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駅前のロータリーから再びタクシーに乗り、五条が運転手に告げた行き先は都心の一等地だった。久方ぶりに見る高層ビル群に目が眩みそうになりながら、五条の後をついて歩くこと三分。大通りの喧噪からひっそりと隠れた路地裏の店で、私たちは向かい合っている。
カウンターが五席とテーブルが二つの、小さな居酒屋だった。まさか私の要望を反故にして高級店に行くつもりかという心配は、またしても杞憂に終わったのだった。

「ここさ、居酒屋なんだけど夜も定食やってるの。いいでしょ」

五条は看板メニューだというアジフライ定食をつついている。私はふっくらと焼き上げられた鰆をほぐしながら、「そうだね」と短く答えた。五条のような下戸にとっては貴重な店なのだろう。向かい合わせに置かれた盆の上には、それぞれ主菜のほかに彩り豊かな小鉢が三つ、あとは香の物に果物までついている。艶やかな塗り椀に注がれたお味噌汁は、口に含むとほのかに柚子の香りがした。どれもこれも、ちょっとお高い小料理屋で出てくるような上品な味付けだ。

「ここ、よく来るの?」
「たまにね~。家から近いから」
「……へえ」

それはよかったですね。私はこの後また新幹線で二時間以上かけて自宅へ戻るんですけどね。恨み節のひとつでもぶつけてやろうかと顔を上げると、五条は箸を止めてこちらを見ていた。目元には相変わらず黒いアイマスクをつけたままだ。なのに、その向こうで柔らかく微笑む瞳が透けて見えたような気がして、たまらず目を背けた。

「美味しい?」
「……う、うん。美味しいよ」
「そう。よかった」

胸を刺し貫かれたかのように息が詰まる。この男はいつからこんな風に、優しく笑うようになったのだろう。学生時代の五条はどちらかといえば顰めっ面が多くて、そうでなければ大口を開けて笑い転げているか、誰かを挑発してにやけているか、そのどれかだった。大人びた笑い方は彼の片割れのものだ――もう、この世にいない。

「うっわお前、相変わらず魚ほぐすの下手くそだねー」
「う、うるさいなあ。見ないでよ」
「向かいにいるんだから嫌でも見えんじゃん」

大して面白くもないことでけらけら笑う五条には、私がなにを思ったのか、わかっていたのかもしれない。
それからしばらく、硝子の酒の量が年々増えているとか、七海の眉間の皺はいま何本だとか、上辺を撫でるような当たり障りのない会話が続いて、静かに食事は終わった。結局、私がここへ来た理由はわからないままだったけれど、どうせ五条の暇潰しかなにかだったのだろうと思えば納得できた。

店を出て大通りへと向かう道すがら、五条の歩みはひどくゆったりとしていた。倍ほども歩幅に差があるのに、私たちは不思議なくらいぴったりと寄り添って歩いた。
ここで別れたら、きっとまた何年も会うことはない。こんな仕事だし、ひょっとすればもう一生、二度と会わないまま終わるのかもしれない。私たちは、生きる場所も速度も違うのだ。

「じゃあ私、向こうでタクシー拾うから。今日はごちそうさま」

ちょうど信号待ちの横断歩道に行き当たったところで、私は切り出した。なにかきっかけがないと、このままどこまでも歩いて行ってしまいそうだった。
またねとか、体に気をつけてとか、気の利いたことを言えたらよかったのかもしれない。でも、いまは五条に背を向けるだけで精一杯だった。だって自分でもどうかと思うくらい、胸が痛くて仕方なかったのだ。

だから、後ろから強く手首を掴まれたときも、すぐには反応することができなかった。

「はーい、ストップ」

低い声が真上から落ちてくる。驚いて振り返れば、真っ黒な壁のような体躯がすぐ後ろにあった。

「は、え、なに、忘れ物?」
「まあ忘れ物っちゃ忘れ物かな。まさかと思うけど、せっかく来たのにもう京都に戻る気?」
「いや、だって、『さくっと飯食って帰ろ』って」
「どこに、とは言ってないでしょ」

言うが早いか、五条はくるりと踵を返した。体ごと引きずるように腕を引っ張られ、危うく転びそうになる。たたらを踏んだ足元でヒールが喧しく鳴った。

「えっ、ちょっと!?」

私の素っ頓狂な声など聞こえていないかのように、五条は今度こそ容赦なくずんずん歩いていく。せめて少しはスピードが緩まないかと掴まれたままの手を引いてみるけれど、もちろん大柄な体はびくともしなかった。

「まっ、五条、待って、どこ行くの!?」
「僕んち。すぐそこだから」

耳を疑った。僕んちって、つまり、五条の家ってことで合ってる?

「……いや、いやいやおかしいでしょ! だいたい私、明日も仕事だし、帰らないと、」
「お前は明日から三日間、東京出張だよ。楽巌寺学長にも話は通してある」
「はあ!? 聞いてない!」
「いま言った」

五条が屁理屈をこねる間にも、私の体はどんどん遠くへ連れ去られていく。ああそうだった、五条は人の話なんか聞き入れるようなやつじゃない。外側ばかり大人になったって、根本は一緒なのだ。

「わかった! 出張はわかったから、それならホテル取るから! とりあえず手は離して、落ち着こ、ね?」
「落ち着くのはお前。万が一ホテルで呪詛師に寝込み襲われて、勝てる自信あるの?」
「そ、れは」
「こっちにいる間は、僕が責任持って身元を預かるってことになってるから」

ボディガードとしては申し分ないでしょ? と勝ち誇ったように言われては、もうなにも言い返すことができない。自分にもっと身を守る術があったならと、こんなにも後悔したのは久しぶりだった。

「――決まりね」

手首を掴む力が緩んで、今度は手の甲を包み込むようにやわく握られる。けれども私にはもう、それを振り解く気力すらなかった。
三日間、床で寝よう。それしかない。

 

五条の言う通り、店からほんの目と鼻の先に、彼が住むというマンションはあった。
見るからに高所得者向けの外観ときらきらのエントランスに尻込みする私を引っ立て、五条はさっさとオートロックをくぐってエレベーターへと乗り込む。エナメル調の壁は仄暗い鏡のようで、並んで立つ私たちの姿をぼんやりと浮かび上がらせた。気恥ずかしさに思わず目を伏せる。私が知っているのは、高専の年季の入った寮の部屋に住んでいる五条だけだ。

高層階の一角が五条の部屋だった。招き入れられた玄関で、私はしばし呆けてしまった。あまりにも煌びやかだったから、ではない。一人暮らしには広すぎるその部屋には、生活感というものがまるでなかった。匂いすら真新しく、人の住んでいる気配がまったくと言っていいほど感じられないのだ。

「あー、近々引き払う予定だから、もうあんまり物置いてないんだよね」

私の考えを見透かしたかのように五条が言う。それにしたって、あまりにも殺風景だ。
上がって、と促され、長い廊下の先のリビングへと足を踏み入れた。センスよくモノトーンでまとめられたインテリアも、やはり必要最低限のものしか置かれていない。未完成のまま放り出されたモデルルームみたいだった。

「引き払うって、引っ越すの?」
「そ。高専の職員寮にね。いろいろと楽だし」
「そう、なんだ」
「いいマンション借りてたって、ろくに帰って来ないしさあ。今日だって一週間ぶりだよ。信じられる? 出張でもないのに一週間、自分ち帰れないの」

まったく人使いの荒い連中だようちの上層部は、などと五条は悪態をつく。
見渡す限り空白の目立つリビングルームには、大きなテレビと三人掛けのソファが一台。すぐ目につくものはそれくらいだ。白っぽいタイルの床に塵ひとつ落ちていないのは、ハウスキーパーでも雇っているからだろうか。

「五条、あの、クレンジングとかって……」
「はあ? あるわけないでしょそんなもん」
「そ、そうなんだ」
「僕をなんだと思ってんの?」

呆れ返った口調で否定されたことに、心のどこかでほっとしてしまったのが少し悔しい。さすがの五条も、恋人がいるのに他の女を泊めたりはしないようだ。あ、でも単に他人の物を家に置きたくないタイプなだけかもしれない。それに、仮に誰かの置き化粧品があったとして、それを積極的に使いたいかといえば微妙だ。あとで浮気とか疑われても嫌だし。……まあ現実は浮気どころか、十代の淡い片想いで終わっているが。
不毛な憶測を振り払うように、緩く頭を振る。とにかくコンビニに行ってこよう。替えの下着もほしいし。さっき通ってきた道にあったはずだ。

そう思って、後ろにいる五条に声をかけようとしたときだった。突然、両足が床から離れ、私の体は一瞬のうちに宙に浮いた。

「へ?」
「はー、疲れた。寝よ寝よ~」

五条の両手が私の腰を掴み、軽々と持ち上げていた。普段ならお目にかかれないような高さから見下ろす床はずいずん遠く、垂れ下がった爪先がぷらぷらと情けなく揺れる。

「は、え、なに!? なにしてるの!?」
「あれ。なんかお前、学生んときより軽くない? 縮んだ?」
「縮んでない!」

焦って振り解こうとすると、今度はお腹に腕を回され、片手で荷物よろしく抱えられる。私が縮んだんじゃない、五条が大きくなったのだ。私を持ったままリビングを出た五条は、空いた手ですぐ隣の寝室のドアを開けた。部屋の真ん中に鎮座するキングサイズと思しき巨大なベッドが目に飛び込んできて、私はひっくり返りそうになった。ちょっと、ちょっと待って!

「待って待って待って待って!」
「なあに?」
「なあにじゃない! わた、私ソファで寝る!」
「いまの時期まだ寒いよ」
「いい! 寒くていい!」
「お前、寒いの苦手だったじゃん」

どうしてそんなこと覚えてるの。じたばたしてみてもなんの効果もないのが本当に情けない。やっぱり無理やりにでも帰ればよかった、などと泣きそうになっているうちに、五条は器用にも私ごと布団の海に潜り込んだ。柔らかな羽毛の感触を楽しむ余裕もなく、長い腕に正面から抱きすくめられる。分厚い胸板に顔を押し付けられ、頭が爆発しそうだった。

「待っ……! ほんとに、あの、着替え、メイクも……!」
「そんなの明日起きてからでいーよ」
「むり、五条、おねがい、離して……」
「……、…………」
「……五条?」

恐る恐る顔を上げる。返事がない。

「……寝て、る……?」

薄く開いた唇からは、ん、と声にならない吐息のような音だけが返ってきた。
私を抱えて離さない腕も、見た目よりずっと広い胸も、一定のリズムでゆっくりと上下を繰り返している。なんとか身じろぎをしてみると、背中に回された五条の指先がぴくりと動いた。けれどまったく起きる気配はない。嘘でしょ?

「……びっくりさせんなよお……」

その寝息があんまり健やかなものだから、必死に逃げようとしていた私の気力もしゅるしゅると音を立ててしぼんでいった。私ひとりで慌てて、馬鹿みたいじゃないか。

(こんな風に、ぐっすり寝ることもあるんだな……)

わずかに身を捩って手を伸ばし、五条の目を覆ったままの黒い布をそっと引き下ろす。現れた白い睫毛は、大切な宝物を守るように柔らかく伏せられている。
大人になった、と思った。肉体的にも精神的にも、みんなあの頃のままではいられなかった。なのに、いま私の前で背中を丸めて眠る五条の顔は幼い子供のようにあどけなくて、それを見ていたらぎしぎしと壊れそうなほどに胸が軋んだ。

薄く開いたブラインドの隙間から月明かりが音もなく忍び寄り、眠る五条の髪をいっそう白く染める。私は大きな体を抱き締めるようにめいっぱい腕を回して、そして息を潜めて、少しだけ泣いた。

 

 

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