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※五条視点

 

 

彼女のことを思い出したのは、ほんの些細な瞬間だったと思う。
よく眠れない日が続いていた。原因は自分でもわかっている。僕もまだ人間なのだと、こんなことで思い知らされるとは皮肉なものだった。

元来、睡眠をあまり必要としないタチなので、生活にも仕事にも大した影響はなかった。珍しく任務の入らない夜などは、買ったきり積んだままだった映画を立て続けに消化して、かえって有意義だったくらいだ。
そんな生活を続けて、二月の終わりに差し掛かった頃だった。朝方、古い洋画を観終えてテレビの電源を落とし、僕はそのままソファに横たわった。白い壁をぼんやりと見つめながら、やがて訪れるだろう微かな眠気を待っていた。

なにもない部屋にはいつも、無機質な冷蔵庫のモーター音だけが残る。しんしんと降り積もって部屋中を埋め尽くしていくようなその音が、その日はやけに耳に障った。騒がしい映画を観ていたせいかもしれなかった。昔、誰かと一緒に観たくだらないB級ホラーを思い出した。

窓を開けたのは、ほんの気まぐれだった。
ひゅうと音を立てて流れ込んでくる風に逆らって、僕は裸足のままベランダに立った。そうして深く吸い込んだ空気はまだずいぶんと冷たかったけれど、どこか春めいて優しい匂いを孕んでいた。
たったそれだけのことだった。それだけで、なぜか僕は不意に彼女を思った。おかしな話だ。それまでずっと、名前すら口にすることもなかったのに。
きっと、彼女に最後に会ったのが、そんな冬の終わりの日だったからだ。

 

「……寝てんの? コレ」
「みたいだな」
「お前のペースに合わせて飲ませないでよ」
「悪い。久しぶりだったからつい」
「つい、ねえ……」

溜息をついてテーブルの向こうを見やる。形ばかりの謝罪の言葉を吐いたその舌の根も乾かぬうちに、硝子は大きなビールジョッキを豪快に呷った。これで何杯目なんだろうか。そして、お猪口を握りしめたまま突っ伏して眠っている彼女は。

「ちなみにどんだけ飲ませたの」
「飲ませただなんて人聞きが悪いな。二人でせいぜい日本酒六合だよ。しかも大半は私」
「こいつのキャパとか知らないけど、明らかにオーバーしちゃってるよねコレ」
「酔いたい気分だったんじゃないか?」

理由は知らないけど、と含みのある声で言われ、閉口する。迎えに呼ばれた時点であらかたの事情は知られているのだろうと思っていたが、予想外に筒抜けだったらしい。しかも悪い方向で。

硝子から連絡が来たのは、ちょうど任務を終え、家に帰り着いたときだった。ドアを開けて一秒足らず、部屋の照明が落ちたままなのを見て、まずおかしいと思った。無用な広さを誇る玄関にも彼女の靴がない。どこかに出かけたのか、それとも。
半ば無意識にポケットからスマホを取り出した僕の指は、しかし彼女の番号を呼び出す前に静止した。

わざわざテイクアウトしてきた熱々のピザを玄関に放置する羽目になったのも、閉じかけたエレベーターの扉をこじ開けたのも、降りたばかりのタクシーにもう一度飛び乗ったのも、どれもこれも全部、迎えを要請するメッセージに添えられた一枚の写真のせいだ。――うなじまで真っ赤に染めて酔い潰れている、彼女のあられもない姿の。

「おーいナマエ、帰るよ」
「んー……」
「特級呪術師様のお迎えですよ〜。起きないと迎車料金取りますよ〜」
「……ごじょう?」

肩を小さく揺らしてやれば、伏せられた睫毛がゆるゆると持ち上がる。なんだか既視感があると思ったら、昨日も今朝も僕はこうしてこいつの寝顔を見ているのだ。ひどく重たそうに頭をもたげ、ナマエはぼんやりと僕を見上げた。潤んだ瞳は焦点が合っていないのか、何度も緩慢な瞬きを繰り返す。そうしてからもう一度、舌足らずに僕を呼んだ。

「ごじょ、なんで……?」
「お前が潰れたっていうから迎えに来てやったんだけど?」
「……いらない、ひとりで帰れる、から」
「そうだねえ、まずは自力で立ってから言おうか」

ガタゴトと椅子を鳴らして立ち上がろうとする彼女の脇に手を差し入れ、ふらつく体を支えてやる。なぜか不服そうにじっとりと睨み上げられたが、素知らぬふりをしておいた。壁に掛かったハンガーから彼女のコートとマフラーを剥ぎ取って適当に着せ、散らばった財布やらスマホやらを鞄に詰めていく。最後に自分の財布から紙幣を数枚抜き取って硝子に渡すと、赤い唇がにんまりと弧を描いた。

「ずいぶんと甲斐甲斐しいな。恋人気取りか?」
「……保護者だっつの」
「で、保護したその子をどうするつもり?」
「どうもこうも。連れて帰って寝かせるよ」
「それだけ? まさか本当に添い寝させるためだけに京都から攫ってきたわけじゃないだろ」

からかい混じりの口調に、自分の顔が歪むのがわかる。人を誘拐犯みたいに言いやがって。人聞きが悪いのはどっちなんだかわからない。確かにちょっと強引だったかもしれないけどさ。
硝子の探るような視線には応えず、いまだ足取りの覚束ないナマエの肩を抱えた。千鳥足もいいところだ。こんなんで、僕が来なかったらどうやって帰るつもりだったのだろう。

「ほら、ちゃんと歩けって。タクシー乗るよ」
「やだあ」
「……お前ね,いい加減に」

幼子のようにぎゅうと唇を結んだナマエは、その上からさらに封をするように両手のひらを宛てがった。くしゃくしゃに顰められた顔がどんどん下を向いていく。しまいには、僕からは彼女のつむじしか見えなくなった。「ナマエ?」訝しく思って名前を呼べば、一拍置いてくぐもった声だけが返ってくる。

「…………車、乗ったら、吐く」

あーもうこいつ、マジか。

「もっとちゃんと掴まって。落としそう」
「んん」

苦しげな呻き声とともに、背中でもぞもぞと動く気配がする。その後で僕の首に巻きついてきた腕は、しかしすぐに剥がれ落ちてしまいそうなほど弱々しかった。この酔っ払いめ。小さな体を思いきり揺すり上げながら、思わず舌打ちが漏れた。

「舌打ちしないでよお」
「あーハイハイごめんね」
「……怒ってる?」
「まあ、こんだけ派手に潰れられたらねえ」
「迎え、来なくてもよかったのに……」
「お前になんかあったら僕が怒られんの」

そっかあ、と吐息のような声で言ったきり、ナマエは黙った。

硝子を残して店を出た僕たち――というより、ナマエを背中に乗せた僕は、人通りの多い大きな道を避け、自宅方面へと続く住宅街の隙間を縫うように歩いていた。家まで〝飛んで〟もよかったのだけれど、万が一にも彼女の三半規管に負担がかかり、玄関先で戻されてはたまらない。そうなったときに誰が掃除をするのかは、火を見るより明らかだ。

ナマエは時折ウンだのスンだの唸るだけで、あとは緩みきった体を僕の背に委ねていた。日本一忙しいと言っても過言ではない特級術師を、これだけいいように足に使う人間はそうそういない。そこのところを彼女はちゃんとわかっているのだろうか。もっとも、そんな彼女に対して怒りの一片も湧いてこない自分に、僕は一番呆れているのだけれど。

「寒くない?」
「さむい」
「もっとくっついてなよ」

そう声をかけても、首に回った腕にこもる力はほんのわずかだ。躊躇いがちに擦り寄せられた頬が僕の耳を掠めた。酒で温まっているはずの彼女の体は、それでも僕の体温よりずっとぬるかった。
昔も、こんなことがあった。呪力を使い果たし、抜け殻のようになったナマエのことを、こうして背負って帰ったのだ。抱き起こした体がぞっとするほど冷たかったのをいまでも覚えている。柄にもなく、焦ったことも。

「お前はさあ、昔っから自分のキャパをわかってないよね」
「……ん……」
「……いや、わかっててやってるのか」

だからこそタチが悪いのだ、と思う。

学生の頃、僕たちの世代はまあ俗に言う〝当たり〟というやつだった。身内贔屓でもなんでもなく、稀有な才能とそれを活かしきるだけの力を持った人間が面白いほど揃っていたのだ。
その中でただひとり、ナマエだけが一歩も二歩も後ろにいた。術式に体が追いつかないやつというのはよくいる。その典型のような彼女は、それでも腐らず、ひたむきに努力を重ねているように見えた。

筋肉の付きが悪い体で生傷だらけになりながら戦闘訓練をこなし、毎晩遅くまで医学書を読み漁り、自分よりずっと強いはずのクラスメイトの怪我にも、真っ先に気づいては治しに来た。ほんの出来心でついた『豆乳飲むと呪力増えるらしいよ』なんて見え透いた嘘にさえ、まんまと引っかかる始末だった。
なんでそんなに馬鹿なの、と問えば、みんなに追いつくために、できることはなんでもしたいのだと言って、そっと目を伏せた。

そういう彼女を見ていると、僕はひどく苛々した。できもしないことを馬鹿みたいにやり続けて、それでなけなしの生命を削るのは愚かだと思っていたし、実際に口にも出した。その度に、そんな言い方をするもんじゃないと隣から窘められることもまた、いっそう腹立たしかった。その感情の意味も名前も、幼い僕にはわからなかった。

そうして、彼女を励まし、僕を叱っていたその男がいなくなって二回目の春が来る前に、ナマエはすべてを置き去りにするように東京を出た。

『五条、どこ行くの』

薄曇りの空の下で、寂しげに瞳を揺らして言ったナマエを思い出す。よくもそんな顔をして言えたものだと思った。置いていくのは自分のほうだろうに。

「……ごじょお」

不意に耳元で掠れた声がして、僕の意識は過去から引き戻された。ナマエの白い手が僕の上着の襟元をきゅっと握りしめる。その指が小さく震えていることには、気づかないふりをした。

「んー?」
「あのね」
「なあに」
「……ごめんね、」

耳を澄ましていなければそのまま搔き消えてしまいそうな、か細く頼りない声で彼女は言った。

「ごめん」
「うん」
「ごめんね」
「うん」
「ごめ、……」
「……うん」

うわごとのように繰り返される彼女の言葉を、僕はただ聞いていた。酔っ払って正体を失くした、それだけの話ではないのだろう。

あの頃から僕たちはそれぞれに傷を負って、それを癒す時間も方法もないままに大人になった。それは誰のせいでもなかった。誰の傷が誰のより深いとか、そんな背比べには意味がない。それでも、クソ真面目で諦めの悪い彼女は、いつまで経っても自分を責め続けて、ひとり、抜け出せずにいるのかもしれなかった。

「……ほんっと、なんでそんなに馬鹿なのかなあ」

なにもできなくたって、よかったんだよ。そう言ったら彼女をもっと傷つけることくらいは僕にもわかる。こうして、彼女が自分の心を守るために必死で築いた居場所から引き剥がし、連れ戻したことだって。
それでも、無性に会いたいと思ってしまった。理由なんてよくわからない。硝子はなにか目的があると踏んでいるようだけれど、そんなの僕が一番知りたいくらいだ。それこそ、あの夜の空気がそうさせたとしか言いようがなかった。

「……ねえ、ナマエ」

最後の日も、ナマエは同じように僕の背中で泣いていた。あの錆びた自転車の軋む音と、緩やかに流れていく景色が繰り返し繰り返し、頭に浮かんでは消えた。

「あのとき、なんて言ったの?」

夜の底にいるように静かな暗闇の中を、彼女を背負ってゆっくりと進んでいく。返事はなかった。ちらと視線をやれば、細い髪の隙間から覗く横顔は穏やかに目を閉じていた。緩く伏せられた睫毛の先をぼんやりと見つめて、そうして僕はようやく気がついた。

(――ああ、そっか)

僕はきっと、あのときの言葉をずっと探しているのだ。

 

 

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