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東京での最後の日は、昨日となんら変わりなく、けれども確実に過ぎていった。

人間、三日も続ければ慣れるものだ。寝不足のぼやけた頭のままでも私はきちんと医務室に辿り着き、散らかった硝子のデスク周りを整え、薬剤の点検や器具の手入れをこなした。これは京都の医務室にもあったら便利そうだなとか、棚の配置を真似してみようかとか、考えはすでにあちらへ戻ってからのことに向かっている。
その調子だ、と私は自分に言い聞かせた。この三日と半日の出来事はすべて、夢か幻だったと思うくらいがちょうどいい。昔馴染みと久しぶりに顔を合わせて、他愛ない思い出話に花を咲かせた、そんな幸せな夢。そういうことにしてしまえば、私は明日からもまた、振り返らずに生きていける。

「帰るのか?」

正午を少し過ぎた頃だった。昨日は徹夜だったらしい硝子が仮眠から戻ってきて、近所のパン屋で買ったというサンドイッチと缶コーヒーをくれた。

「もちろん、帰るよ」

タマゴサンドの封を切りながら答える。硝子は相変わらず興味なさげに「ふうん」と溜息にも似た声を漏らした。

「五条が泣くな」
「……ないでしょ」
「あいつはあれで寂しがりだよ。知ってるだろ」

私はなんと返したらいいのかわからなくて、わざとサンドイッチに大きく齧りついた。また愚痴聞かされるのめんどくさいなあ、と硝子がぼやく。

「私としては、お前がこのままここにいてくれたら助かるんだけど」
「仮眠の時間取れるから?」
「それもある」
「……硝子、クマすごいもんねえ」
「それにデスクも片付くし、なんといっても飲み仲間が増える」

人のことをこてんぱんに潰しておいて、仲間だなんてよく言えたものだ。眉間に皺を寄せる私に、硝子は幼い少女のように悪戯っぽく微笑んだ。いつも大人びてどこか憂いを纏っている硝子の、時折見せるあどけない顔が私は好きだった。

「……ありがと、硝子」
「なにが?」
「私のこと、許してくれて」

硝子はきょとんとして目を瞬かせた後で、今度は呆れたように形の良い眉を下げる。

「お前ってやつは本当に」
「うん?」
「馬鹿だな」
「は!?」
「まったくどいつもこいつも、私の同期は馬鹿ばっかりで困る」

向かい合っていた椅子からおもむろに立ち上がると、硝子はレースのカーテンが掛かった窓を大きく開け放った。まだ肌寒い初春の風が吹き込んで、染みひとつない白衣の裾をはためかせる。柔らかな茶色の髪が乱れるのも厭わず、硝子は快活に笑った。

「許すもなにも、最初から怒ってなんかなかったよ」

 

すっかり日も落ちて辺りが暗くなる頃に、私はひとりで高専を出た。伊地知に送らせると言ってくれた硝子の申し出は丁重に辞退した。いつの間にか立派に補助監督の中心を担っている後輩の手を煩わせるのは忍びなかったし、誰かに見送られるのもなんだか違う気がした。

「またいつでもおいで」

別れ際、ひらりと手を振って硝子は言った。なんなら五条を迎えにやるよ、と冗談とも本気ともつかない顔をするから、私は困ったふりで笑うしかなかった。五条悟を指先ひとつで動かせるような人間は、きっともう硝子くらいしかいない。

たった三日間のために急揃えした化粧品と、少しの着替えを詰めただけの鞄はただただ軽かった。最寄駅の改札をくぐりながら、やっぱり夢だったのかもしれないという気持ちになる。だって、今朝触れたはずの五条の体温ももう思い出せないのだ。なのに、あの冴え冴えとした瞳の色だけが目の奥に焼きついているのは、なんだかずるいと思った。

人もまばらな上り電車は滑るように走り、あっという間に私を東京駅まで運んだ。一番早い新幹線の切符を買い、ホームに立つ。吐く息は白く濁り、暗い空へと昇って消えた。それをぼうっと追いかけていった視界の隅を、小さな白い粒がちらちらと舞った。

(雪かあ……)

そういえば今夜は雪になるって、ネットニュースで見たな。新幹線、止まらないといいなあ。そんなことを表面では考えながら、頭の芯のほうで私はまた古い記憶をひとつなぞり始める。

夏油がいなくなって、しばらく経った頃だった。深夜に突然、私は五条の部屋に呼ばれた。アイスあるけど食う? とかそんな適当な誘いだったように思う。
夜中にホイホイ男の部屋に行くなよと、いまの私だったらきっと自分を嗜めるだろう。けれどその頃の私は、私たちは、自分の体をまっすぐに立たせていた一本の骨をなくしてしまったみたいにふわふわと覚束なくて、だからふとしたとき、目の前に流れてきたなにかに無性に縋りたくなる瞬間が度々訪れた。五条にとってのそれが、たまたまその日、寮に居合わせた私だったのだろう。

五条の部屋は、がらんとしていた。いつか〝大人買い〟をして揃えた漫画本も、壁に貼られていたグラビアポスターも、ずっとテレビに繋ぎっぱなしだったゲームも、全部、なかった。
そのときになって、私はひどく後悔したのだ。負けてばかりで面白くないからって下手くそなまま放り出したゲームを、一緒に楽しめるくらい上手になっていたら。絵柄が好みじゃないと言って断った漫画を、素直に借りてちゃんと読んでいたら。そうしたら、五条はこんな空っぽの部屋で過ごさずに済んだのかな。そんな無意味なことを、馬鹿みたいに考えた。

寮の冷凍庫に二本だけ残っていたアイスを、二人で黙って食べた。耳に痛いほどの静寂が降り積もり、足元から覆われていくようで、息苦しかった。

『……帰んの』

部屋を出て行こうとした私の手を五条が掴んだ。はっとするほど弱く小さな声で、私の名前を呼んで。
あのときも、私は。

甲高い金属音を立てて、思考を切り裂くように新幹線が滑り込んでくる。のろのろと顔を上げれば、風に舞った髪からはあの家のシャンプーの香りがした。

真っ黒な空から落ちてくる雪の粒は次第に大きくなり、静かに、蝕むように、辺りを白く染めていく。
早く帰らないと、本当に足止めをくらいそうだ。白線上に立つ私のすぐ目の前で、静かにドアが開いた。座席を確認しようとポケットから切符を取り出したとき、指先が硬いものに触れた。

(あ……鍵、返し忘れちゃった)

親指と人差し指でつまんで引きずり出したそれは、五条の部屋のカードキーだった。てらてらと光る表面に、泣き出しそうに歪んだ自分の顔が映っていた。

――五条、もう帰ってきたかな。任務で怪我、しなかったかな。寒い思いしてないかな。寝不足で体調崩したりしないかな。今夜はちゃんと、眠れるのかな。
あの真っ白な部屋で、ひとりきりで。

「――……っ、」

気がついたら、走り出していた。

鍵なんか後で送り返せばいい。仕事も溜まってる。経理精算、もう間に合わないかも。そんなマトモな考えが頭をよぎって、でもすぐに剥がれ落ちて散り散りになった。

硝子の言う通りだった。私は馬鹿だ。あのときも、いまも、ただそばにいればそれでよかったのだ。冷えた手を取って、体温を分け合って、それで五条が安心して眠れるなら、なんだってすればよかった。どうして背を向けてしまったんだろう。あんなにも、寂しそうだったのに。
夏油の代わりになんてなれるはずもない。肩を並べて戦えるほど強くもない。でも、それでも。

もつれそうになる足で東京駅を飛び出し、一番初めに目についたタクシーに乗った。息が上がって、目的地を告げる合間にも喉がひゅうひゅうと鳴る。つい三日前に通ったばかりの道のりは、ひどく長く感じた。電話もメールもしようとは思わなかった。少しでも迷いが生まれたら、臆病な私はまた逃げ出してしまいそうな気がした。

 

豪奢なエントランスのタイルを不躾に踏み鳴らし、ちょうど扉を閉じる寸前だったエレベーターのボタンを連打して無理やりに引き止めた。先客の男性が不機嫌そうに眉を顰めるが、構ったものではない。ゆるやかに上昇する箱の中、自分の浅い呼吸音がやけに大きく響いた。こんなに必死になって走ったのは、学生時代以来かもしれなかった。

「――五条、」

玄関を開けた瞬間、あの白いリビングルームが視界に飛び込んでくる。五条はひとりでソファに腰かけ、真っ暗なテレビを見つめていた。その横顔が振り向き、俄かに目を見開く。そこでようやく私は、人様の家に無断で上がり込んでいることに気がついた。

「……ナマエ」
「あ……あの、勝手に、ごめん」

頭も口も、うまく回らない。玄関に突っ立ったまま肩で息をする私を、五条はぼんやりと眺めた。寝ぼけているみたいに薄く開いた唇が少し間抜けだ。数メートルの距離を隔てたまま、無言で見つめ合う。先に沈黙を破ったのは五条だった。

「……なに、忘れ物?」
「あの……うん、鍵。返し、忘れて」
「その返し忘れた鍵で、不法侵入してきたんだ?」
「ふ、……、ご、めん」
「……いや、嘘。冗談」

こっち来て、と促され、私は引き寄せられるように五条の正面に立った。ソファに座ったままの五条の顔は私の目線より下にあって、その目を覗き込んでいるのは私のほうなのに、心を見通されるような心地がする。

「……もうひとつ、忘れてたこと、あって」
「……なに?」
「わたし、」

ゆらゆらと揺れる青を見つめていたら、不意にどうしようもなく胸が詰まって、涙が溢れそうになった。ごめんも、ありがとうも、すべてがぐちゃぐちゃに入り混じって押し寄せてくる。唇を噛んで俯いて、続きを探すように視線をさまよわせた。なにから伝えればいいんだろう。どんな言葉を並べたら、全部、一滴も零さず、ちゃんと伝えることができるだろう。どうしたらこの人を、ひとりにしないで済むんだろう。
無意識のうちに縋るように宙を泳いでいた指先が、大きな手に掬い取られる。はっとして顔を上げれば、澄んだ双眸がまっすぐに私を捉えていた。

「……僕もずっと忘れてたんだけどさ」
「……、うん……」
「この部屋、広すぎんだよね」

そうして泣き笑いのように目を細めた五条を見たら、もう堪えられなかった。
合わさった手を握り返して、それから反対の手で小さな頭をぎゅっと抱え込んだ。淡雪のような色をした髪に鼻を埋めたら、いつかと同じ、優しい匂いがした。

「――ねえ、ナマエ」

背中に回された手のひらから、柔らかな熱が伝わってくる。それは次第に私の体温に溶けて、ひとつになって、体の隅々にまでじわりと沁み込んでいく。

「あのとき、なんて言ったの?」

囁くような声が私の胸を震わせる。今度こそ、ちゃんと伝えられるかな。大きく息を吸って、精一杯の想いを詰め込んで、向かい風にも負けないくらい、強く強く。

 

 

>> Epilogue