく私は頷く。

冥さんと会うことは滅多になかった。フリーランスの彼女が高専にやって来ることは少なく、任務で一緒になったのも数回きりだ。
最後に話したのは三ヶ月ほど前、その数回の任務のうちのひとつでだった。あのときは近くの現場にいた悟くんが途中で応援に来てくれて、それはそれでてんやわんやだったっけ……。

「おや」

思い返していると、冥さんが短く声を上げた。猫のような目がすっと細くなり、その視線は私の手元へと注がれる。

「それは?」
「あ、えっと。任務先の村の方から、その……いただいて」

私は冥さんからよく見えるよう、ペンダントを乗せた手のひらを彼女のほうへ傾けてみせた。綺麗に手入れされた指先が伸びてきて、私の手の上で青い石を確かめるようにころころと転がす。艶めく深紅のネイルは、彼女が携えている本の表紙と同じ色だった。

「これはまた、珍しいものを手に入れたね」
「冥さん、これが何かご存知なんですか?」

私は思わず身を乗り出した。冥さんは国内外いろんな場所を渡り歩いていると聞いたし、何か知っているかもしれない。

「譲ってくださった方からは、縁結びの御守りと聞いてるんですけれど……」
「縁結びねえ。なるほど」

冥さんは細い指先を唇に添えて、喉奥でくつくつと笑った。なるほど? それじゃあこれは、本当に。まじまじとペンダントを見つめていると、「ねえ、君」と彼女はねだるような仕草で小首を傾げた。銀色の髪が逆光の中で鈍い光を放つ。

「それを私に譲ってくれないかな。言い値で買おう」
「……これ、そんなに高価なものなんですか?」
「いいや? ただ、ずいぶん綺麗な宝石だと思ってね」

私は再び手元に視線を落とした。悟くんの瞳の色と同じ、澄んだ青色の宝石。……もしも、もしも本当に、縁結びの力があるのだとしたら? そんなこと、ありえるのだろうか。

「無理にとは言わないよ。でも、気が向いたら連絡してくれ」

黙りこくった私に向かって、冥さんはさっぱりとした口調で言った。一ページも読んでいないであろう本を再び手に取り、席を立つ。何か答えるべきなのだろうかと逡巡していると、彼女は数歩進んだ先で思い出したようにこちらを振り返った。

「そうだ、五条くんは元気かな?」

どきりとした。心の中を読まれたような気がした。
近頃の私の胸の内にあるものといえば、その人のことばかりなのだ。いまだって、名前を聞くだけで呼吸が止まりそうになる。

「悟くん、は」

これから何度、こんな風に呼ぶことができるだろう。
あとどれくらいそばにいられるんだろう。いつかそう遠くない未来、本当に離れなければいけないときが来たら、どうやってこの気持ちを殺せばいいんだろう。いくら考えても自分の望む答えになど辿り着くことはできなくて、暗く深い水底に引きずり込まれるように、心が沈んでいく。
こんな小さな石にすら、縋りたくなってしまうくらいに。

「……私には、変わりないように見えます」
「そう。それは何よりだ」

五条くんによろしく。ゆるりと弧を描いた唇に艶やかな笑みを乗せ、冥さんは書庫を出て行った。遮るもののなくなった日差しが再び青い石を燦然と照らし出すのを、私はぼうっと眺めたまま、動けなかった。

 

会わせたい人がいる、と母から電話があったのは、その週末のことだ。

「来週、こっちに来られるかしら。食事会を設けるから」

電話越しの声は心なしか弾んでいる。それと裏腹に、私は鉛を飲み込んだような息苦しさを覚えた。
電話、出なければよかった。片手に持った巻物の束をぎゅっと抱え直す。日曜の午後、ただでさえ人の少ない高専内はひっそりと静まり返っていた。職員室の前で話し続けるのも気が引けて、のろのろと廊下を歩き始める。

「うん……任務がなければ」
「またそんなことを言って……あなたの将来に関わる話なんですよ」

もっとハッキリ言えばいい。お見合いだって。
末端の分家と言えど、うちが五条家に連なる血筋であることには違いない。みんなそれが欲しいのだ。その血が流れてさえいればいいと言うなら、わざわざ顔を見る必要なんてないだろうに。そんな捻くれたことを思ってしまう。

「人手不足で、忙しいの」
「大切な話なのよ、お休みをいただいてきなさい」
「いまは、こっちのほうが大事だから」
「悟様のご婚約だって進んでいるんだから、あなたもそろそろきちんと」

どくん、と心臓が嫌な音を立てる。

「……次の予定があるから、もう切るね」
「ちょっと待ちなさい、せめて日程を――」

断ち切るように終話ボタンを押した。
次の予定なんてものはなかった。今日は、この資料の束を資料室に戻して、食堂の掃除の手伝いをして、それでおしまい。来週だって、時間を作ろうと思えばいくらでもできる。私みたいな下っ端の学生術師に回ってくる任務は少ない。

「……あー。忙しい」

包帯の巻かれた右足を見つめ、ぽつりと零してみる。
いまは、なんだっていいから言い訳がほしかった。未来のことを考えなくていい言い訳。何も知らない振りをして悟くんのそばにいられる、言い訳。

「――足、まだ治んないの」

無愛想な声に、はっとした。

顔を上げれば、数歩先に悟くんの姿があった。古びた板張りの廊下に長い影が落ちている。僅かに開いた窓から吹き込む秋風が、白い髪をさらさらと揺らした。

怒ったような顔でも、悟くんはやっぱり絵になるなあ。そんな場違いな感慨を抱く。悟くんがいる場所はいつだって、そこだけ別の世界みたいに輝いて見えた。それを間近に眺めていられることがあれほど誇らしかったのに、いまは少し、切ない。私は下がりきっていた口角を無理やり持ち上げ、つとめて明るい声を出した。

「うん、まだ完全には……でも、痛みはもうだいぶ引いたよ」
「あっそ」
「迷惑かけてごめんね」
「別に。お前が鈍臭いのとか、とっくに慣れてるし」
「……、そうだよね」

ごめん、ともう一度呟いた言葉は小さすぎて、響きも残さず消えていく。

先週の任務以降、悟くんは私に対してずっと不機嫌だった。寮や教室で会ってもろくに目も合わせてくれず、会話らしい会話もしていない。
当然の報いなのかもしれない。任務で何の役にも立てないまま、余計な怪我をして悟くんの手を煩わせた。私を手助けしようとしてくれた彼の厚意を無下にした。それから。

不意に涙が溢れそうになり、慌てて歯を食いしばる。
電話での母の口振りからも、悟くんの婚約が順調に進んでいるらしいことはわかる。だからいつまでも馴れ馴れしく接してくれるなと、悟くんはきっとそう言いたいのだろう。異性の幼馴染という存在は、それだけで相手の女性にとってはもちろん、悟くん自身にも迷惑になる。たぶん、そういうことなのだ。

喜ばしいことじゃないか。悟くんにふさわしい人がやっと見つかった。私みたいな何の取り柄もない女より、きっとその人のほうが悟くんを幸せにしてくれる。だからちゃんと、おめでとうって言わなきゃ。

「……お前さあ、こないだから何なの?」
「え?」
「愛想笑いばっかして、気持ち悪い」

胸を刺し貫かれるようだった。
は、と喘ぐように吐いた息が震える。鈍臭いとか、マヌケ面とか、冗談交じりの悪態をつかれることはたくさんあったけれど、こんな風に突き放すみたいな言い方をされたのは、初めてだった。

「急にキョリカンがどうのとか言い出すし。ワケわかんねーんだけど」
「……さ、悟くんこそ、なんか怖いよ。どうしたの?」
「怖い? どこが」
「婚約、決まったんでしょう。もっと嬉しそうにしたらいいのに」
「……何、それ」

悟くんの声は、聞いたこともないくらいに冷え切っていた。離れていた二人の距離をたった一歩で埋めて、私の腕を掴む。怖いと思うのに、触れた手の温度に心臓が跳ねてしまう浅ましい自分が嫌だった。

「い、痛いよ」
「お前は」

この人は、もうすぐ他の誰かと結ばれる。きっとこんな風じゃなく、もっと愛おしむようにその人に触れて、慈しむように名前を呼んで、きらきらと眩しい瞳で笑いかけるのだ。私じゃない、もっと可愛くて素敵な、悟くんの隣がよく似合う、そんな女の子に。

「お前は俺に、顔も知らないような女と結婚してもらいたいわけ」
「そういうわけじゃ……でもきっとお相手も素敵な人で」
「なんでそんなことお前が言うの」

胸の内を吐き出すように悟くんが言う。その声があんまり苦しそうだったから、思わず顔を上げて、そして息を呑んだ。

「……あんなの、家同士で勝手に盛り上がってるだけ。俺はずっと」

ああ、と思った。
この目を、その奥にある感情を、私は知っている。

「……悟、くん。もしかして」

悟くんは、私と同じなのだ。手に入れたいのに、手を伸ばすことさえできない。苦しくて、いっそ投げ出してしまいたいくらい切なくて、でもずっと手放せなくて。

「好きな人がいる、の……?」

細く吐いた声は掠れている。聞かなくたってわかるのに、自分から傷つきに行くなんて、私も大概馬鹿だ。

「――いるよ」