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好きな人がいた。
学生の頃の話だ。白銀の髪と青い瞳を持った、夢のように美しい男だった。
思い返してみても、到底望みのない恋だったと思う。天賦の才と、それに相応しい家柄、恵まれた体格、容姿。なにもかもが私とは違っていた。身分差の恋、なんて言えばさもロマンティックなおとぎ話の始まりのように聞こえるけれど、四年の歳月を捧げたところで結局、それが実を結ぶことはなかった。
現実とはそんなものである。

「――うん、順調に治ってますね。傷はもう塞がったので大丈夫だと思いますけど、念のため来週、もう一度いらしてくださいね」

捲り上げていた白いシャツを戻して告げると、男はほっと安堵した様子で表情を緩めた。先日、腹部に傷を負ってここへ運び込まれてきた二級術師だ。応急処置も含めれば、私が診察するのは今回で三回目。傷口はすでに真新しい皮膚に覆われ、ほぼ完治と言っても差し支えないくらいまで回復している。

ちゃちな丸椅子をきこきこと鳴らしながらシャツのボタンを留め直す彼を横目に、私はデスク上のノートPCへと手を伸ばした。ネイルの剥がれた指先が目に入るが、見ないふりをする。もう三ヶ月近く、ろくに休みを取れていない。来週末は久しぶりのオフだが、きっとそれも急患で潰れるか、もしくは泥のように眠りこけて終わるのだろう。

慣れに任せて電子カルテのファイルを開き、簡単に診察結果を書き込む。放っておいたらカビの生えそうな古臭い価値観が蔓延る呪術界といえど、現場ではもっぱらデジタル化が進んでいるのだ。経過良好。日常動作に支障なし。はい終わり。
もういいですよ。そう声をかけようとして顔を上げれば、患者の男はいまだ椅子に腰を据えたまま、こちらをじっと見つめていた。……ああ、またこれか。察するのと同時に、思った通りの台詞が飛んでくる。〝お礼に今度、お食事でも〟。

「……これが仕事ですから、お気遣いなく。お大事にどうぞ」

面倒くさいと思う内心などおくびにも出さず、にこやかに、かつ端的に答える。これくらいのトーンが遺恨を残さなくてちょうど良いのだ。この場所で働き始めて、もう何年になるだろう。月日を重ねるごとにそんな打算ばかりがうまくなっていくことには、一抹の虚しさを禁じ得ない。
仕方のないことなのかもしれない、とは思う。いつ訪ねようが当たり前のように医務室に詰めていて、恋人の影すら見えない女。家入硝子みたいに高嶺の花という柄でもなく、かといってゴリゴリに前線を張る女性術師ほど腕っぷしも気も強くない。つまりは〝ちょうどいい〟ということなのだろう。

男が出て行くのを見計らい、大きく息をついた。窓の外を仰ぎ見れば、よく晴れた空には雲ひとつなく、冬と春の狭間の色をした光がきらきらと降り注いでいる。それがあんまり眩しくて、まだ昼日中だというのに私は薄いクリーム色のカーテンを思い切り引っ張った。
疲れている。頭に靄がかかったみたいにぼうっとする。こうしたとき、ふと脳裏をよぎるのは、決まって同じ記憶だった。
馬鹿みたいな話だ。私だって人並みに恋人を作ってみたこともあるし、さっきのような軽い誘いに乗ってみたこともある。でも、いつもうまくいかなかった。というより、まったく気持ちが入らないのだった。心の真ん中をどこかに置き忘れてきたみたいに。どこに、だなんて考えたくもない。

錆びた自転車に乗ってこちらを振り返る、青い瞳。あれよりも美しい青を、私はいまだに見つけられずにいる。

「……はー、仕事しよ」

束の間、座ったままで目を閉じて、それから深く息を吸って、吐いた。ずっと後回しにしていた経費処理、そろそろやらないと経理担当に叱られる。無理やりに思考を引き剥がし、デスクの端から一際分厚いファイルを手に取った。年末から続いていた忙しさにかまけて、溜めに溜め込んだレシートや領収書の束だ。一番上に見える日付は十二月二十五日、早朝。コンビニで買った栄養ドリンクとプリン。
まったく、どこかの馬鹿のせいで散々なクリスマスだった――そんな文句を一瞬だけ頭に浮かべたが、口に出す前にすぐさま消し去る。またあらぬ方向へ思考が転がっていきそうだ。コンビニのレシートを束の一番後ろに回して、私はつとめて事務的にノートPCへと向き直った。よしやるぞ、やってやるぞ。

――招かれざる客というのは、そうして気合を入れたときに限ってやってくるものである。

「すいませぇ〜ん、怪我しちゃったんですけどぉ〜」

あまりにもふざけた、調子外れの裏声だった。にも関わらず、私の体は一瞬にしてすべての動きを止めた。指一本動かすどころか、呼吸すら忘れてしまう。
だってこれは、この声は、ここでは決して聞くことのないはずの。

「あれ、ここって医務室で合ってます〜?」

引戸をくぐってやってきたのは、見上げるほど背の高い男だった。全身黒尽くめ、おまけに怪しいアイマスク。どこからどう見ても不審者の出で立ちだ。けれど私はこの男をよく知っている。
立襟の上にちょこんと乗っかった小ぶりな頭を傾げて、彼――五条悟は「あ、お医者さん発見」と笑った。

「ご、な、え、なにして……」
「だから、怪我しちゃったんだってば。ほら」

うろたえる私に向かって、五条は節くれだった右手をすっと差し出した。天井に向いた手のひらの先、人差し指の第一関節より少し上あたりに、小さな血の玉がぷくりと盛り上がっている。針で突いた程度の、ほんのわずかな傷だった。
私はぎゅっと眉を顰めて五条を見上げた。腰を屈めてこちらを覗き込む顔は、記憶の中よりもまた少し大人になっている。

「――治してくれる?  ミョウジセンセ」

 

「……はい、できたよ」

指先に注いでいた呪力を収め、私は唸るように呟いた。白い大きな手にできた虫食い穴のような傷は、ものの一分足らずですっかり塞がってしまった。って、いうか。

「五条、自分で反転術式使えるでしょ。それ以前に無下限あるでしょ」
「いやあ、僕としたことがうっかりうっかり。弘法も筆の誤りってやつだよね。智者の一失、河童の川流れってね〜」
「…………」

まあよく回る口である。だいたいが絆創膏すら必要ない、怪我と呼ぶのもおこがましいくらいの傷だ。そんなもののために駄々をこねくり回して治療をねだってきた男は、私のじっとりとした視線にももちろんお構いなしで、おどけた仕草で自らの額をぺちりと叩いた。その拍子に、彼の尻の下で古びた丸椅子が悲痛な声を上げる。五条が腰掛けると、まるでおままごと用の家具みたいに小さく見えた。

「……なんの用でこっちに来てるんだか知らないけど、こんなところで遊んでていい身分じゃないでしょう。早く仕事戻れば」
「ちょっとちょっと、久しぶりに会ったってのにえらく冷たくない? いつぶり? 四年生の終わりくらい?」
「どうだったかな」
「お前は変わんないねー」

笑みを含んだ声に、思わず口角が下がる。それってどういう意味。

「……他になにかご用ですか、五条先生」

五条と向かい合っていた体を椅子ごと回転させ、PCに意識を集中しようと努力する。そうしていないと平静を保てそうになかった。白昼夢かなにかだと言われたほうがまだいくらかマシだ。ついさっきまで思い描いていた相手が、いきなり目の前に現れるなんて。

「んーん、用はもう済んだかな」
「あっそ」
「お前に会いに来た、って言ったら驚く?」

キーボードに置いた指がぴくりと跳ねた。気づかれただろうか。

「……まさか。冗談でしょ」

口先だけでどうにか答える。やたら素早くキーを叩いたせいで、画面にはデタラメな文字列ができあがっていた。『夜勤 ひょくじ代 一五〇〇〇〇円』……ミスタッチ。ゼロ多すぎ。
苛つく指先でバックスペースを連打していると、五条からは「あ、バレた?」と特段残念でもなさそうな声が返ってくる。ほらね、やっぱり。

「出張のついでにさ、お爺ちゃん学長にアイサツに来てあげたの。僕ってば律儀な男だと思わない?」

軽薄な笑みを浮かべる五条に、私はようやっとひとつ息を吐いた。殊勝なことだ。どうせ本当の目的は別にあるのだろうけど。
ちらりと窺った五条の表情は、無機質なアイマスクに隠されてよく見えない。緩やかに弧を描く唇も、形を変えることはない。そのことにほっとしながら、胸の奥底のほうでひりひりと痛むなにかには知らんぷりを決め込んだ。

「……変わんないね、五条も」

マイペースで、横暴で、他人の領域にも泥まみれの土足のままずかずかと踏み込んでくる。そのくせ自分の胸の内には決して触れさせない。そういうやつだった。その心の中を覗き見たいと焦がれていた頃が、私にはあったのだ。

「そうだ。 ミョウジ先生」

PCの画面をぼんやり眺めていた私の手元に、ふっと影が落ちた。見れば、いつの間にか椅子から立ち上がった五条がこちらに手を伸ばしていた。あ、と思った直後、ぱたんと軽い音を立ててノートPCが閉じられる。

「治療のお礼に、お食事でも?」

歌うように五条が言った。艶めいた唇から目を逸らせない。
……あーあ。経費精算、今日もできそうにないな。

 

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