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目の前で、美女が腹を抱えて笑っている。
真紅のルージュがよく似合う唇はこれでもかと歪み、どこか影のある目元には涙が滲んでいる。もちろん悲しみによるものではない。久しぶりに会った旧友の災難を知り、臆面もなく笑い転げた結果の涙だ。
もうかれこれ五分もひいひい言いながら笑い続けている硝子を、私は半眼でじっとりと見やった。そろそろ過呼吸にでもなりやしないかと心配になるくらい、彼女の笑いっぷりはひどかった。硝子のこんな姿、伊地知が見たら卒倒するんじゃなかろうか。

「……ねえ、いくらなんでも笑いすぎじゃない……?」
「あっは、ごめん、おかしくて、……ふふ、んふふふっ……」
「…………」
「はー、苦し」

ひとしきり笑い終えて満足したのか、硝子は流れるような仕草で残り一切れとなっていたつまみの刺身を口に放り込む。あーあ、それ私が食べようと思ってたのに。

「それで、昨夜は五条と仲良く添い寝したってわけ?」
「……そうです……」
「久しぶりに顔見せたと思ったら,いきなり面白いことになってるじゃん」

面白いと思ってるのはあなただけなんですけど。そう顔に書いてやっても、彼女はそんなものちっとも読んでくれない。代わりに年季の入ったメニューブックを開いてさっと目を走らせ、店員を呼び止めてなにやら難しい名前の日本酒を注文した。

硝子の行きつけだというこの居酒屋は、食事の品数が極端に少ない。何十ページもあるメニューブックの中身は、ほとんどが日本全国津々浦々から取り寄せられた酒だった。主役はあくまでも酒、あとはそれを引き立てるつまみがいくつかあればいい、そんな店だった。いかにも彼女の好みそうなその潔さが、私にとっても心地よかった。

「ていうか、あいつ眠れたのか。よかったな」
「え?」
「いや。最近、睡眠が浅いとか珍しくぼやいてたから」
「……そんな風には見えなかったけど」

独り言のような硝子の言葉に、私は低く答えた。だって、とてもじゃないけれど眠れないと悩む人の入眠速度ではなかった。秒だよ、秒。力説する私に硝子は「ふうん」と気のない返事をよこす。五条の入眠の様子など、彼女にとってはどうでもいいのだろう。私だって別に知りたくなかったし。

「それにしても驚いたよ。五条が『京都から研修生が来るから面倒見てやって』なんて言うから、なにかあるんだろうとは思ってたけど、まさかのミョウジ先生ご登場」
「その呼び方やめて……」
「いいだろ、ちゃんと校医なんだから」

硝子の手が、空いた私のお猪口に冷酒を注ぐ。乳白色をした丸い陶器の中で波打つ小さな水面を覗き込めば、むうと唇を結んだ自分の顔が映った。そりゃあこんな顔にもなる。昨日から訳のわからないことだらけなのだ。

今朝、目覚めると五条はいなかった。信じがたいことに、私はあのまま朝までぐっすりと眠ってしまったらしい。起き上がったら首を寝違えていて、十中八九その原因となったであろう就寝時の体勢を思い出し、頭まで痛くなりそうだった。
鞄にしまったままだったスマホには、五条からのメールが届いていた。このご時世にメール? と訝しく思ったけれど、なんのことはない、メッセージアプリの連絡先をお互いに知らないのだった。面倒くさくてずっと変えずにいたメールアドレスがまだ五条の手元に残っていたことには、少なからぬ驚きがあった。

『起きたら硝子のとこ行ってね。合鍵はテーブルの上』

書かれていたのはそれだけだ。リビングのテーブルの上には、ミニボトルのスキンケアセットと菓子パンひとつが入ったコンビニ袋とともに、真新しいカードキーが一枚、無造作に置かれていた。

東京校の風景は、呆れてしまうくらいなにも変わっていなかった。記憶にあるよりも一段と古びた引き戸を開けたときの硝子の顔、写真に撮っておけばよかったかもしれない。仕事柄、そして術式柄、硝子とはこれまでも細々と連絡を取り合ってきた。けれど顔を合わせるのは学生時代以来だった。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔って、きっとこんな感じなんだろうな。なんてことを頭の隅で考えながら、私は曖昧に笑った。数秒おいて「よ」と片手を挙げた彼女の淡い笑みだけは唯一、あの頃と変わっていなくてよかったと思えた。そう思えた自分に、少し安心もした。

なみなみと注がれた透明な液体を零さないよう、そっとお猪口を持ち上げて、それから一息に飲み干す。目を丸くした硝子が「おおー、いい飲みっぷり」と小さな拍手を送ってくれた。美味しいつまみと硝子のペースに乗せられて、自然とすいすい飲んでしまう。危険だ。でも、とても素面であの家に帰る気になれない。

「そもそも私、研修とか聞いてない」
「まあ適当だろうな」
「じゃあなんのために私は東京まで連れて来られたの?」
「さあ?」

即答された。「あいつの腹の中なんて誰にもわかんないよ」……まあ、それはそうかもしれないけど。

「……硝子、お願いが」
「やだよ」
「まだなにも言ってないよ」
「私は寮だから泊めてやれない。なにかあって五条に文句言われてもめんどくさいし」
「そこをなんとか〜……」
「別に手を出されたわけじゃないんだろ?」
「てっ……!」

思わずお猪口を取り落としそうになる。眉ひとつ動かさずに、よくそんなことを訊けたものだ。儚げな見た目に反して豪胆な硝子の性格が私は好きだったけれど、こういうときばかりは厄介に思う。

「……ご、五条が私に手なんか出すわけないって。ことあるごとに『チビ』だの『発育が足りねえ』だの言われてたんだから」
「十代の頃の話じゃん」
「いまだって変わんないよ」
「じゃあなおさら問題ないな」
「問題ある!」

本当に、あるのだ。
唇を引き結んだ私を見、硝子はゆっくりと目を細めた。わかってるくせに。

人間の感情というのはなんとも煩わしいものだ。忘れた頃に首をもたげては、きつく閉めたはずの蓋をじわりと押し上げて滲み出してくる。
五条に会ってからの私がまさにそうだった。東京を離れ、何年もかけて苦労して飲み込んだいろんな想いが、たった一度の邂逅によってあまりにも呆気なく顔を出してしまったのだ。
これを再び胸の奥底に沈めなければならないのかと思うと、気が遠くなりそうだった。きっとまた途方もなく辛くて、痛くて、とても苦しい。

「言っちゃえばいいのに」
「なにを?」
「いまでも好きだって」
「!?」
「顔に書いてあるぞ」

私の手から今度こそお猪口が滑り落ちた。すでに空になっていた小さな器はころころとテーブルの上を転がり、硝子の白い手に当たって止まる。彼女は特に気に留める様子もなくそれを拾い起こして、また新たな酒を注いだ。

「お前は簡単なことほど難しく考えるからな。悪い癖だよ」
「な、な、な、なに、なんのはなし」
「あのときもそうだった」
「あのときって」
「二年の終わり頃だったかな。お前が任務で呪力切れになって倒れて」

ああ、と私は声にならない息を吐いた。思い出したくもない。

「元々、体調がよくなかったんだろう? なのに、それを同行者の五条に言わなかった」
「……それは」
「お前を抱えて医務室に駆け込んできた五条の顔、見せてやりたかったよ」

さぞ恐ろしい顔だったのだろうな、と思う。ベッドで目を開けた直後に見た五条の瞳の色は、いまだ鮮明に脳裏に焼きついている。拭っても拭っても消えない、傷痕みたいに。

「……硝子。私ね」

言いながら、私は片頬をぺたりとテーブルにくっつけて重い頭を預けた。横向きになった視界の中で、硝子の顔がぼんやり滲む。お行儀が悪いかな、と思いながら、もう思考がうまく働かない。やっぱり飲みすぎてしまったみたいだ。ゆるゆると回る意識とは別のところで、口から勝手に言葉が零れ落ちていく。

「わたし、みんなの隣に立ってていいって、自信がほしかったんだよねえ……」

自分が無理をしていることはわかっていたのだ。
その人を助けたいと思ったのは嘘ではなかった。でもそれ以上に、劣化版でもショボい呪力でも、私にもできることがあると信じたかった。たぶん、誰でもない私自身に対して、私は証明してやりたかった。そうやってもがいている最中だったのだ、あの頃の私は。

「やっぱきょう、ホテル泊まる……」
「そうしたいなら止めないけど、五条は怒るんじゃない?」
「……それはやだ……」
「酔ってるし」
「よってない」
「酔っ払いはみんなそう言う。迎え呼ぶからね」
「むかえ……?」

硝子の長い指が、スマホの画面をすたたと滑るように動く。タクシーでも呼んでくれるのかな。それに乗って、私はどこに行けばいいんだろう。

「しょうこ、」
「ん?」
「五条、いつからあんな風に笑うようになったの……」

目を閉じて、柔らかな笑みを浮かべた唇を思い描く。
最後に会ったときはあんな風じゃなかった。誰かの言葉をなぞるように一人称を変えても、口調や表情の端々にはまだ私の知る『五条悟』がいた。
でも、いまの彼はまるで。

「……飲み過ぎだ。はい、水」

ことりと硬い音がして目を開けた。グラス越しの硝子の輪郭は歪んで揺れている。
ああ、やっぱりだめだよ、硝子。なにもかも放り出して逃げたくせに、いまさらどの口で五条のことが好きだなんて言えるだろう。あの頃の自分にすら、言い訳もできないのに。

 

 

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