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「なにこれ」
「えっ。お前、新幹線知らないの?」
「そういう意味じゃない」

隣に立つ背の高い男は、じゃあどういう意味? と言ってぶうぶうと口を尖らせた。本当に話の通じないやつだ。

「だから、なんで私はこんなところに連れてこられてるの」
「なんでって、飯食いに行くんだけど」
「どこに」
「東京」
「は……?」

事もなげに言ってのける五条を見上げれば、「切符。渡したでしょ」と呆れたように返された。ついさっき歩きながらいきなり手渡され、訳もわからず改札機に突っ込んだ紙片の存在を思い出す。信じられない気持ちで右の拳を開いてみると、くしゃりと歪んだ長方形には、まさにいま五条が口に出した通りの目的地が印字されていた。日付は今日、出発時刻は三分後。ご丁寧にも、グリーン車の座席指定付きだった。

勤務先の呪術高専京都校からタクシーに押し込まれ、降り立った先はここ、京都駅だった。いきなり祇園の高級料亭にでも乗りつけやしないかとヒヤヒヤしていた私は、見慣れた駅舎を前にして内心ほっと胸を撫で下ろした。夜勤続きのくたびれた格好でそんなところに連れ出されようものなら目も当てられない。だからタクシーを降りた五条の足が駅構内へとまっすぐ向かったときも、このまま「やっぱりもう帰るわ」などと言ってさっさと改札に吸い込まれてくれるのではないかと、淡い期待すら抱いていた。

考えが甘かった。「どこ行くの」「いいからいいから」なんてやり取りを何度か繰り返したのち、いま私たちの目の前には、美しい流線形をした車体がしずしずと扉を開いて待ち構えている。

「さ、行くよ」

背中をぽんと押され、我に返る。訳がわからない。わからないけれど。

「い、行かない」

やんわりと力を加えてくる手のひらに抵抗するべく、足を踏ん張った。五条は「なんで」と疑問符を口にして、その言葉通り至極不思議そうに私を見下ろしてくる。なんでもなにも、これでついていくほうがどうかしている。

「だっ、て。いきなり東京とか、意味わかんないし……仕事もあるし」
「仕事なんか戻ってからやればいいでしょ。別に海外行くってんじゃないんだからさ」

戻ってからって、本気で食事のためだけに私を東京まで連れ出すつもりなんだろうか。「でも」と言いかけた私の手を、おもむろに五条の大きな手のひらが包んだ。続く言葉が見つからない。〝明日早いから〟、〝実はこの後、約束が〟。なんだって適当に理由をつければいいのに、すべて喉につかえて消えていった。

沈黙を是ととったのか、それとも私の返答など最初から聞くつもりがないのか、五条はそのまま一歩踏み出した。五条の一歩というのは、すなわち私の二歩である。大して強い力でもなかったのに、私はよろけるように車内へと足を踏み入れていた。

「……っ五条、待って私、」

――行きたくない、という言葉はもはや手遅れだ。発車を告げるベルの音がやけに遠くに聞こえた。用は済んだとばかりに口を閉じた扉の向こう、すっかり見慣れた京都の街並みを置き去りにして、新幹線は緩やかに加速していく。途端に後悔と心細さとに襲われ、私はぎゅっと拳を握った。

「なにしてんの。席、こっち」

いつまでも乗降口で突っ立っている私に、五条は首から上だけを振り向かせて言った。その気になれば次の駅で降りることだってできるのだけど、私がそんなことをするとは露ほども疑っていないような顔だった。『なにしてんの』はこっちの台詞だ。訊いたところで、教えてはくれないのだろうけれど。
ざわざわと波立つ胸でひとつ大きく息を吐いて、私は真っ黒な背中を追った。

 

平日の午後という時間帯のせいか、車内に乗客は少なかった。窓の外を流れる風音の他には、客同士の密やかな話し声がかさこそと聞こえてくるだけだ。
当たり前のように五条と隣同士に指定された座席に着き、私は所在なく車窓を眺めた。

鏡のようになった窓ガラスには、五条が車内販売を呼び止めてコーヒーを買う姿が映り込んでいる。安っぽい小さな紙コップにスティックシュガーが五本、あっという間に溶けていった。度が過ぎた甘党は、治るどころか悪化しているみたいだ。
それってもうコーヒーじゃなくて砂糖水じゃん、という言葉は口には出さなかった。久しぶりに会ったというのに――いや、だからこそなのか、そんなくだらないことしか考えられない。それくらい、私たちは遠く離れていたのだ。

「……東京のみんな、元気にしてる?」
「まーね。過労と寝不足は標準装備だけど」
「五条も、相変わらず忙しそうだね。ちゃんと寝てるの?」
「はは、それお前が言う?」

さもおかしそうに笑うと、五条はアイマスク越しに私の顔を覗き込んだ。その奥にある青い瞳を想像してしまって、ごくりと唾を呑む。

「聞いたよ、年末からろくに休んでないんだって? もう二月も終わるってのに」
「……どこからそんな情報」
「僕はなーんでも知ってるんだよ」

だって最強だから、なんて絵空事みたいな言葉も、五条が言うとただの事実に変わってしまうから恐ろしい。何年も疎遠だった元同級生の近況すら、この男にとっては『なんでも』のうちに入るのだろうか。そのまま見つめ合っていたら余計なことまで見透かされそうで、私はすぐに視線を窓の外へ戻した。

「忙しいのはみんな一緒でしょ」
「そーやって身も蓋もないこと言わないの」

なにもせずただ座っているというのは、想像以上に手持ち無沙汰だ。意味もなくスマホを取り出してみたけれど、こんなときに限って電話もメッセージも来ていない。せめてノートPCくらい持ってくればよかった。

そのうち考えるのも億劫になり、私はシートの背もたれにぼすんと頭を預けた。こんな風に過ごす時間なんて、いつぶりだろう。
窓辺の空気は冷たく湿っている。まだ遠い春を思った。もう少し暖かくなったら髪を切りに行って、ネイルも綺麗にして、あとエステも行きたいな。取り留めもないことがぽつりぽつりと浮かんでは消える。刷毛ではだいた絵の具みたいに掠れていく景色をぼうっと眺めていると、頭の中までぼんやり溶け出していくようだった。

「寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」

左側から降ってくる静かな声はひどく耳触りがいい。知らぬ間に私は目を閉じていた。暗闇の中で、低く唸るような風の音だけが続いている。頬に垂れかかった髪を掬ってくれたのが隣にいる五条だったのか、それとも夢の中で見た誰かだったのか、それすらももうわからなかった。

 

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