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「――え?」

その知らせを聞いたとき、私の口をついて出たのは、気の抜けたソーダみたいなひどく間抜けな音だけだった。
資料の束を淡々と捲る夜蛾先生の指をぼんやり見つめる。いま、この人は何て言ったんだろう。

「傑が離反した。非術師を百人以上殺して行方知れずだ」

すぐる、って、誰だっけ。
私の知る中でその名を持つ人なんてひとりしかいないのに、脳が理解することを拒んでいる。離反とか、非術師を殺すとか、ひとつひとつの単語の意味はわかるけれど、そのどれもが頭に浮かんだ人物とは少しも結びつかないまま思考の彼方へと消えていった。

私は、からかわれているんだろうか。これは趣味の悪い冗談か何かで。きっとそうだ。そう考えるほうが何倍も現実味がある。夜蛾先生がそんなことを嘘でも口にするはずがないと知っていても。

「……ちょ、っと、待ってください。何が」
「ただでさえ人手が足りない。すまんがお前にもいくつか任務を受け持ってもらうことになる」
「先生」
「すぐ発ってくれ。説明は車内で補助監督から聞くように」
「先生、だって」

だって、夏油先輩だ。
縋るような想いで夜蛾先生を見上げた。けれどこちらを向いた先生の目はちっとも笑っていない。悲しいほどまっすぐなその眼差しは、いとも簡単に私の期待を打ち砕いた。

「本当、なんですか」
「……残念だが、その可能性が極めて高い」
「でも何か理由が、きっと」
「わからん。調査中だ。……ただ、残穢から傑の犯行であったことは間違いないそうだ」

押し殺すような声で言って、先生は目を伏せた。
チョコレートを乗せた大きな手のひらが不意に蘇る。あの人が、あの手で、人を殺したのだろうか。本当に? 何かの間違いではないのだろうか。じゃなければよっぽどの理由があるに決まってる。でも、理由があれば人を殺してもいいことになるのだろうか?

何もわからなくなって、頭の中には柔らかな記憶ばかりが溢れた。だってあんなにも優しく笑ってくれたのに。帰ったらお説教だって、言ってたのに。

「……五条先輩、は」
「……任務だ。傑が抜けたからな」

呆然と、渡された資料を受け取る。そこに答えなんか書いてあるわけがないのに文字を追わずにはいられなかった。担当者の欄に私の名前だけが書かれた、何の変哲もない指示書。いつも通りだ。恐ろしいくらいに。
頼む、と小さく言って、夜蛾先生が足早に去っていく。受け持ちの生徒が離反したいま、きっとやることが山積みなのだろう。しかも並の呪術師じゃない、特級のひとりが抜けたのだ。任務の割り振りだけでなく、上層部への釈明も求められるだろうし、何よりどうにかしていち早く夏油先輩の足取りを掴まなければいけない。そして――そしてもしも捕まったら、夏油先輩は。

「……任務、行かなきゃ」

補助監督が待っている。無理やりに思考を切り替え、ふらつく足を奮い立たせた。
離反した術師の行く先。それを考えてしまったらもう、ここから一歩だって動けなくなりそうだった。

 

* * *

 

「……あれ」

新宿駅のホームに降り立ってすぐ、私は違和感を覚えて足を止めた。
平日の昼下がりといえど、人の波は途切れることなく流れている。電車から降りる人、駆け込む人、案内板をじっと見つめる人。私は邪魔にならないようにホームの柱の陰に身を寄せて携帯電話を覗き込んだ。

「やっぱり、電波がない……」

ディスプレイの右上に表示されるはずの、電波受信を示すアンテナのアイコンが消え、代わりに『圏外』という文字が表示されていた。
圏外? こんな都心の駅の構内で? 不審に思って周りを見渡してみても、私以外の人たちには特段困惑している様子はない。メールを打っている人も、電話で話している人もいる。大規模な電波障害などではないらしい。だとしたら何だろう。料金の支払い漏れ?

溜息をつき、携帯の電源を落とす。こういうのは再起動すると直ることがあるのだと、いつだったか夏油先輩から教えてもらった。

夏油先輩。
彼が行方をくらませてからもうずいぶん経つ。五条先輩や硝子さんが任務の隙間を縫って足取りを追っているらしいけれど、有力な手がかりはいまだ見つかっていないようだ。高専からの通達は淡々としたもので、「夏油傑を呪詛師と認定し処刑対象とする」という、ひどく事務的な言葉だけだった。

現場の状況、同行した補助監督の証言、そして彼の実家に残されていた血痕と残穢。日を追うごとに明らかになっていくそれらの証拠は何から何まで夏油先輩の犯行を裏付けていて、けれど私の気持ちはずっと置いてきぼりのままだった。
毎晩毎晩、馬鹿みたいに期待する。すべてが夢なんじゃないか、明日起きたら何事もなかったみたいに元に戻っているんじゃないかと、祈るような気持ちを抱きながら眠りにつく。そうして目が覚めても、現実は何も変わらずそこにある。毎日がその繰り返し。

一度真っ暗になった携帯電話の画面が再び光を灯した。電波状況は依然として圏外のままだ。

「……まあ、いっか」

どうせ今日はもう高専へ戻るだけだし、任務の報告はそれからでも遅くない。
視界の端で銀色のイルカがちらちらと瞬く。五条先輩はどうしているだろう。もうずっと声も聞いていない。何を言っても薄っぺらくなってしまいそうで、メールを送ることすら躊躇われた。ついひと月前に見た花火の景色が遠い昔のことのように感じる。

(……『向いてない』、か)

いまになって、いっそう思い知らされる。私では夏油先輩や灰原の抜けた穴を埋めることができない。私に回されるのは相変わらず危険の少ない任務ばかりだ。五条先輩や硝子さんが眠る暇もないくらいに働き続けているというのに。
だったら私はどうしてここにいるんだろう。私は、何のために。

「やあ、ナマエ」

ふ、と見知った気配がした。

「……え?」
「久しぶり」

振り返った先、秋のきらきらと透明な光の中に、その人は立っていた。
ゆるく結われた黒い髪。同じ色のスウェットの上下。やけに朗らかに笑う目元に、もう隈はない。

「夏油、先輩?」

その名前を呼ぶことすら懐かしい気がした。軽く挙げられた大きな手がひらひらと揺れている。まるで街中で偶然出会った友人に呼びかけるみたいに親しげに。

どうして。なんで。いままでどこにいたんですか。彼に訊きたかったはずのたくさんのことは何ひとつ声にならない。夢中で駆け寄って真っ黒なスウェットの裾を掴んだ。日の光を吸い込んだ柔らかな生地が私の手の中でぐちゃぐちゃに形を変えた。

「夏油先輩」
「……私のことが怖くないの?」
「嘘ですよね」

まっすぐに見上げれば、先輩は困ったように眉を下げて笑った。そんな顔していないで、どうか早く嘘だと言ってほしい。全部誤解だって、自分はそんなことしてないって言ってほしかった。そうしたら私はなりふり構わずそれを信じるのに。

「嘘じゃないよ」
「嘘です、だって夏油先輩は」
「嘘じゃない」

大きくてあたたかい手が私の指をやんわりと引き剝がす。「嘘じゃないんだ」と繰り返す声の優しさは私の覚えている夏油先輩のままだ。だけど唐突に私は理解してしまった。この人はもう、戻っては来ないのだと。

「悟とはもう話したよ。硝子とも。君にも挨拶をしておこうと思ってね」

体の陰で携帯を開こうとした私の動きを見透かすように夏油先輩は言った。元より圏外の携帯は何の役にも立たない。
目の前が暗くなって倒れそうになるのを必死に堪える。硝子さんの、五条先輩の言葉すらこの人の心には届かなかったということだ。だったらもう私にできることなんて何もないじゃないか。

いつの間にか、あんなにも人が溢れていたホームには私たちの他に誰もいなくなっていた。ここだけが薄い膜の中に閉じ込められているみたいに、向こう側の景色がぼんやり歪んで見える。夏油先輩の呪霊の能力だろうか。

「少し話そう」

音もなく電車が滑り込んできて、目の前でドアが開く。どこへ向かうのかもわからないその電車に夏油先輩は躊躇う素振りもなく乗り込んだ。のろのろと後に続けば、やはり私たちのいる車両にだけ誰も乗っていない。臙脂色のシートに並んで腰を下ろす。ゆるやかに走り始めた電車の窓の外を、高層ビルの群れが流れていく。

「本当について来るんだ」

黙って隣に座っている私を見下ろして、夏油先輩はおかしそうに目を細めて笑った。
こうしているとまるでいままで通りみたいだ。これから一緒に高専に戻ってまた日常の続きが始まる、そんな錯覚さえした。

「ナマエは素直だよね。悪い男に引っ掛からないようにって言っただろう?」
「……」
「でもまあ、気になって当然か」
「……」
「訊きたいことがあればどうぞ。何でも答えるよ」

膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。訊きたいことなんて山ほどあるけれど、どれも口に出せなかった。だって答えを聞いてしまったら、全部が本当になってしまう。

沈黙の中、いくつもの駅を通り過ぎる。何度もドアが開いては閉じ、けれど誰も降りず誰も乗って来ない。

この人は呪詛師で、処刑対象だ。見つけたら殺さなくちゃならない。わかっていても体が動かなかった。私では適わないからとかそんなんじゃなくて、ただ心が拒んでいる。どうしたってこの人をそんな風に見ることができない。だってまだこんなにも、私の知る夏油先輩のままで。

「知っているかい? 呪いは非術師からしか生まれない」

唐突に、何の前置きもなく先輩が言った。覚えの悪い生徒に噛んで含めるような丁寧な口調だった。

「……え?」
「だから私は非術師を皆殺しにして、術師だけの世界を作るんだ」

何を、言ってるんだろう。
開いた口からひゅうと渇いた吐息が漏れる。非術師を皆殺し? 術師だけの世界? だからあの村の人たちを殺したの? 自分の家族、も?

「訳がわからないって顔だね」
「……あ、当たり前です、だってそんな」
「馬鹿げている?」
「……っ」
「じゃあ、ついでにもうひとつ教えてあげよう」

電車は静かに走り続ける。がらんどうの車内にのどかな陽だまりが落ち、窓の外にはよく晴れた秋の空が広がっていた。遠くで車掌のアナウンスが響いている。水の中にいるみたいに、それはぼんやりと揺らいで聞こえてくる。終点の駅の名前には嫌というほど聞き覚えがあった。

「あのとき――ナマエの家の神社が襲われたとき、あの呪霊を招き入れたのは君の叔父さんだよ」

頭を殴られるようだった。
一瞬にしてあの日の光景が脳裏に蘇る。対峙した呪霊のおぞましい顔。吐瀉物のようなひどい匂い。お腹の底からぶわりと寒気が湧き上がり、ひとりでに手が震えた。
あれは、事故だった。どうしようもないことだったはずだ。――本当に?

「正確に言えば、彼は結界をほんの少し綻ばせただけだけれどね。五条家の呪具と引き換えに、君を殺すよう呪詛師に依頼していたんだ。あとは侵入した呪詛師か式神が君だけを殺しておしまい、っていう手筈だったんだろう」
「……、……」
「実際には呪霊を差し向けられて彼自身も死にかけたわけだけど。馬鹿だよね、縛りもなしに呪詛師と取引するからそうなる」
「……どう、して、そんな」
「君の術式を手に入れるためさ。大方、『奪った術式を移植してやる』とでも言われて唆されたんじゃないかな。そんなことできるはずがないのに、本当に愚かだ」

あの一件の後処理を全部任せてほしいと五条先輩は言った。だから私はいまのいままで、何も知らずにいた。
――違う。知ることが怖かったのだ。
疑わしく思わなかったわけじゃない。それでも、まさか、もしかして、と頭をよぎる度に蓋をしてきた。五条先輩に何もかも委ねて、見ないふりをしてきた。そうして自分を保っていなければ、悲しみと虚しさでどうにかなってしまいそうだった。

「悟は優しいよ。君が傷つかないように全部伏せていた。いま私が台無しにしてしまったけれどね」

おどけたように肩を竦めて夏油先輩が言う。車窓から斑に差し込む日の光がその横顔を眩しく照らしていた。

「怒った?」
「……」
「まあ、君は自分のために怒るような性格じゃないか。だけど、考えてごらん」

切れ長の目がゆっくりと振り向いて私を捉える。夏の間ずっとあんなにも疲れた顔をしていたのに、いまの彼は見違えるほど生気を取り戻している。まるで憑き物でも落ちたみたいに。

「そうやって大切な人たちが呪い殺されても、君はまだ非術師を守り続けるのか?」

まっすぐな眼差しに、胸を貫かれた気がした。心臓がおかしな速度でずっと脈打っている。

叔父が私を殺そうとした。呪詛師と手を結んで。そうまでして術式を手に入れたかった? 当主の名前がほしかった? ずっと蔑んできた相手からこれ以上を奪い取って自分のものにして、それで何が満たされるというんだろう。こんなもの、望んで手にした力じゃないのに。

(……お母さん、も)

両親も、そうやって人の悪意に殺されたのだろうか。灰原も、これから死んでいくかもしれない仲間たちも――五条先輩も、いつか。

「ナマエ。一緒に来ないかい?」
「……」
「君は優秀な結界術の使い手だし、仲間になってくれたらとても助かるんだけど」

言葉が出てこない。何も。
この人の覚悟を越える言葉を私は持っていない。だって硝子さんにも五条先輩にも止められなかった。それくらい遠くへ夏油先輩は行こうとしている。何もかもを置き去りにして。
涙が止めどなく溢れてくる。全部全部、終わってしまうのだと思った。それでも差し出された手を取ることはできない。俯いたまま何度も首を横に振った。ふっと、吐息だけで笑う気配がした。

「……君はいつも私の手を取ってくれないな」
「夏油先輩、」

私のこの力は私だけが作ったものじゃない。五条先輩がいて、硝子さんがいて、七海と灰原がいて――夏油先輩がいて。そういう日々の中で必死に積み上げてここまでやってきた。
呪術は誰かを傷つけるためじゃなく、守るためのものだ。そう教えてくれたのは、この人だったのに。

「――さよならだ。ナマエ」

大きな手のひらがそっと優しく私の頭を撫でた。硬そうな黒髪が翻って、覚えのある花の香りがする。
電車はどこかの駅に停まっていた。静かに開いたドアの向こう、午後の光の中へ夏油先輩の背中が消えていく。伸ばした手は届かずに空を切った。どんなに強く掴もうとしても零れ落ちてしまう。もう永遠に取り戻せない何か。

「っ、まって、夏油先輩、だめです、お願い」

行かないで。
追いかけて外へまろび出たときにはもう、夏油先輩の姿は見えなくなっていた。ホームの隅に蹲った私を乗降客たちが不審そうに眺め、けれどすぐに興味を失って、何事もなかったかのように通り過ぎていく。

胸が痛い。張り裂けてしまいそう。いつのものかもわからない優しい笑顔ばかりが繰り返し頭に浮かんだ。もう戻れないのだ。取り返しはつかないのだ。
私は彼に、彼らにどれだけ守られていたんだろう。

 

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