てのひらにイデア 2

夕方を前に、任務は呆気なく片付いた。
隣県のとある村で起こっている怪奇現象の、元々は調査だけで一日をかける予定だったのに、悟くんがあれよあれよと元凶の呪霊を突き止め、あっという間に祓ってしまったのだ。私が苦労して担いできた呪具だのなんだのは当然ながら出番もなく、持ち主もろとも文字通り〝お荷物〟に終わった。

――だけなら、まだよかったのに。

「あのさあ、これお前が来た意味ある?」

顔を上げた悟くんが、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。私は包帯の巻かれた足首をおずおずと引いて、刺すような視線を向けてくる青い双眸から逃れるために俯いた。

「ごめんなさい……」

山奥の祠で呪霊の祓除を終え、悟くんと一緒に村の中心部へ戻ってきたときのことだった。雨でぬかるんだ坂道で、すれ違ったおばあさんが足を滑らせた。それを颯爽と助けたのが私だ――なんて言えたら格好よかった。実際にはおばあさんの下敷きになって庇うのが精一杯で、こうして見事に足首を捻挫し、村の集会所で悟くんに手当をしてもらっている。何がラッキーアイテムだ。情けなくて涙が出そうだった。

「腐っても呪術師なんだからさあ、あれくらい受け身取れなくてどーすんの」
「ほ、本当だよね……」
「どうせまたぼーっとしてたんだろうが」

はあ、と大きく吐き出された溜息に、胸がちくりと痛む。うまい言い訳も思いつかず、私はただへらへらと笑うことしかできなかった。

私の術式は後方支援に特化していて、それ単体では呪いを祓えない。呪具の力を借りて戦うことはできても、悟くんのような攻撃に秀でた術師と一緒でないと、単独で対応できる呪霊の等級には限界があった。ただでさえ役に立たないのに、こんな風に足を引っ張っていては、もう立つ瀬がない。

「ご、ごめんね……でも、ちゃんと歩けるから大丈夫」

無理やりに立ち上がった途端、鋭い痛みが走って思わず顔が歪む。

いまはまだ学生だから、サポートとかお勉強とかいう体で、悟くんみたいな強い術師にも同行させてもらうことができる。たとえ必要とされなくても、どんなにヘマを重ねてもだ。けれど、いつかその名目を失うときが来たら。そう思うと、途端にどうしようもなく怖くなった。

悟くんの婚約の話を聞いてからずっとそうだ。〝同級生〟も〝幼馴染〟もなくしてしまったら、私に残るものって一体なんだろう。私が悟くんのそばに居続けられる理由って、どこにあるんだろう。そういう、いままで考えもしなかったことばかりが頭に浮かんで、真っ暗闇の中にひとり取り残されたように途方に暮れてしまう。毎日がその繰り返しだった。

こんな感情、知りたくなかった。恋だなんて可愛らしい名前をしているくせに、一度気がついてしまえば最後、あとは呪いのようにあっという間に全身を蝕んでいく。止め方もわからないままに。

「なんで無駄に強がるんだよ。ほら手」
「や、あの、ほんとに大丈夫だから」
「いいから」

大きな手に腕を取られ、引き寄せられる。その力強さに狼狽えた。いつか私の肩を押した、もみじの葉のように小さな手のひらじゃない。これは〝男の人〟の手だ。そんな当たり前のことをようやく理解した瞬間、痛みなど忘れるくらいに一気に体中が熱を帯びる。

悟くんは私の肩と膝裏に手を回して、抱き上げようとしているみたいだった。早鐘を打つ心臓の音が伝わってしまいそうで距離を取りたいのに、悟くんの力には到底敵わない。

「お前ってほんと、俺がいないと――」
「さ、悟くん待って!」

私はもう悲鳴じみた声を上げるしかなかった。ぴたりと動きを止めた彼の肩をやんわりと押し返す。頑丈な体躯は、けれど私の僅かな力に従ってゆっくりと離れていった。

「……あの。こういうの、ダメだよ……」

うまい言い方が見つからなくて、口から出てきたのはそんな曖昧な言葉だけだった。悟くんはいま、どんな顔をしているだろう。怖くて見上げることもできない。

「は? 何、こういうのって」
「だから、……簡単にくっついたり、とか」
「……別に変な意味じゃねーけど」
「わ、わかってる。でも、どこで誰が見てるかわからないし……勘違いされたら、困るでしょ」

悟くんが息を呑む気配がした。
私からこんな風に彼を拒絶したのは、これが初めてだったかもしれない。いままでずっと、手を握られようが、肩を抱かれようが構わなかった。だって悟くんにされて嫌なことなんて何もなかったのだ。いまも、本当はその大きな手に触れたくてたまらない。でも、これからは。

「……ほ、ほら。私たちって幼馴染だから。そういう、距離感? っていうの? よくわかんなくなっちゃうときあるから。これからは気をつけないとって、思って」
「急に何。いまさら気にする必要ある?」
「だ、だって」
「……お前やっぱ最近、」

悟くんが何事か言いかけたとき、集会所の扉がぎしりと鳴った。古い蝶番の軋む音に続いて、「ああ、いたいた」と少ししわがれた女性の声がする。

「あ……さっきのおばあちゃん」

小さな包みを携えて入ってきたのは、さっき私が庇ったおばあさんだった。人の好さそうな朗らかな笑顔に、強張っていた体からほっと気が抜ける。私は悟くんが口を噤んだ隙に彼のそばを離れ、おばあさんのほうへと歩み寄った。

「お怪我はありませんでしたか」
「ええ、おかげさまで。本当にありがとうございました。お礼に何か差し上げたかったんだけれど、こんなものしかなくて」

言って、おばあさんは紫色の風呂敷包みから手のひらくらいの大きさの桐箱を取り出してみせた。
節くれだった手が蓋を開けると、中には一本のペンダントが収められていた。細身の銀のチェーンの先に、丸い青色の宝石が繋がれている。石の名前は一見してわからなかった。けれど、アクセサリーの類にはとんと疎い私の目にも、上等に作られた首飾りであるように映った。

「い、いただけません!」
「いいんですよ。こんなおばばが持っていても仕方ないから、いつか若い方にお譲りしたいと思っていたの」

おばあさんは乾いた手で私の手を取って、ペンダントをそっと包むように握らせた。透き通った小さな宝石は、白々と無機質な蛍光灯の明かりの下でも清廉な輝きを放っている。

「わたしの母から受け継いだものなんです。縁結びの御守りなんですって」
「そんな大切なものを」
「母もわたしも、家が決めた相手との結婚だったから、身に着けたことはないのだけれど。……これもまたひとつの縁と思って、どうか受け取ってください」

あなたには、良いご縁がありますように。そう言っておばあさんは優しく微笑んだ。

「縁結び……」

一瞬、脳裏を掠めた思考を、ゆるく首を振って掻き消す。ペンダント自体に呪いやまじないの気配は感じられなかった。きっとただの言い伝えのようなものだろう。無下に断るのも忍びなく、結局は「ありがとうございます。大切にします」と拳を胸元へ引き寄せる。

おばあさんは私に向かってひとつ頷くと、今度はしわくちゃの目元をついと動かして悟くんを見上げた。「あなたにも……」と言いかけて言葉を切る。不機嫌そうな顔でそっぽを向いていた悟くんが視線を戻しても、おばあさんはただにこにこと笑うだけだった。

「……何」
「いいえ、あなたには必要がなさそうだと思って」
「……、……」
「さ、表に車を待たせてあります。駅までお送りしますから、どうぞ」

お気をつけて、というおばあさんの言葉に送られて、私たちはそのまま村を出た。悟くんは、もう私に触れることはなかった。