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「――聞いてない!」

私の悲痛な叫びは、朝の渡り廊下に大きく響き渡った。夜蛾先生に聞かれたらゲンコツ間違いなしの傍迷惑な声だった。けれども今日は土曜日で、幸い人影はまばらだ。向こうの角から歩いてきた気の弱そうな補助監督の男の子が、間髪入れずに踵を返すのが見えた。朝っぱらから厄介事には巻き込まれたくないということだろう。わかる。私でもそうする。その厄介事の相手がこの男なら、なおさら。

「え、いま言ったじゃん」
「そういうことじゃない! 転勤ってどういう意味!?」
「そのまんまの意味だけど。お前は四月から東京勤務だよ、やったね!」

イェイ、と能天気にピースを作ってみせる五条の腹をいますぐ殴ってやりたい。できないけど。

五条の家に四泊した翌朝、つまり今朝、さすがに連絡を入れないわけにはいかないだろうと、私は真っ先に京都校の事務局へ電話をかけた。不在にして申し訳ないということ、東京での急な人員不足で(硝子が出張中なので、半分は本当だ)滞在を一日延ばすということ、やりかけの仕事は戻ってからきちんと終わらせること、云々。諸々の謝罪と言い訳を並べ立てた私に、返ってきた言葉は実に朗らかだった。

『大丈夫ですよ~。もうすぐ後任の方もいらっしゃいますし、こちらのことはお任せください』

ミョウジ先生も早くそちらに慣れたほうがいいですものね、頑張ってくださいね。馴染みの女性職員が励ますようにそう言って、ぷつんと電話は切れた。
事の次第を問いただすために五条を高専内で捕まえたのが、二分前のことだ。

「いやあ、でも焦ったよね~。もうお爺ちゃんにも話つけてあったし、あのままお前が京都帰っちゃってたら僕、怒られちゃうとこだったよ」
「…………」

呆れて物も言えない、とはまさにこのことだった。
結局、すべてこの男が仕組んだことだったわけだ。だったら食事だの研修だの回りくどいことなんかせずに、きちんと話してくれればよかったのに。そう抗議すると、「言ったら受け入れてくれた?」と問われて閉口する。仮に学長命令だったとしても、四日前の私が素直に頷いていたとは到底思えなかった。

「でもさ、結果オーライじゃん」

私の渾身の拳をのらりくらりと受け流しながら、五条はあっけらかんと言ってのける。

「だって、そばにいてくれるんでしょ?」
「……それは、そのつもりだったけど、まだそこまで考えてなかった……」

そんなに当たり前のように言われると、なんだか腹が立つ。惰性で繰り出したパンチは、骨張った手にぽすんと収まった。

「まあ安心しろって。後任はちゃんと優秀な医師だし、大きな病院とも新しくいくつか提携を取り付けた。さすがに反転術式使えるやつはいないから、お前には京都と東京、行き来してもらうことになるかもだけど」
「なんでそんなことまでして……」
「ん、知りたい?」

掴まれた拳はそのままぐいっと引っ張られ、私は顔面から五条の胸に飛び込む羽目になった。近い。距離が近い。目を泳がせる私のつむじあたりに、くつくつと押し殺したような笑い声が降る。

「それにしても、どうして戻ってくる気になったわけ?」
「それは、その、……昔のこと、思い出して」
「昔?」
「……『できることを精一杯にやればいい』って、言ってもらったから」

ずっとずっと遠回りをして辿り着いた答えは、あまりにも単純で簡単なことだった。やっぱり平凡な私にできることなんて高が知れている。それでも五条がひとりきりで長い夜を過ごさずに済むのなら、私はただただそばに居続けようと思った。いろんなものを背負い、疲れて帰ってくるこの人に「おかえり」と「おやすみ」を言う、ただそれだけのために。

「つまりは他の男の言葉に動かされたってこと? 妬けるね」
「お、男とは言ってない」
「ナマエ」

名前を呼ばれて振り仰げば、唇に柔らかな温度が触れた。間近で見る五条の顔があんまり嬉しそうだから、私は恥ずかしくなって目を伏せた。それを咎めるような指に顎を掬われ、もう一度、さっきよりも少し長いキスを交わす。見つめ合った青い瞳は溶け出しそうに優しくて、私は不覚にもまた泣きそうになった。

「ね、昨日の、もう一回言って」
「……私ばっかり、ずるい。そっちもちゃんと言ってよ」
「えー。いいけど、お前泣いちゃうかもよ?」
「な、泣かないし」

外はもうすっかり春めいて、淡い色の日差しが懐かしい景色をあまねく照らし出している。固く閉じた花の蕾も、間もなく綻び始めるだろう。そこに誰がいても、いなくても。
胸が締めつけられるほどに寂しいと思うのは、触れた手の温度を覚えているからだ。抱えた傷は、きっとこれからも消えることはない。それでも私たちは飽きもせず手を握り合って、再び春を迎える。生きている限り、何度でも。
頬を包み込む大きな手に、自分のそれを重ね合わせる。今日の空のように澄んだ青い眼差しを受け止めて、そっと目を閉じた。

「大好きだよ」

 

 

 


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