てのひらにイデア 1

『――さて、今日の最下位は……残念! ××座のアナタ! 何をやっても失敗ばかりの一日になりそう。意中のあの人にもガッカリされてしまうかも?』

テレビから流れる底抜けに明るい声に、私はひっそりと眉を顰めた。朝一番に「あなたは今日、最下位です」と言われて気分が良くなる人はたぶん、いない。

「ええ~……」

朝の情報番組なんて滅多に見ないのに、たまたまテレビをつけた日に限ってこれである。その運の悪さがなおさら最下位という結果を裏付けているようで、気が滅入った。
溜息をつき、ソファから身を乗り出してリモコンを手に取る。『そんなアナタを助けてくれるラッキーアイテムは、ぬかるんだ坂道です!』などと騒ぎ立てる声を最後に、ぷつんと電源を落とした。ぬかるんだ坂道って、それはもうアンラッキーアイテムなのでは。

ポップなBGMが途絶えると、誰もいない談話室は途端に静かになる。昨夜から学生たちのほとんどが大規模任務に駆り出され、寮はもぬけの殻なのだ。ちょうど別任務から戻ったばかりの私と、もう一人を除いて。

(嫌だなあ……)

これから顔を合わせる予定の相手の顔を思い浮かべ、再び溜息が漏れる。古びた窓の外に目を向ければ、さっきまで晴れ渡っていたはずの空が、いつの間にかどんよりと曇り始めていた。まるで私の心の中を写し取ったみたいな、濁った色の雲が漫然と流れていく。『意中のあの人にも――』突き刺すような甲高い声が、頭の中に反響した。

占いなど、信じるタチではない。中学校のとき、クラスメイトの女の子たちが相性占いに夢中になっているのを不思議に思いながら眺めていた。だってそんな曖昧なものに、人ひとりの未来を決める力がどれほどあるというのだろう。星の動きひとつで恋が実るなら、誰もこんなに苦労したり悩んだりなんかしないじゃないか。

「マヌケ面」
「わっ!?」

不意に、目の前に逆さまになった綺麗な顔が現れた。ソファに腰掛けた私の背後から、背もたれ越しに丸いサングラスがこちらを覗き込んでいた。

「さ、とる、くん。おはよう……」
「おー」
「いきなり逆さまで現れたら、びっくりするよ……」
「ぼーっとしてるほうが悪い」

相変わらず横暴な物言いである。どきどきとうるさい心臓を鎮めるように深呼吸をし、立ち上がる。人の気も知らないで、悟くんは呑気に大きな欠伸を漏らした。時刻は朝の八時を少し過ぎたところ。きっと昨夜も遅くまでゲームをしていたんだろう。

今日の任務の担当は、悟くんと私の二人だ。前述の大規模任務で補助監督は軒並み駆り出されているため、移動も彼と二人きり。往復数時間の道のりを思うと、お腹の底がずんと重くなる。

「……お前さあ」

訝るような視線を感じ、はっと顔を上げた。

「最近、なんか調子悪い?」
「え」
「いつにも増してぼーっとしてんじゃん」

熱でもあんの、と悟くんは大きな背中を丸めて、私の顔を覗き込んだ。黒いレンズの隙間から、宝石のように澄んだ輝きが零れ落ちる。いくら良く見える目だからって、そんなところまで気がつかなくていいのに。

「……だ、大丈夫だよ。今日はたまたま……その、占いが」
「占い?」
「……最下位だった、から」

あながち嘘ではない、でも全部が本音でもない。それで誤魔化されてくれたのか、単純に興味がないのか、おそらく後者であろうが、悟くんはふんと鼻を鳴らしてさっさと談話室の出口へと足を向けた。

「くだんねーこと言ってると、置いてくぞ」

言いながら、長い脚はどんどん私を置いて歩いて行ってしまう。その後頭部を眺め、私はまた密かに溜息をついた。

本当に、くだらない。こんな恋心。

 

 

五条悟という人に初めて会ったのは、六歳の頃だった。
五条家の末端の分家の長子として生まれた私は、物心つくようになると、たびたび本家の集まりにも出入りする身分となった。とはいっても、実際には両親のおまけのようなものでしかなく、本家の偉い人たちに畏まった挨拶をするほかは、広大な屋敷の中で暇を持て余してばかりいた。

そんな私を見つけたのが、悟くんだった。

「なにおまえ。どんくさそう」

初めて交わした言葉はいまでも覚えている。
ビロードのような美しい苔に覆われた中庭で、池を泳ぐ錦鯉をぼうっと眺めていたときのことだ。不意に後ろから声をかけられて振り向くと、白い男の子が立っていた。
髪も、肌も、身に纏った着物も、すべてがひとつの穢れもない雪原のように真っ白だ。その中でただ一対の青い眼だけが、鮮烈な色を放っていた。

「さとるさま……?」

無意識のうちに、その名前が口をついて出た。話でしか聞いたことのない、本家の御子息の名だ。どうやら自分と同い年らしいということと、たいそう優れた才を持っているということくらいしか知らなかったが、目の前の男の子を見て、私は確信めいたものを抱いていた。きっとこの子が〝五条悟〟なのだと。

「人にきくまえに、まず自分から名乗れよ」
「あっ! ご、ごめんなさい」

慌てて姿勢を正し、偉い人たちにするよりもさらに丁寧なお辞儀をして、自分の名を告げた。両親から、『悟様にお会いしたら、くれぐれも失礼のないように』ときつく言い含められていたことを思い出したのだ。

頭を下げた拍子に、草履を履いた生白い足が見えた。話に聞くよりもずいぶん小さな男の子だと思った。みんなが神様のように言うから、もっと大きくて強そうな子を想像していたのだ。背丈は私とほとんど変わらないし、ふわふわの髪と整った顔立ちは、女の子と言われても頷いてしまうくらい可愛らしい。ただ、底知れずしんと静まり返った水面のような目が少しだけ怖かった。

さっそく粗相をしてしまったのではないかと背筋を震わせる私をよそに、当の悟くん本人はいたってけろっとしていた。ふうん、と関心なさげな相槌を寄越すと、口の中で転がすように一度だけ私の名を繰り返した。

「おまえ、いまから俺とあそべ」
「え、わっ」

そうして次の瞬間には、私は背後の浅い池にどぼんと落っこちていた。
悟くんは、水の中で尻もちをついた私を見下ろして、その大きな目をぱちくりと瞬かせていた。私の肩を押した自分の手をしげしげと眺め、それから再びこちらに視線を戻す。信じられないという顔だった。

「……ほんとにどんくさかったわ」

独り言みたいに呟いた後、悟くんは弾けたように大きな口を開けて笑った。

痛みや恥ずかしさを感じるより先に、私はただただその笑顔に見惚れていた。まんまるのガラス玉みたいな目をきゅっと窄めて、さっきまでのどこか超然とした表情などすっかり引っ込めてしまって、小さな歯を覗かせて楽しそうに笑い転げるその顔が、日差しのせいだけじゃなく、たまらなくきらきらと輝いて見えた。

きっとあのとき、私は生まれて初めての恋に落ちたのだ。

その頃の私はまだ、自分の中にある感情の正体を知らなかった。ただ悟くんの隣にいると、何か夢物語の始まりのように胸がどきどきと高鳴って、悟くんが笑ってくれると私も嬉しかった。彼の唇が呼ぶ自分の名前の響きが心地よかった。そんないくつかのことを積み重ねて、それからの十年余りを、私は彼と一緒に過ごした。

幼馴染とか、五条の人間としての立場とか、そういうものを利用すれば、彼のそばにいることは案外に容易かった。何よりも悟くん自身が、私が近くに在ることを許してくれていた。
でも、それも間もなく終わってしまう。

 

「悟様のご婚約のこと、聞いている?」
「……え?」

その知らせが届いたのは、まだ暑さの残る九月の終わりのことだった。
お彼岸の法要のために実家へ帰った私に、母が言った。

「ようやくよ。悟様も今年、十七歳でしょう。遅いくらいだわ」

これで、あなたたちの代までうちの家も安泰ねえ。心底安堵したように漏らす母の声が遠い。風の通らない座敷はじっとりと汗ばむくらいの熱気を帯びていたはずなのに、握り込んだ指先がどんどん冷たくなっていく。いままで感じたことのない焦燥感がお腹の底から湧き上がってくることに、私はひどく動揺した。

「……私は、何も」
「聞いていないの? まあご結婚はまだしばらく先でしょうから、あまり公にしたくないのかしらね」

公とはなんだろう。私もその中に含まれるんだろうか。そんなことをぼんやりと考えた。ずっと、あんなに近くにいたのに?

「あなたも、これから悟様と接するときは身分を弁えなさいね。お相手のあることですから」
「……うん」

いつまでも子供のままではいられないのよ。
母の言葉を聞きながら、自分の中で何か大切なものが音を立てて崩れ落ちていく気がした。

鈍臭い私は、そのときになってようやく理解した。あの日を境に、ずっと退屈だった本家での行事が楽しみに変わった理由。術師になんて到底向いていない私が、無理してでも高専に入学した理由。いま、こんなに胸が張り裂けそうな理由も。

(……いまさらわかったって、もう手遅れだ)

日の落ちた庭先に、細く長くひぐらしの声が響き渡る。まるで泣いているみたいに聞こえて、耳を塞ぎたくなった。