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神様かと思ったのだ。
真っ暗な森の中で出会ったその男の子は、夜闇に閃く青い瞳と、雪の結晶のような白い髪を持っていた。
美しい人だった。これまでこの目に映したどんなものよりも綺麗だった。燐火にも似た呪力の残滓を纏ったその姿に、神様がいるならきっとこんな風だろうなとぼんやり考えたことを覚えている。偶然と呼ぶには鮮烈で、けれど運命と呼ぶにはあまりにささやかな、それが私と五条先輩との始まりだった。

希望、だなんて言ったら大袈裟に聞こえるかもしれない。そんなものを背負ったつもりはないと彼は笑い飛ばすかもしれない。それでもあの日、私の目の前に現れたたったひとりの男の子の存在が、間違いなく私を今日まで生かしてくれた。
何の取り柄もなく、ただ蹲って泣いているばかりだった弱い私を照らした光のような人。いつだって強気で、ひたすらにまっすぐで――だけど本当は寂しくて、傷つきやすくて、とてもとても不器用な人。
そんな人のために、私は何ができるだろう。

 

「五条先輩。お話が、あります」

向かい合ってそう告げると、先輩は微かに身じろぎをした。大きな手に握られたペットボトルが柔らく歪む音がする。私はまっすぐに彼の瞳を見上げ、きゅっと口を結んだ。長い睫毛に縁取られた青が、瞬きもせず私の言葉を待っていた。

「――私、来年の春から京都校へ編入します」

深く息を吸い、一呼吸のうちに言いきった。
先輩の目が大きく見開かれる。思わず、スカートを握る手にぎゅっと力がこもった。

「……は?」
「さっき先生に話してきました。今年中に編入試験を受けて、合格すれば認めてもらえるそうです」
「ちょっと待てよ、なんで急に」
「急じゃないんです。ずっと考えてたことで」

少しずつ、言葉を選んで口にする。お腹に力を込めていないと声が震えてしまいそうだった。

京都で勉強してみたいという思いは、去年の夏以降からおぼろげに抱き始めていた。呪術発祥の地でもある京都には特に結界術に秀でた術師が多い。無数に点在する寺社仏閣もまた結界とは切っても切れぬ関係にある。将来を見据えた勉強をするにはこれ以上ない環境だと思った。当初は五年生の一年間を京都での修行に充てるつもりで、まだまだ先の話だと悠長に構えていたのだけれど。

「……私に危険な任務を回さないよう先生方に進言してくれたの、五条先輩ですよね」

私が言うと、五条先輩は今度こそ言葉を失った。形のいい唇が僅かに震えて開き、けれど何か声にする前に閉じてしまう。それで、本当にそうだったのだとわかった。
確信があったわけではなかった。元々、私の術式は戦闘向きではないし、腕っぷしだってそう強くない。それでもこの緊急事態の中、硝子さんほど貴重な人材でもない私に回ってくる祓除任務の数が極端に少ないままなのは明らかに不自然だった。

揺らめく青い瞳をじっと見つめる。やがて五条先輩は諦めたようにふうっと細く息を吐いた。

「……適材適所って言葉があんだろ」
「はい。わかってます」
「言っとくけど、祓除より結界術に特化させたほうがまだ将来性があるって言っただけ。別にお前のこと干そうとか考えたわけじゃ」
「それも、わかってます」

五条先輩はいつだって冷静で、正しい。恋人同士だからとかそんなのは関係なく、この人はそういう人なのだ。そういう、わかりにくい優しさを持った人だった。

「……わかってるんです。呪術師になんか向いてないことも、いまの私じゃ全然、役に立たないってことも」
「ナマエ」
「でも私、辞めません」

きっぱりと言いきった私に、五条先輩は何か言いたげな顔できゅっと眉を顰めた。それでも私の言葉を遮ることはしなかった。
手のひらにじわりと汗が滲む。自分の覚悟を口にすることは、こんなにも恐ろしいものなのだ。相手が大切な人であればあるほど。それが自分にとって譲れない想いであればあるほど。

「わたし、」と言いかけた声が掠れる。からからに渇いた喉にぐっと力を込め、自分に言い聞かせた。勇気を出せ。全部伝えろ。馬鹿だと叱られるかもしれない。身の程知らずだと呆れられるかもしれない。それでも私は。

「ここを離れるのは寂しいし、ちょっと怖いです。……だけど何も知らないまま、何もできないままの自分でいることは、もっと怖いです」

このままここで、五条先輩に守られていれば私は安全なのかもしれない。痛みも後悔も苦しみも、何も知らずにいることは甘いお菓子みたいに優しくて幸福だ。だけど私はもう知ってしまった。知る前の自分にはどうしたって戻れない。
私は何のためにここにいるんだろうと、夏油先輩が去ったあの日からずっと考えていた。たくさんたくさん考えて、頭が痛くなるほど考えて、そうしてやっとわかったことといえば、笑ってしまうくらいに単純な答えひとつだけだった。

「五条先輩」

そっと、大きな手を取る。

やっぱり私は、非術師を守るとかそんな大それた理由のために戦うことはできない。

帰る家も守るべき家族も失くした私がそれでもここにいるのは、呪術師であり続けたいと思うのは、〝五条悟〟がここにいるからだ。どんな悲しみや寂しさの中にあってもまっすぐに立ち続けるこの人がいるからだ。
今日も、明日も、来年も再来年も十年後も、私はこの人のそばにいたい。私にとっての理由なんて、ただそれだけで充分だった。支えになんて到底なれやしないかもしれない。それでもいいから、大切な人に何かを背負わせて何も知らずにいるなんてことだけは、もう絶対に嫌だった。

「先輩、あのとき、『ひとりで頑張らなくていい』って私に言ってくれましたよね。すごく嬉しかった」

ずっと、自分には価値がないと思っていた。両親を守れなかったことも、叔父や叔母に愛されないことも、この世のどこにも居場所がないように感じることも、私が駄目なせいなんだと思っていた。だからつらいのもひとりぼっちも仕方がないのだと。未来は真っ暗で孤独で出口のない迷路だった。それをこの人が全部全部、塗り替えてくれたのだ。まるで魔法みたいに軽やかに、鮮やかに。

「生意気だって先輩は笑うかもしれないけど。でも、今度は私がそんな風に言えるようになりたいんです。憧れるだけじゃなくて、守られるだけでもなくて、あなたの隣に並んで歩けるようになりたい。だから……そのために自分にできることを、探しに行きます」

これは、私の誓いだ。
五条先輩みたいな強さがなくても、夏油先輩みたいな正義がなくても、それでも私は私に持てるだけの力すべてで、この人の隣に立っていたい。そうしてもいいと自分に言ってあげられるだけの自信がほしい。そのために、何かひとつだっていいから、誇れるものを手に入れたいのだ。

「……あー、くそ」

ごとり、重たい音がしてペットボトルが床に転がる。それに目を奪われた一瞬のうちに私は五条先輩に抱き竦められていた。きつくきつく、息ができなくなるほどの強い力だった。

「ふざけんなよ、どいつもこいつもゴチャゴチャ考えて勝手に決めやがって……」
「先輩、」
「意味だの理由だの、そんなのどうだっていいだろうが」
「……」
「ただ一緒に、」

胸の奥から絞り出されたような声は、微かに震えていた。

「……生きて一緒にいれば、それでいいだろ……」

ぎゅっと一際きつく抱きしめられて、それから少しずつ先輩の腕の力は緩んでいく。潰れた肺が形を取り戻し、私は大きく息を吸った。
生きていくって、大変なことばかりだ。どうしたって私たちは欲深い生き物で、失ったものを惜しんでしまうし、ないものばかりをねだってしまうし、どんなに傷ついても前に進まずにはいられない。この人もまたそうであるように。

「五条先輩」
「……」
「……悟、先輩」
「……んだよ」
「大好きです」

悲しくて、寂しくて、愛しくて、胸が軋むようだった。丸まった背中をめいっぱいの力で抱きしめ返す。うまく言葉にできない分まで全部全部、伝わってほしかった。

「大好きです。どこにいても何していても、ずっとずっと大好きです。――だから今度こそ、自分の居場所は自分で作ります」

抱き合ったまま、五条先輩は細く長く息を吸って吐いた。広い胸がゆっくりと起伏する。その奥にある心臓が一定のリズムを刻むのを、私は黙って聞いていた。

「……それって、東京にいちゃできねーことなの」
「先輩が言ってくれたんじゃないですか、私には結界術のほうが向いてるって」
「だからってわざわざ」
「大丈夫ですよ」

顔を上げて、まっすぐに目を合わせた。窓から差し込む朝日が五条先輩の髪をプラチナみたいに輝かせて、息を呑むほど美しかった。

「大丈夫です。もう二度と、傷つきませんから」

未来のことなんてわからないから、私たちには願うことや祈ることはできても、約束を交わすのは難しい。たったひとつ渡せるものは私のこの心だけだ。この人ならきっと受け取ってくれるだろうと思った。受け取って、少し笑って頭を撫でてくれたなら、それだけでよかった。

「……戻って来なかったらこっちから迎えに行くから」
「はい」
「泣いて嫌がっても連れ戻すから覚悟しとけよ」
「……ふふっ」
「なに笑ってんの」
「だって先輩、忘れちゃいましたか? 私、ものすごく諦めが悪いんですよ」
「……だから?」
「だから、先輩の隣は絶対に譲りません」

これ以上ないくらいにはっきりと言ってやる。青い瞳がビー玉みたいに丸くなって、それから溶けるようにやわくほどけた。

「……それもそうだな」

乾いた指先で私の眦を拭い、五条先輩はぐしゃぐしゃといっぱいに私の頭を撫でた。ぼやける視界の中で見上げたその人はいつも通りに綺麗で、泣きたくなるほど優しい顔で笑っていた。

 

* * *

 

出発の日はよく晴れていた。
そういえば高専を一度退学したのもこんな風に晴れた朝だったと思い出し、ほろ苦いような懐かしいような気持ちになる。私は意外にも晴れ女なのかもしれない。

「荷物こんだけ? 車に置き忘れてない?」
「大丈夫です。荷物の少なさには定評があります」
「誇れるかどうかビミョーな定評だな」

私の小さなスーツケースを引き、駅構内を歩きながら五条先輩が言った。パールピンクのスーツケースと白髪長身男性の組み合わせはなかなかに目立つ。自分で持つからと手を伸ばせば、「お前は人混み歩くのヘタクソだからダメ」とにべもなく断られた。
三月の末、東京駅はたくさんの人でごった返している。すれ違う誰も彼もが期待と不安をないまぜにした表情を浮かべていて、きっと私も同じように見えるんだろうなと思いながら新幹線の改札へ向かった。

来週、私は正式に京都校の三年生へ編入する。そこで二年間を過ごした後、五年目は東京へ戻ってくるつもりだ。せっかくのモラトリアム期だし海外留学なんかも考えたけれど、卒業後のことを考えればやっぱり国内で過ごしたほうがいい。古い慣習を残す呪術界では人と人とのコネクションが意外に大事で、特に寺社仏閣などとは時間をかけて信頼関係を築いていく必要がある。さらに結界術の研究にも時間を割きたいが、学生の身分でなくなれば任務もそこそこ回ってくるだろうから、それだけにかまけているわけにもいかない。そういえば結界術だけで昇級ってできるんだろうか。とにかく来週からは死に物狂いで勉強しないと――

「ははっ」
「え?」
「ココめっちゃシワ寄ってる」

考え込んでいたら、眉間をぐりぐりと親指で押された。反動でよろけた私を見て五条先輩はさらに笑う。

「ほら」
「え、うわ、なんですかこの荷物?」

スーツケースの代わりに、ビニール袋に入った大量の何かを手渡された。両手に一抱えもあるそれらはずっしりと重くて、ちょっといい匂いがしている。

「弁当。お前が便所並んでる間に買っといた」
「こ、こんなに食べられませんよ……」
「じゃあ好きなの選んで」

これはすき焼き弁当、こっちはちらし寿司、鶏五目、彩り御膳……と次から次に説明される。まさか駅弁屋さんで端から端まで買ったんじゃないだろうな。いやこの人ならやりかねない。戸惑いつつ、その中からひとつだけを選んで残りは先輩に返した。「そんだけ?」「一個で充分です」「だって京都って遠いじゃん、腹減るだろ」ともうひとつヒレカツ弁当を追加される。この人、私のことをどれだけ食いしんぼうだと思ってるんだろう。

新幹線の改札を抜けると、行き先がばらけるせいか、いくらか人混みが緩和された。関西方面へ向かう新幹線ホームへのエスカレーターに乗る。一段分上にいる私と、下にいる五条先輩の顔はいつもより少しだけ近い。周りをちらっと窺ってから、隙を見て私からキスをした。唇をほんの僅かに掠めただけの短いキス。

「……ちょっとは上手になりましたかね」
「……ちょっとだけな」

そう言って先輩は空いた手で私の手を強く握った。
ホームにはすでに私の乗る新幹線が到着していた。指定した座席のある車両の前まで五条先輩は律儀に送ってくれた。左手にスーツケースとお弁当二個、右手は五条先輩の左手と繋がったままの自分の姿がぴかぴかの車体に映っている。あと数分のうちに私をここから連れ去ってしまう流線形を頼もしくも恨めしくも思った。

「気をつけて行けよ」
「はい」
「必要なものあったら、言えば送ってやるし」
「ありがとうございます」
「向こうで怪我しても硝子いないんだから、無茶しないように」
「わかりました」
「……あー、あとは」

先輩の言葉を遮るように、ホームにアナウンスが響き渡る。だけどまだ繋がった手は離れない。
この二年間のことが次々に頭の中を駆け抜けて行った。春の日差し、夏の青葉の匂い、秋の静けさ、冬の吐息の色。季節が二回巡る時間はとても短く、そして得たものと同じくらいにたくさんのものを失った。それでも私たちはこうして手を繋いで立っている。まだ未来に夢を見ている。

そっと、隣に立つその人を見上げる。まっすぐな眼差しをした青い瞳は、今日の空と同じくらいによく澄んでいた。

「僕も、やるべきことをやるよ」

先輩の手が離れる。不思議と少しも怖くはなかった。
この半年で、五条先輩は彼の中で何かを決めたみたいだった。それが何なのかはまだ教えてくれない。けれど目に見える形や見えない形で少しずつ少しずつ、変えようとしているのがわかる。私はそれにひとつ気がつく度に、切ないような嬉しいようなくすぐったいような気持ちになって、そうしていまは、彼の見据える未来が叶う瞬間を一緒に見ていたいと思うようになった。できればそのときは、すぐ隣で。

「ナマエ」

新幹線へ乗り込もうとしたとき、腕を引っ張られて後ろから強く抱きしめられた。

「――待ってる」

耳元に寄せた唇で囁いて、五条先輩はすぐに離れた。
発車のベルが鳴る。私はホームと車両の隙間をひょいと飛び越えて振り返った。そこには思い描いていた通りの綺麗な笑顔があって、つられて私も笑ってしまった。

私の大好きな人。私を導いて、守って、愛してくれた人。
いつか私も、この人を照らせるだろうか。ほんの小さな光かもしれないけれど、眠れない夜に灯る道しるべのようになれるだろうか。そうだったらいい。きっとそうでありたいと願う。

「いってきます!」

たとえば世界の暗がりで、彼が私を見つけてくれたみたいに。

 

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