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二〇一〇年四月・東京

 

新幹線を降りると、朝の冷たい空気が身体を包み込んだ。
日曜日の東京駅はまだ目覚めきっていない。ホームに漂うとろりとしたまどろみの気配に誘われ、私はひとつ欠伸を零した。人もまばらなエスカレーターを降りていけば、たくさんのショップやレストランたちもまたシャッターを下ろして眠っている。ここを旅立ったときの賑わいとは打って変わって静かな構内に、スーツケースの車輪と足早な靴の音は大きく響いた。

本当は昨日の夜には帰ってくるはずだったのに、最後の最後に捻じ込まれた任務が思いのほか長引いて終電に間に合わず、こうして朝イチの新幹線に乗ってやってきたのだった。今日は昼過ぎから私の歓迎会を開いてもらうことになっていて、忙しい顔ぶれが揃ってくれるので遅れるわけにはいかない。その前に高専に寄って先生方に挨拶をして、今夜からまたお世話になる寮の部屋を整えて、それから。なんとも慌ただしい一日になりそうだと思いながら、改札を抜ける頃には自然と小走りになる。

待ち合わせ場所のロータリーに出ると、久しぶりに見る東京の風景が私を待っていた。
ギザギザに切り取られた狭い空。その下に所狭しと並び立つ高層ビルの群れ。けれどその隙間を通ってやってくる風はどこか柔らかく、まっすぐに伸びた私の髪をふわりと揺らす。
ショーウィンドウに映る自分の姿にちらと目をやった。寝ぐせなし。服装の乱れなし。訳もなく髪を耳に掛けて、やっぱり戻す。高級ブランドの広告を横目にさらに歩いたところで、高専の送迎車を見つけて私は足を止めた。

「悟先輩」

黒のセダンにもたれかかるように立っている、背の高いその人。呼びかけた声は緊張のせいかずいぶん小さかったはずなのに、彼は俯けていた顔を上げると迷いなく私を見た。
眠っていた心臓が、一瞬で目覚めたかのように早鐘を打ち始める。
優しく靡く白い髪。二年前と違う形のサングラス。その向こうにある青に、私は何度でも恋をする。

「ナマエ」

先輩はたった数歩で目の前までやってきて、思いきり私を抱きしめた。低い声が耳にくすぐったい。おかしいな、京都にいる間にもちゃんと会っていたし電話だってしていたのに、今日この瞬間が何より愛しく思えるのは、春の日差しのせいだろうか。

「先輩、苦しい」
「ごめん」

形ばかり謝りながら、私を抱く力は緩むどころかぎゅうぎゅうと強くなっていく。背骨が折れないか心配になったけれど、離れたいとはちっとも思わなかった。

「……あー、ナマエだ」
「はい。ナマエです」
「うん」
「先輩、まさかまた背が伸びました?」
「お前は相変わらずチビだな」
「失礼な。三ミリ伸びましたよ」
「誤差だろ」
「先輩」
「うん」
「ただいま、帰りました」
「……うん」

手を伸ばして、柔らかな髪に触れる。ずっとずっと会いたくて想い焦がれた人が目の前にいる、その幸せを確かめる。

「……おかえり」

ようやく身体を離すと、満開の桜の花みたいに晴れやかに彼は笑った。そうして私の唇にひとつ小さなキスをして、立襟の上着のポケットから何かを取り出して私にくれた。

「じゃ、とりあえずコレ」
「何ですかこれ? 鍵?」
「そ。マンションの」
「マンション? あの私、高専の寮に……」
「あー。そっかまだ話してなかったっけ。お前は今日から僕と一緒に住むの」

え、と私は呆けて先輩の顔を見上げた。その間にも先輩はパールピンクのスーツケースを軽々と持ち上げて車へ歩いていく。鼻歌でも歌い出しそうな軽やかな足取りだった。

「え? ……え!?」
「ってことで、さっさと乗って。荷物は後ろ乗っけるよ」
「ちょっと待っ、一緒にって」
「大丈夫大丈夫、お前が高専に送った段ボールも勝手に運んどいたから。ほら早く」

何が大丈夫なんだか少しもわからない。急かされるまま助手席に乗り込んだ私に、先輩は隣でエンジンをかけながら「なんか問題ある?」と事もなげに尋ねた。問題は……あれ、別にない、のか?

「やなの?」
「別に嫌ではないですけど」
「じゃあいいじゃん」
「でも心の準備というものがですね……」
「今更そんなのいる? だってさあ」

不意に先輩が顔を近づけてこちらを覗き込んだ。いつの間にかサングラスは取り払われて、悪戯な青い眼差しが私を捉える。空の色にも海の色にもよく似て、けれどそのどちらよりずっと透明で美しい瞳。なんてずるい人だろう。そうすると私が何も言えなくなってしまうことをよく知っている。

「お前、僕のこと大好きだろ?」

降参だ。こんなのもうお手上げである。なす術もなく頷いた私の頭を上機嫌に撫で、先輩は意気揚々と車を発進させた。満開の桜のアーチを駆け抜ける私たちの上に、惜しみない花吹雪が舞い落ちる。私はほんの少し窓を開けて、朝の空気を吸い込んだ。新しい季節の匂いがした。

 

 

fin.

 

 


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