58

のろのろと寮の自室へ帰りつく頃には、すっかり日が暮れていた。

体がひどく重たく、頭痛がする。制服の上着だけを雑に脱ぎ捨ててベッドへ倒れ込んだ。
夏油先輩と会ったことは誰にも言わなかった。任務の報告の際に夜蛾先生から聞いた話では、五条先輩や硝子さんのところにも現れたというのは本当だったらしい。その後、彼の足取りは再び途絶えてしまった。

もし、あのままついて行っていたら。考えて、ぎゅっとシーツを握りしめる。あの電車の行き先は私の家の最寄り駅だった。夏油先輩がどんなつもりでいたのか、いまとなっては知る術もない。

『そうやって大切な人たちが呪い殺されても、君はまだ非術師を守り続けるのか?』

静かな声がずっと耳から離れない。

「……そんなの、わかんないよ……」

自分に向けられたような悪意がいつか大切な誰かを傷つけたとき、私はそれでも呪術師を続けられるだろうか。祓っても祓っても呪いが生まれ続ける世界を少しも憎まずにいられるだろうか。その原因たりえる見も知らぬ人々を、迷いなく助けることができるだろうか。わからない。わからないことばかりで窒息しそうだ。胸の中心にぽっかりと大きな空白が残っていて、それは時間を追うごとに現実という形を成してじわじわと私を蝕んでいく。こういうときにいつも正しい答えをくれた人は、もういない。

――こつん。
寝転がってぼんやりしていたせいで、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。物音に目を開けると部屋は薄暗くなっていた。最近めっきり日が落ちるのが早くなったなと思っているうちに、こつん、ともう一度同じ音が鳴る。誰かが部屋の扉をノックしているのだ。私は弾かれたように顔を上げた。

「……五条先輩?」

なぜか、姿は見えなくてもすぐにわかった。いつもなら私の返事なんて待たずに勝手に入ってくるはずなのに、ドアの向こうの気配は動く様子もない。転がるようにベッドを降りてドアを開けると、暗い廊下にぼうっと五条先輩が立っていた。制服のまま、いつものサングラスは掛けていない。

「先輩……」

呼びかければ、彼は伏せた睫毛をひどく重たそうに持ち上げた。青い瞳が焦点を合わせるようにゆっくりと瞬きをして私を映す。その奥にある淡く透明な光に、はっとした。永遠のような美しさが今日ばかりは痛々しかった。

「……あー、ひっさしぶりに寮戻ったから、顔見に来た」
「そう、ですか」
「……」
「……任務、お疲れ様でした」
「……ほんと、忙しくて嫌になるわ。アイツが、」

いなくなったせいで。そう続くはずだったのだろう言葉は形を成さず、空気に溶けて消えてしまう。
たまらなくなって私は先輩の手を取った。冷えきった肌に温度を与えるように頬を寄せる。いま私がこの人に渡せるものは、それくらいしかなかった。

「……おかえり、なさい」

他に何も言葉が見つからない。
灰原が亡くなったこと。夏油先輩が離反したこと。叔父が私を殺そうとしていたこと。呪いは非術師からしか生まれないこと。たくさんの出来事が荒波のように押し寄せて私の思考を奪っていく。何ひとつうまく考えられない。ただこの手を離してはいけないということだけがわかって、だから私は必死になって五条先輩の手を握りしめた。

「……ごめん」

ぽつりと落ちた呟きに顔を上げると、すぐに唇が重なった。先輩の背後でドアが閉まる。あとはふたり分の吐息の音しか聞こえなくなって、ここだけが世界から切り離されたみたいに静かだった。

いくつもいくつも、雨粒みたいなキスが落ちてくる。徐々に長さと深さを増していくそれに呼吸が追いつかず溺れそうになるのを、先輩の上着にしがみついて堪えた。五条先輩は何も喋らない。私の髪を撫で、頬を撫でた手が肩を滑り降り、ぐっと背を引き寄せる。何かを懸命に搔き集めようとするみたいに。

気がつくと、ふたりともベッドの上にいた。
仰向けになった私の身体を跨ぐように乗り上げて、五条先輩はこちらを見下ろしていた。真っ暗になった部屋の中、白い前髪に隠れて表情が見えない。
カーテンも閉めずにいたのに、こんなに暗いのは月が出ていないせいだろうか。キスの余韻で頭がぼうっとする。自分の胸がせわしなく上下する動きと、それに合わせて漏れる呼吸音だけが、かろうじて認識できることのすべてだった。

「……さとる、」

ほとんど無意識のうちに名前を呼んだ唇をまた塞がれる。口の中が熱い。どろどろに溶けてしまいそう。シーツに強く縫い留められた右手の痛みまでもが徐々に麻痺していく。いよいよ息が続かなくなり、唯一自由の利く左手で先輩の胸を押せば、一度は離れた唇が今度は私の首筋へ埋められた。濡れた唇の触れたところに刺すような痛みが走る。

「ん、っ」

びくりと体を震わせると、それでようやく五条先輩は動きを止めた。熱い息が耳の縁を掠める。柔らかな髪が持ち上がり、その隙間から覗く瞳と視線が絡まった。

「……なんで、嫌がんねーの」

真っ白な睫毛に、オーロラみたいな青が映って揺れている。独り言のように呟かれた言葉はひどく小さくて、どんなに大事に拾い上げてもすぐに壊れてしまいそうに儚かった。

「……だって、先輩、泣きそうな顔してる」

戸惑いと、後悔と、苛立ちと。置き去りにされて途方に暮れた子供みたいな目。あらゆるさみしさを溶かし込んだような瞳はそれでもなお深く澄んでいる。私はそれが悲しくて悲しくて仕方なかった。こんなときですらこの人は五条悟でいなければならない。これから先も、ずっと。

優しい人たちが傷つかずにいられる世界だったならよかった。この人が何もかもを放り出して眠れる場所があればよかった。どんなにそう願っても日々は回り続けて、季節は止まらず、私たちは明日もまた呪いの中を生きていく。

白い頬にそっと触れた私の手に、冷たい手のひらが重なる。ほんの僅か細められた青が、泣いているように見えた。

「――ナマエ、」

掠れてしまったその続きが何だったのか、私にはわからない。
ぎゅっと強く抱きしめられて、私たちはひとつの塊になったみたいに身を寄せ合って眠った。それ以外には何もない、宇宙の彼方にいるような静かな夜だった。丸まった背中をそっと撫でながら、どうかこの人の見る夢が優しいものであるようにと、それだけをただひたすらに祈った。

 

* * *

 

※五条視点

 

久しぶりに帰った寮は驚くほど静かだった。
灰原が死んで、傑が離反した。ふたりの人間がいなくなっても何事もなかったかのように日々は繰り返され、なのに何も変わらないはずのこの景色だけがどこかよそよそしく見えるのはなぜなんだろう。出来の悪い間違い探しみたいな違和感。歩くたびに床板がぎしぎしと鳴る音も、記憶にあるよりずっと大きく響いて聞こえる。

新宿から帰った後、ぼんやりしていたら夜になっていた。せっかく帰ったのだからせめて横になるかと寮へ引き上げてきたものの、眠気はあまり感じていなかった。
ここ一か月ずっと日本全国を北から南まで引っ張り回され、学生の身分はどこへやら、息つく暇もなく任務をハシゴした。最後にちゃんと布団で眠ったのがいつだったかも思い出せない。それでも反転術式のおかげで身体は相変わらず全快だし、頭だって冷静だ。けれど自分の中にあった何か大きなものをごっそりと根本から引っこ抜かれてしまったような、妙な感覚だけが腹の底にこびりついている。

自室へ向かっていたはずの足が止まったのは、なぜかナマエの部屋の前だった。
会ってどうしたいとか何かを話したいとか、そんなことはちっとも考えていなかった。ただ顔が見たいと思った。たったそれだけでもナマエは許してくれるような気がした。そうしたら、すぐに立ち去るつもりだった。

『……さとる、』

それが、気づいたらベッドに押し倒していた。
濡れて震える唇に何度も口づけて、どろどろに舌を絡ませて、それでも埋まらない腹の奥の空白に、得体の知れない焦りを覚えた。めちゃくちゃに傷つけてやりたいような、大事に抱きしめていたいような、支離滅裂なひどい気分だった。細い首筋に顔を埋めると甘く柔らかい匂いがして、訳もなく泣きたくなった。唇に触れた華奢な銀色のチェーンが、ナマエの体温を吸ってぬるくなっていた。

それからどうやって眠ったのかよく覚えていない。たぶん、自分で思う以上に俺は疲れていたんだろう。ぷつりと糸が切れるみたいに意識が飛んで、次に目覚めたらもう朝だった。
まだ明けきる前の夜の薄青が窓越しに目に映る。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなり、身体を起こして室内を見渡した。簡素に整えられた清潔な部屋。背の低い椅子。チェストの上に大切そうに置かれている、見覚えのある呪具。

「……ナマエ?」

昨晩、あんなに強く抱きしめていたはずのぬくもりが消えていることに気づいた途端、柄にもなく情けない声が出た。狭いベッドの片側はもぬけの殻だ。足に絡まっているシーツを乱暴に払い除けてベッドを降りる。大股で歩いて行って入り口のドアノブに手を伸ばしたとき、反対側から扉が開いてナマエがひょっこりと顔を出した。

「っ、」
「あれ。もう起きてたんですか?」

おはようございますと呑気な声で言ってナマエはふにゃりと笑った。その手にはミネラルウォーターのペットボトルが携えられている。

「喉、渇いてるかなと思って取ってきました」

どうぞと差し出されたそれを咄嗟に受け取った。ひんやりと冷たいプラスチックが火照った手のひらに吸いつく。ともすれば色っぽい朝のやり取りにすら見えそうなのに、ナマエは拍子抜けするほどいつも通りだった。

「あの、五条先輩」

穏やかな横顔が振り向く。朝の薄明かりがナマエの細い髪をきらきらと縁取っていた。真っ白なシャツの襟から覗く首筋に、俺のつけた赤い痕が残っている。

「――お話が、あります」

 

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