8

「本っ当にごめん」

白いシーツに額をこすりつける私を、五条は面白い動物でも観察するように眺めていた。
平身低頭をまさしく体現するような格好で、私はベッドの上に平伏した。固いマットレスにぐりぐりと頭を押しつけたところで、それ以上めり込むことはできない。穴があったら入りたい、って最初に言い出した人も、きっとこんな気持ちだったに違いなかった。

結構なペースで飲んでしまった自覚はあった。旧友との再会で気分が高揚していたこともあるし、空きっ腹にいきなりお酒を注ぎ込んでしまったことも、連勤に次ぐ連勤で疲労が溜まっていたことももちろんある。でも、それにしたって。

「まさかこの歳になって、あんなにへべれけになるやつがいるとは思わなかったよね」
「……ごめんなさい……」
「しかもこの僕をタクシー代わりに使うなんて」
「返す言葉もございません」

店を出たところで五条におぶってもらったことは朧げに覚えている。まるで夢を見ていたようにあやふやな記憶だけれど、五条の話を聞く限り、残念ながらすべて現実に起きたことらしかった。途中で私が眠りこけたため、そこからはタクシーで帰ってきたと。なるほど、最悪でしかない。

正座したまま、私は恐る恐る五条を見上げた。起きたときにはもう彼の支度は整っていて、ずいぶん見慣れてしまったアイマスクが小さな顔の半分を覆い隠していた。
昨日はちゃんと眠れたのかな。こんな状況だというのに、硝子から聞いた話がふと脳裏をよぎる。やたらと主張の強いツヤツヤの唇は相変わらず綺麗な色をしているけれど、その表情のどこかに疲れが滲んでいやしないかとなんだか気になって、まじまじと見つめてしまう。

「正座はもういーから、早く支度して」

そんな私の視線が許しを乞うているように見えたのかはわからないが、やがて五条は口を尖らせてふうと溜息を漏らした。

「僕お腹空いちゃったんだけど」
「はい、なにか作ります……」
「なんかココアも飲みたい気分だな〜」
「はい、お淹れします……」
「肩も凝ってるしな〜。誰かさんのことおんぶしたせいで疲れちゃったな〜」
「……揉ませていただきます……」

ここぞとばかりにあれやこれやと注文をつけられても、言い返すこともできない。体を引きずるようにベッドから降り、五条の後に続いてリビングへと向かう。

結局ここに二泊もしてしまった。だいぶ勝手がわかってきたキッチンでお湯を沸かそうとしたとき、カウンター越しにソファが目に入る。そこに昨日まではなかったブランケットが掛けられているのを見つけて、私はまたしても後悔の念に苛まれた。

「……もしかして五条、ソファで寝た?」
「ベッドのど真ん中で大口開けて寝てる人がいたからねえ」
「…………」

一昨日は人のこと抱き枕にしたくせに、なんて文句は到底言えるはずもない。家主をソファに追いやって自分だけすやすや寝ていたなんて、私はなんと厚かましい女なのだろう。

「……あの、ほんと、ごめん」

低く呟くと、食パンの袋を開けようとしていた五条はぴたりと手を止めた。形の良い唇が薄く開き、なにかを言いかけてすぐに閉じる。この際だから、追加の要求があるのならいくらでも言ってほしい。いまなら大抵のことは聞き入れる心づもりがある。

「……もういいって。別にお前のせいじゃない」

しかし私の決心に反して、返ってきたのはぽつりと零れ落ちるように静かな声だけだった。
ぽん、と頭に大きな手が乗ってくる。「でも」「酔っ払いに発言権はありませーん」反論しようとしたら、そのまま頭を押さえ込まれて下を向かされた。

「……ナマエさ」
「うん……?」
「昨日の帰り道で話したこと、覚えてる?」
「え?」
「……いや、やっぱなんでもない」

私の髪をぐしゃぐしゃと乱し、五条の手は離れていく。
不意に懐かしさが込み上げた。私の髪を、五条はよくこうして乱暴に掻き回していた。あの頃はそれが子供扱いされているみたいで嫌だったけれど、いまは、なんだか。

「五条、」
「さ、早くご飯にしよー。卵食べる? 目玉焼き派? スクランブル派?」

冷蔵庫を開ける背中に手を伸ばしかけて、やめる。

「……目玉焼き」
「じゃ、目玉焼き二つよろしく」

冷えた卵を二つ、両手に受け取って、私は黙って頷いた。

 

〝研修生〟としての二日目は朝から慌ただしかった。急患が立て続けに運び込まれ、私は硝子を手伝って応急処置やら薬剤の補充やらに奔走した。午後は午後で、その硝子が急な呼び出しで出かけてしまった穴埋めにと医務室の留守を任された。
訓練で怪我をして訪ねてきたらしい生徒たちには『誰こいつ』という目で見られるし、五条の同期で研修に来ているのだと説明すれば、それはそれで怪訝な顔をされた。五条悟の同期が家入硝子のほかに二人いたということを知っている人間は、いまどれくらい残っているのだろう。

「……五条が先生かあ」

手元の紙に赤いサインペンできゅっと丸をつけながら、私は独りごちた。昼休みに突然やってきた五条が「これ採点やっといて〜。留守番ったってどうせ暇でしょ」という失礼な言葉とともに押しつけていった、一年生の小テストだ。

五条は、思った以上にちゃんと教師をやっていた。校内を駆けずり回りながら、その姿を何度も目にした。グラウンドで生徒たちの組手を眺める横顔も、実習の引率に出て行く背中も、座学の成績表を見て「あーあ」なんて笑う声も全部、〝先生〟だった。

誰かを教え、導き、守り、育てる。昔の彼が聞いたら、『反吐が出る』と真っ先に吐き捨てそうなことだ。そんな地道で、途方もない道を自ら選び取った。他でもない、あの五条悟が。

「……すごいなあ」

最強の名を背負ってもなお、その身に重荷を課し、軽々と先へ進んでいく。
硝子は私のことを『簡単なことほど難しく考える』なんて評したけれど、それは違う。言えるはずがないのだ。こんなにも大きなものを抱えた人を前にして、ちっぽけな自分の想いなど。

結局のところ、私はこの場所から逃げただけだった。
私は凡人だから、なにもできなくたって仕方ない。どんなに努力しても追いつけなくて当たり前。そんな風に思うことでしか、私は前に進めなかった。自分を守るためなら、ひとりでなにもかもを背負った五条のことさえ、見ないふりをした。
それでいまでも好きだとか、都合がいいにも程があるじゃないか。こんな擦り切れた気持ちを九年経っても捨てきれず、それどころかもう一度会えたことが嬉しいなんて、そんなの浅ましすぎて、私は私をもっと嫌いになってしまいそうなのだ。

『君は君にできることを精一杯――』

降り注ぐ日差しのような優しい声を思い出す。それを懐かしいと思うことさえ、許されない気がした。

(……ねえ夏油)

やっぱり私にできることなんて、なんにもなかったよ。あの頃も、君がいなくなったときも、いまも。

「――採点、終わった?」

かたりと音がして顔を上げた。滴るような金色の夕日を背負い、五条が戸口に立っていた。ぼやけた視界の中でその姿が昔と重なって、心臓が大きく音を立てる。

いつもだるそうに扉を開け、クラスメイトの中で一番最後に教室に入ってくる。私の席の前を足早に通り過ぎ、隣に座る。そのほんの一瞬の間、私は息を止める。それを見つけた硝子が訳知り顔で微笑む。遅刻を咎める夏油の声がする。

そんなどうってことない記憶が、じわりと滲み出すインクのように頭の中を染めていった。いつの間にか目の前までやってきた五条が、私の顔を見下ろして微かに息を呑む。なんだろう。お昼ごはんの食べカスでもついてたかな。のろのろと頬に手をやったとき、その指先を掠めるようにして涙が一粒、転がり落ちていった。

「……あ、え? ごめ、なんか目にゴミ、入ったのかな」

顎まで伝った水滴を慌てて服の袖で拭い去る。デスクに広げたままのテスト用紙に落ちなくてよかったと考えているうちに、今度は反対の目からも大きな粒が溢れ出した。ばたり、ぼたりと三つか四つ零れたそれは、あっという間に片方の袖では受け止めきれないくらいの勢いで流れ始めた。

「ナマエ」
「ちょっ、と待って、すぐ止まるから。五条、後ろ向いてて、」

ぐっと目元に力を込める。水道の元栓みたいに一発で止まってくれないかな。だってこんなの、こんなのはだめだ。私が泣くなんて間違っている。化粧が落ちるのも構わずに手のひらでごしごしと目を擦るが、一向に止まる気配がない。止まれ、止まって、お願いだから止まってよ。

「あーこらこら、擦らないよ」

おもむろに、ひんやりとした手が私の腕を取って引っ張った。おかげで私は無様な泣き顔を好きな男の前に晒す羽目になってしまった。なんて情けない。何年経っても私は格好のつかないことばかりだ。
たまらず顔を俯けた私の反対の手から、握りしめていたサインペンがするりと抜き取られていく。

「……なに、してるの」
「んー?」

五条は背中を丸め、真っ赤なサインペンで私の手の甲にぐるぐると絵を描き始めた。やわいフェルトのペン先がくすぐったくて身を捩ると、動くなとばかりに強く手を握られる。

「僕、先生だから。いい子には花丸つけてあげるの」
「……なにそれ」
「はいできた」

得意げに笑った五条が顔を上げると、そこにはでかでかと元気いっぱいな花丸ができあがっていた。それがあまりにも能天気だったせいなのか、それとも子供をあやすみたいな五条の声がおかしかったからか、たぶんその両方で、知らず知らずのうちに私の涙は止まっていた。

「……昔もこうやって、誰かの顔に落書きしたの、覚えてる」

言葉にすれば、まるで昨日のことのように鮮やかな思い出が蘇ってくる。

「自習の時間、珍しく夏油が居眠りしてて」
「僕が徹夜でゲームに付き合わせてたからね」
「硝子が油性マジックでほっぺに花丸描いたの」
「お前も描いてたじゃん」
「……私はおでこに『肉』って書いた」
「はは、最悪」
「後でめちゃくちゃ怒られて」
「うん」
「楽しかっ、……」

胸が痛かった。
いまさらになって思い知らされる。私はあの日々が大好きだったのだ。五条がいて、硝子がいて、夏油がいて。血生臭い世界だけれど、四人でいればそれだけで宇宙一楽しい場所みたいに思えた。

「……うん。楽しかったね」

それだけで、よかったのに。

長い指が伸びてきて、私の頬に張りついた髪を掬い上げる。それを優しい手つきで私の耳に掛けながら、五条は小さく「帰ろっか」と呟いた。
私はゆるゆると俯いて、そうしたらまたひとつ涙が零れて、真っ赤な花を歪に滲ませていった。

 

帰り道、私たちは少しだけ遠回りをして、昔よく通っていたレンタルショップで映画をたくさん借りた。それからチェーン店の安い牛丼をテイクアウトして、コンビニに寄ってジュースとお菓子と、私は缶チューハイを一本だけ買った。広大なソファに二人並んで腰掛け、それらを黙々と消費しながらいつまでも映画を観た。そうしていればなにかを取り戻せるとでもいうみたいに、いくつもいくつも。

「今日、帰るの?」

明け方近く、青白い光がカーテンを透かし始める頃、それまでずっと黙っていた五条が言った。

「……帰るよ」
「そっか」
「仕事、溜まってるし」
「うん」
「経費精算もそろそろやばい」
「あー」
「……五条」
「なあに」
「眠れないって、本当?」

密やかな音楽とともに流れるエンドロールから目を離し、私はずっと高くにある横顔を見上げた。
白い頬がゆっくりと振り向く。そのときになってようやく、実に九年ぶりに、私はまっすぐに五条の瞳を見た。遮るものを取り払った青が、薄明を受けてちらちらと瞬いていた。

「……本当だったら、治してくれる?」

膝の上に投げ出していた手を、五条の指先が攫う。そのまま、私の手のひらは硬い胸にぺたりとくっついた。
とく、とく、とく。一定の速度で刻む心音が流れ込んでくる。五条はもう一方の手で私の頭をそっと包み込むようにして、こちらへと顔を近づけた。唇が触れそうな距離で、二人分の呼吸が混ざり合う。

静かに鳴り続けるテレビと、低く唸る冷蔵庫。それ以外、この部屋にはなにもない。ぎしりと軋んだソファはさながら、私たちを乗せて白い海に浮かぶ舟のようだった。

「ナマエが、治してよ」

囁くように言って、五条はやんわりと目を細めて私を見た。長い睫毛の先に朝日の粒が宿る。泣いているみたいだと思った。ひたひたと水を湛えた湖のような青色が、いまにもその縁から滔々と溢れ出してくるのではないかという錯覚に陥る。
思わず手を伸ばしそうになった。こんなにも美しい瞳からなにかが零れてしまうのなら、私が掬ってあげたいと思った。自分がそうしてもらったように。

――でも、私は、私なんかじゃ。

は、と短く吐いた息が震える。五条は白い睫毛をゆっくりと伏せて、唇の端で少しだけ笑った。そうして再び現れた青い瞳は、もう揺れていなかった。

「……なーんてね」

するりと、大きな手が離れていく。
私はそれを追いかけることができなかった。だって私の行動ひとつ、言葉ひとつにどれだけの意味があるのだろう。ちっぽけな自分ひとり守るだけで精一杯の私が、もっとずっと大きな傷を隠しているはずのこの男に差し出せるものなど、埃をかぶった恋心のほかに、なにもあるはずがなかった。

「最近あんまりちゃんと眠れてないのはホント。でも問題ないよ。元々そんなにたくさん寝るタイプでもないし、かえって便利なくらい」

ソファから立ち上がり、ひとつ伸びをして振り返った五条は「僕が寝不足くらいでくたばるとでも思った?」といつも通りの尊大さで笑った。私はゆるゆると首を振り、ソファの上に力なく垂れ落ちた自らの手をきゅっと握りしめる。指先に淡く残っていた体温は、閉じ込める暇もなくすぐに消えていった。

「僕、今日は夜まで任務なんだよね。見送り行けなくて悪いけど」
「……ううん、大丈夫」
「出かけるまで部屋は好きに使っていいから」
「五条は」
「僕はシャワー浴びたらもう行くよ」

そっか、と掠れる喉から絞り出した声は、五条の耳に届いただろうか。

それから私はソファの上に横たわり、眠気が訪れるのを待った。繭のようなブランケットにくるまって、浴室から遠く響いてくる水音や、衣擦れの音を聞きながら、きつくきつく瞼を閉じた。きっと次に目を開けたらもう五条はいなくて、私はあるべき場所に戻って、また日常が始まる。そうやって生きていくと決めたのだ。そんな風でしか、私は私の存在を許してあげられない。

「――じゃあね、ナマエ」

大きな手が私の髪をそうっと撫でて通り過ぎる。扉が閉まった後には、無感情な家具と私だけが残った。
茫洋とした部屋に響き続けるモーター音がうるさい。どうせ中身は空なのだから、潔くコンセントを引き抜いてしまえばいいのに。そんなことをぼんやりと考えながら、私は浅い夢の中へ落ちていった。

 

 

>> 09