4

「こんなところにいたのか。病み上がりで無理はよくないよ」

はっと顔を上げると、目の前には大きな影が落ちていた。コンクリートの地面をしかと踏みしめて立つ同級生の男は、その柔らかな表情に反し、なかなかに尖ったカスタマイズの制服を身につけている。そのうえガタイもいいから、もしここが学校でなく、私と彼とが互いによく見知った仲でなかったら、目も合わせずに逃げ出していたところだ。恐くて。

「寒くないかい?」
「……さむくない」
「そう」

ずびずびと鼻を啜る私に夏油は小さく笑うと、なぜだか隣にやってきて同じように腰を下ろした。
右肩にじわりと温もりを感じる。いかつい見た目によらず、夏油の体温はおおらかで優しい。その大きな体いっぱいに湛えた生命を、少しずつ丁寧に燃やしているようだと思った。それに引き換え、呪力もなにもかも空っぽになってしまったいまの私は、ひどく薄っぺらくて透明な、吹けば飛ぶような心許ない存在に成り下がっている気がした。

校舎の裏手の、誰もいない寂しい中庭の隅っこで私たちは膝を抱えた。寒空の下、木造の壁にぴったりと寄り添うようにして座り込む男女二人。こんなところを見られたら、一週間は笑いものにされそうだな。もう一人の同級生男子の姿をぼんやり思い浮かべて、すぐに打ち消した。

「許してやってくれないか」

ちらりと視線をやると、夏油は体育座りのままで空を見上げていた。一拍置いて、それが私に向けられた台詞なのだとようやく理解する。
許すもなにも、私は別に怒ってなどいなかった。けれどそれを素直に口にするのも悔しくて、ぎゅうと唇を曲げる。

「……いやだ」
「悟は素直じゃないんだ。 ナマエのことが心配なだけなんだよ」
「心配なんて、」

そんなの。言いかけて口を噤む。そんなのされる時点でもう、お前は格下だと言われているようなものじゃないか。
高専に来て二回目の冬が、じきに終わろうとしている。あと一ヶ月もすれば私たちは三年生になる。三年生といったら、ここではもう立派な呪術師だ。だというのに私ときたら、いまだに準二級止まりのへっぽこなのだった。
呪術界一般で見たら、それも普通なのかもしれない。けれど揃いも揃って天才ばかりの同級生たちに囲まれたら、〝普通〟なんてなんの意味も持たない。

『雑魚のくせに出しゃばってんじゃねえよ』

今日、私は任務でやらかした、らしかった。正確にはよく覚えていない。呪いを受けた一般人の治療に当たっていたところまでは記憶があった。その次に思い出せるのは、高専の医務室のベッドから見た、五条の歪んだ顔だ。

『そんなショボい呪力でなにができんの』

きゅっと細められた青い瞳と目が合ったら、もうだめだった。
五条の言ったことはなにも間違っていない。ただ自分自身に腹が立って仕方なく、あのままあそこにいたら惨めさに押し潰されてしまいそうで、逃げ出したのだ。

「いくら一階だからって、裸足で窓から飛び出したら危ないよ」
「……うん、ごめん」
「それから、 ナマエが治療した人は助かったそうだ」
「そっか」
「よく頑張ったね」

ふわりと肌を撫でるような声音に、泣きそうになる。私が頑張ったところで、できることは高が知れている。現に一般人ひとりを治療したくらいで呪力切れになって、任務中にも関わらず意識を失った。最悪だ。それを一番知られたくなかった相手に、真っ先に見つかってしまったことも含めて。

「……五条はひどいよ」
「うん」
「口が悪い」
「そうだね」
「態度もでかいし、偉そうだし、いつも私のおやつ横取りする」
「授業はサボるし、真夜中に平気で人を叩き起こすし、自分勝手で性格も悪いな」
「う、うん」
「そういえば、この前は買ったばかりの牛乳を無断で一気飲みされた」
「……そうなの?」
「うん、悟は最低なやつだね。やっぱり許すのはやめておこうか」

夏油はいつになく強い物言いをする。そんなに牛乳大好きだったっけと訝しく思って顔を上げれば、彼は至って真面目な顔で「とりあえず、一発殴りに行く?」と物騒なことを口にした。

「……当たらないよ」
「奇襲をかけるんだ」

固く結ばれた大きな拳が、ひゅっと音を立てて空を切る。ゴツゴツと骨張って、岩のようだった。これに殴られたら痛そうだ。
二人が喧嘩をするところはよく見るけれど、最終的な殴り合いにまで発展すると、たいてい勝つのは夏油のほうだった。そういうとき、ぼろぼろになって血を滲ませて帰ってくる五条を見るのは、あまり好きではなかった。

「……いや、あの、でも。よく考えたら、五条もたまに、優しいところ、あるから」

ほら、任務のとき、庇ってもらったことあるし。いつも出張のお土産くれるし。たまに宿題教えてくれるし。今日だって、助けてくれたし。だから、そこまでしなくても。わずかばかりの反論をもごもごと口にしながら、私の視線は再びコンクリートの地面へと落ちていく。ひび割れた灰色の隙間から、名前も知らない小さな花が顔を覗かせていた。もうすぐ、三度目の春が来るのだ。

「なんだ、ちゃんとわかってるじゃないか」

ぱっと隣を見上げれば、にんまり唇を持ち上げて夏油が笑っていた。しまった、と慌てて口を覆ってももう遅い。

「じゃあ、もう大丈夫だね」

涙の跡にひっついた私の横髪を、夏油の柔らかな指先が掬った。くすぐったくて、少し恥ずかしくて、むずむずする頬を無理やりに不機嫌の形に変える。

「……夏油って、中身お母さんかなにか?」
「気味の悪いこと言わないでくれ」
「わっ」

呆れた声で答えたかと思うと、立ち上がった夏油は私の腕を取って思い切り引っ張り上げた。軽い眩暈に襲われ、思わず手を伸ばす。掴んだのは冷たい壁だけだった。

「夏油?」
「私は先に行くよ」

いつの間にか、夏油はもうずいぶん向こうを歩いていた。言いようのない焦燥感が胸の内にせり上がってきて、心臓が早鐘を打ち始める。引き止めなくては。そう思うのに、泥の中を歩くように足がもつれて、一歩も進むことができない。

「君は君にできることを精一杯にやればいい。それがきっと、誰かを救うから」
「夏油、待って、どこに行くの」

振り返った彼の顔は、逆光に埋もれてよく見えない。

 

「―― ナマエ、起きて。着いたよ」

軽く頬をつねられて目を開けた。真っ先に視界に飛び込んできたのは、さっき夢の中で垣間見たのと同じ、けれどそれよりも幾分か大人びた五条の顔だった。苛立ちを滲ませて窄められていたはずの青い瞳は、いまは分厚い黒い布に覆い隠されている。ぱちりぱちりと緩慢に瞬きをする私を見て、五条は訝しげに唇を曲げた。

「おーい。 ナマエちゃーん? 寝ぼけてんの?」
「……ごじょ、う」
「ハイハイ、みんな大好きGLG・五条悟くんですよ。起きてくださーい」

私の鼻先でひらひらと手を振る五条の肩越し、『東京』と書かれた看板が緩やかに通り過ぎて、車窓から見切れたところで停止する。そうだ私、五条に連れられて新幹線に乗って……え、待って。東京?

「……え!? 私、ほんとに寝て、」
「もーぐっすり。揺すっても蹴っても起きないし、イビキやばかった」
「うそ!?」
「イビキは嘘だけど」

嘘かよ。思わず舌打ちが出そうになるのを、すんでのところで飲み込む。
京都から二時間と少し、一度も目が覚めなかったようだ。風を切るごうごうという音が止んで、車内はすっかり静かだった。まだ頭の芯がぼやけている。こんなに深く眠ったのは久しぶりだった。けれどもちっとも気分がすっきりしないのは、あんな夢を見たせいだろう。

「さて、じゃあさくっと飯食って帰ろっかー」

上半身だけで大きく伸びをして、同じく間延びした声で五条が言った。座席の合間から突然にょきりとはみ出した長い腕を、通路を歩いてきた人たちが物珍しそうに眺めては通り過ぎていく。いたたまれない気持ちになり、私は膝の上に乗せていたバッグを掴み直して、通路側に座る五条を急かした。

「さっさと済ませて帰りたいんだけど」
「つれないなあ。まあいーよ、タクシー乗ろ。なに食べたい?」
「……ドレスコードあるようなとこ以外ならなんでも」
「了解」

東京まで連れてきておいて、店が決まっているというわけでもないらしい。ますます不可解だが、五条の思考回路など常人の私には推し量りようもないので、あとはもう黙ってついていくだけだった。

 

>> 05