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※五条視点

 

 

九月に入って、約束していた花火大会の日を過ぎても、繁忙期は依然として終わらなかった。

元から任務漬けだったところに後輩が抜けた分の仕事まで上乗せされれば、もはや高専に戻っている暇さえない。誰が死んだところで生きている人間の日常は止まってくれないのだ。続けざまに舞い込んでくる任務を効率よくこなそうとすれば睡眠も食事も移動中に済まさざるをえなくなり、必然、ナマエにメールや電話を入れるタイミングも減っていった。

無事にというべきか、京都での査定を経て二級に昇級したらしいナマエに単独任務が回されるようになったこともすれ違いに拍車をかけていた。例年になくダラダラと湧き続ける呪霊も、ナマエの遠慮がちな性格も、何もかもが最悪のタイミングで重なって、声すら聞くことのないままに何日もの時間が空いた。

「ナマエ」

だからようやく顔を見たとき、こいつってこんなに小さかったっけ、なんて妙な感想を抱いてしまった。

「五条先輩……?」
「……久しぶり」

夏の名残の季節はあっという間に溶けてなくなっていく。何日ぶりかも数えていられないほどの期間を経て高専の敷地を踏む頃には、あんなにぎらぎらと照っていた太陽の光もすでに激しさを失っていた。寂しく揺れる夕映えの中、渡り廊下をぽつぽつと歩く背中をようやく見つけて呼び止めた。

振り返ったナマエの瞳は濡れていなかった。頬が少しこけただろうか。もしくはそれすら俺の記憶違いか。帰ったらみんなで花火大会へ行こうと言ってきらきら笑っていた顔が不意に脳裏をよぎる。もう永遠に果たせない約束だった。

「先輩」
「……悪い、ずっといなくて」

細い腕を取って抱き寄せる。一瞬だけ体を強張らせたナマエは、それでもおずおずと俺の背に腕を回した。

「……仕方ないことですから」

消え入るような声でナマエが呟く。大丈夫だと言い聞かせてやりたい。無根拠に安心させてやりたい。けれど何が大丈夫なのか自分でもわからなかった。今日だって俺はすぐにまた任務に出なければいけない。明日も明後日も、ナマエのそばにいてやれない。開いた口からは結局何も言葉が出て来なくて、代わりに小さな頭をそっと撫でた。腕の中で微かにナマエは肩を震わせ、それでも泣くことだけはしなかった。

遠くで雷鳴が聞こえる。雨の気配がした。

「……私、だめですね。一年経っても全然、弱いままで」
「……」
「これからもっと、任務増やして、いっぱい祓って、そうしたら……いつになったら」

大事な人たちのこと、守れるんでしょうか。
囁くように言った声は細く震えて、湿り気を孕む秋風にいまにも攫われてしまいそうだった。

「……無理しなくていい」

ぎゅっと、抱きしめる腕に力を込める。

ナマエは確かに強くなっている。去年の春より、あの暗い森の中で出会ったときよりずっと。背だって伸びたし、戦い方もうまくなった。刹那的な死に自らの価値を見出すようなことは、いまのナマエならもうしないはずだ。
だけど、それでもなおあまりに小さく、脆い。

「俺と傑がいれば何とかなるだろ。お前が出る必要ねーよ」
「でも、私だって昇級して……」
「向いてないんだよ」

言ってしまってから、はっとした。顔を上げたナマエが、しんと深く澄んだ瞳で俺を見つめていた。

傷つけた。そう頭で理解しても、止められなかった。だってどうしようもないくらいに事実だ。春先の冷たい雨に打たれて死にかけていたナマエの肌の温度が手のひらに蘇ってくる。吹けば飛んで行きそうな細い体で、仲間の死をこんなにも切実に悼んでしまう柔らかい心で、この先どうやって生きていくというのだろう。今日よりも悲しい日はきっとどうしたってやってくる。それを仕方ないと割り切れるほどナマエは強くない。わかっていて俺はナマエを連れ戻したはずなのに。ナマエがどんな想いで呪術師を続けてきたか、誰よりも知っているくせに。

「……ごめん。もう行く」

ポケットの中で携帯が震え続けている。ナマエの頭をもう一度、できるだけ優しく撫でて離れた。
そばにいてやりたい。守ってやりたい。だけどそれだけのために俺は生きられない。

「――もしもし。任務? いいよ、どこへでも」

ぽつりぽつりと降り始めた雨の中へ踏み出す。この忙しさを抜けたら、ちゃんと時間を取って話そう。気晴らしにどこかへ出かけるのもいいかもしれない。傑や硝子も誘って。けれどいまはとにかく目先の仕事を片づけるべきだ。ナマエたちに無理な案件が回る前に、ひとつでも多く。

 

* * *

 

「あれ、夏油先輩もですか?」

車に乗り込もうとドアを開けたとき、後部座席にはすでに先客がいた。

「そんなに残念そうな顔をされると傷つくな」
「違いますよ、びっくりしただけです」

窓枠にもたれて意地悪く笑う先輩の隣に滑り込み、ドアを閉める。運転席から「ちょうどタイミングが一緒だったので、相乗りでお願いします」と補助監督さんがミラー越しに言った。

「ナマエはどこまで?」
「私は長野です。途中から電車で」
「そう。じゃあ八王子あたりまで一緒かな」

夏油先輩が地図をなぞるみたいに空中で指を動かした。先輩はそのもっと先まで車で向かうのだと言う。「ずいぶん田舎みたいでね。お土産は期待しないでくれ」と冗談めかして言われたが、興味本位で尋ねたその村の名前は本当に聞いたことがなかった。百数十人しか住んでいない小さな集落らしい。

車がゆっくりと加速を始める。今回はどれくらいで帰って来られるのかな、と疲れの滲む横顔を見てぼんやり考えた。なだらかな曲線を描く鼻筋の向こう側を見慣れた景色が流れていく。夏の間、きらめくほどの生命を漲らせていた青葉も徐々にその色を失い始めていた。老いるように、朽ちるように。

「そういえば、昇級おめでとう」

しばらく続いた沈黙の後、夏油先輩が横顔のままで言った。

「……ありがとうございます」
「あまり嬉しそうじゃないね」
「そう、ですね……ちょっと遅すぎたかもしれません」
「……ナマエのせいじゃない」

互いに何の話をしているのか、明確に言葉にしなくてもわかる。

当たり前のようにいつも眩しく私たちを照らしてくれていた彼の不在は、想像よりも遥かに暗い影を落としていた。あれから七海とも会えていない。顔を合わせたとしてきっと前みたいに話せはしないだろうと思った。歯車が少しずつ狂っていくみたいに、何もかもが嚙み合わない違和感をずっと私たちは抱えている。

頭ではわかっているのだ。夏油先輩の言う通り、誰のせいでもないことだったし、ましてや私ひとりにどうこうできることでもなかった。それくらいに私は弱い。

「……それに、向いてないって言われちゃったんです」

できるだけ暗い声にならないよう気をつけて言ってはみたものの、夏油先輩は僅かに息を呑んでこちらを見た。切れ長の目の下に浮かぶ隈が、この前会ったときよりもずっとひどくなっていた。

「……それは、悟に?」
「はい。でも五条先輩が意地悪でそんなこと言ったんじゃないっていうのはわかってます。……だからこそ、言い返せませんでした」

傷つかなかったと言えば嘘になる。入学したばかりの頃に言われた同じ言葉よりもっと重たくて、だけどどうしようもないほど正しいことだった。夢や理想だけで生きていけるような甘い世界じゃない。だから灰原も。

「ナマエ、」
「あの、これ食べませんか?」

思い出すと余計な涙が出てきそうだったから、私は鞄を開けてチョコレート菓子の包みを引っ張り出した。抹茶スイーツが有名な京都のお菓子屋さんのチョコレート。去年買ってきたときには、みんなでわいわい言いながら食べたんだっけ。

「一度溶けちゃったのを冷蔵庫で固め直したので、味はちょっと落ちてるかもですけど」
「……ありがとう。いまはお腹がいっぱいだから、遠慮しておくよ」
「そうですか……」

手の中に残った小さな包みを所在なく転がす。たくさん買ってきたのに、このまま誰にも渡せずに終わってしまうのかもしれない。

お土産も、花火も、紅葉も雪も桜も。楽しいと思うことや美しいと思うことも、もう二度と前みたいには分かち合えない。そんな当たり前の事実がただ悲しかった。いつかこの傷が薄れて再び笑える日が来たとして、亡くなった人は帰らない。同じ時は、永遠に訪れない。

否応なしに考えてしまう。次は誰がいなくなるんだろう。私はいつまで生きていられるんだろう。大切な人たちに、あと何回会えるんだろう。ひとりで過ごす時間が増えるごとにそんな空虚な思考に呑み込まれ、うまく息ができなくなる。

「やっぱり、後で食べるからもらっておいていいかな」

俯いた視界に、分厚い手のひらが差し出された。

「え、でも……」
「移動時間が長いし、途中でお腹が空くかもしれないから」
「……溶けないうちに食べてくださいね」
「そうするよ」

ころんと、上向けられた夏油先輩の手にチョコレートを乗せる。それを大切そうに眺めながら、先輩は「帰ったら悟に説教だな」と少し笑って言った。なぜだかひどく胸を打つような儚い横顔だった。秋の冷えた空気のせいかもしれなかった。

それからしばらくして私は車を降り、予定通りに任務をこなして三日後に高専へと戻った。
夏油先輩は、帰って来なかった。

 

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