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私が京都へ行くまでの十日余り、私と五条先輩はいままでになく時間を見つけてはふたりで過ごした。朝の談話室で、夕方の教室で、夜中のコンビニで、時にはお互いの部屋を訪ねたりして、たとえそれが数分や数十分だけのことだったとしても、ただ顔を見ておやすみを言うだけであっても。少なくとも私は、まるでそうしなければ生きていられないとでもいうような切実さに駆られて時間を作り続けた。好きな人と過ごす季節の特別なきらめきがそうさせたのかもしれなかった。そうしていくつかの優しいキスを交わす合間に、二度目の夏はめまぐるしく過ぎていった。

「帰ってきたら、今度はみんなで花火見に行きましょうね」

部屋で荷造りをしながら声をかける。五条先輩は私のデスクチェアにだるそうに腰かけて雑誌を読んでいた。身じろぎの度、油の切れた古い椅子が軋んで悲鳴を上げる。
床に広げたボストンバッグの中は、荷物をほとんど詰め終えた状態でさえまだ半分も埋まっていない。これがきっと帰ってくるときにはみんなへのお土産でぱんぱんに膨れているんだろうなと思うと、ひとりでに頬が緩んだ。

「花火大会、九月に入ってもまだありますよね?」
「その頃には繁忙期終わってりゃいいけどな」

ぱらぱらとページを捲る先輩の脚は床に長く投げ出されている。椅子の高さは私の背丈に合わせているから、なんだかおままごとセットの家具みたいに見えた。

「先輩、そこ疲れません? ベッドに寝転んでもらってもいいですよ」
「……別にいーよ。ていうかもう読み終わった」

雑誌を畳んだ先輩がおもむろに立ち上がり、こちらへ近づいてくる。あ、と思ったときにはキスされていた。慌てて瞼を下ろす。ガチガチに緊張することはもうなくなったけれど、やっぱり距離が近づくとまだどきっとしてしまう。床に座った私に覆い被さるようにしてキスをした先輩は、唇を離すと私の隣に屈んでボストンバッグを覗き込んだ。

「荷物少ねーな。これで足りんの? しばらくあっちいるんだろ」
「ほ、ほとんど制服とジャージで過ごすので、嵩張るのって下着くらいですし」
「ふーん。忘れ物すんなよ」
「……お母さんみたい」
「あ?」
「冗談です!」

頭をがしがしと掻き回される。前みたいに力任せじゃないその感じがくすぐったい。うっすらと目を閉じてされるがままになっていると、後頭部を滑った手のひらが私の髪を梳きながらするすると降りてきて耳の縁を撫でた。そわり、背筋に変な感覚が走って思わず身を捩る。

「あ、の、それ、くすぐったいです……」
「やだ?」
「や、じゃないけど」
「……けど?」
「なんか、ぞわぞわして」
「……」
「ひっ、ん」

またキスされた。今度はなかなか唇が離れない。先輩の指は相変わらず私の耳をやわやわと触っている。耳朶にかあっと熱が集まるのがわかって恥ずかしくなる。

最近の五条先輩には遠慮というものがなくなっている気がする。明確に嫌だと言わない限り止まってくれないし、そうしているうちに私はどんどん押し切られて、いつの間にか先輩のペースにすっかり巻き込まれている。けれど最も厄介なのは、それが全然嫌じゃないということだ。だから私はいつも先輩を止めるタイミングを見失ってしまう。

二回、三回と角度を変えて繰り返されたキスの後、あたたかい舌先が私の唇をぺろりと舐めた。……口、開けたほうがいいのかな。そう思った直後、ようやく先輩の顔は離れていった。

「……向こうで気をつけろよ」
「……ちゃんと昇級できるように頑張ります」
「任務だけじゃなくて」

いつの間に外したのか、五条先輩のサングラスは床に放り出されていた。見つめ合った先輩の肩越しに、八月の真っ青な空が窓から覗いている。
次、この人に会えるのはいつだろう。その頃にはこの茹だるような暑さも終わっているのかもしれない。
五条先輩の瞳の色は不思議だ。真夏の青空のようにも、冬晴れのようにも、深い海のようにも見える。そして、そのどれよりずっとずっと美しい。

遠い国に行くわけでもないのに、無性にこの時間が過ぎ去ってしまうのが惜しくなった。縋るように先輩のシャツの裾を掴む。「悟先輩、」まだ少し照れくさいその名前を呼んだときの、澄んだ青の微かな揺らぎを見てしまえば、呑み込まれるみたいに目を逸らせなくなる。

「……もういっかい」

掠れた拙い声までも包み込むような、優しいキスが降ってくる。離れがたいと言われているみたいで、胸がいっぱいになった。

 

灰原が亡くなったのは、私が東京へ帰る日の三日前のことだった。
予定を切り上げ、京都の山奥から急いで戻ったときにはもう葬儀まで済んでいて、私は彼の遺体に対面することさえ叶わなかった。一年と少しを共に過ごしてきた同期との別れにはあまりにも呆気ない幕引きだった。

七海とは一言か二言、会話したきりで、それも何を喋ったのかよく覚えていない。何かを言葉にして伝えるという行為が私たちは互いに得意ではなかったことを今更になって思い出した。灰原がいたからこそ七海と私の間に生まれていたものが、彼の存在ごとごっそりと抜け落ちてしまったような気がした。

膨らんだボストンバッグを抱えたまま、私は誰もいないグラウンドの端のベンチに呆然と腰かけた。八月も過ぎたというのに、どろつく暑さがまだ地面にべったりと貼りついている。お土産のチョコレート、溶けてしまうかもしれない。そう思いながらも一歩も動く気が起きなかった。

「……仲直りできたよって、まだ、言ってないのに」

ぽつりと零した自分の声が思いのほか大きく響いた。敷地内は異様なほど静かだ。人ひとりが欠けてしまったせいか、それとも私こそが世界から欠けているのだろうか。わからない。さっきまでうるさかったはずのひぐらしの声も聞こえない。額から嫌な汗がずっと流れ続けている。

たくさんの無意味な〝もしも〟が頭に浮かんでは消えた。もしももっと強い術師がふたりの任務に同行していたら。もしも呪霊の等級を見誤っていなければ。もしも戦わずに逃げていたら。もしも――もしも私が、一級呪霊も祓えるくらいに強かったら。そうだったらよかった。そうだったら、どんなによかったか。

ポケットの中で携帯が震えた。のろのろと取り出してみると、顔見知りの補助監督の名前が表示されている。任務の呼び出しだろう。誰かが欠けても私の日常はずっと回り続ける。呪術師には友達の死を悼む暇すら与えられない。そういう世界に身を置いている。わかってる、全部わかってるつもりだった。それでも、いつだって私は後悔してばかりだ。

「……きもち、わるい」

頭がくらくらして目が回るのも、暑さのせいにしたかった。

痛いほど思い知らされる。私たちはただの人間なのだということ。失ったものは蘇らず、命は二度と戻らないのだということ。そんな当たり前のことを、いつも暗く薄い膜の向こう側に押し隠して私たちは生きている。見ないように、考えないように、足が竦んで立ち止まってしまわないように。

「……五条先輩……」

会いたかった。あの大きな体で、熱い体温でいっぱいに抱きしめてほしかった。いつかの夕暮れの中で見た血溜まりの赤い色を拭い去ってほしかった。それがとんでもない我儘だということも、全部、わかっている。

祈るように組んだ手の中で携帯が震え続ける。眦に滲んだ涙を拭い、ベンチを立った。
ゆらゆらと立ち昇る蜃気楼はまるで悪夢みたいだ。ついこの間まで宝物のように眩しく輝いていた夏が歪んで、崩れていく。

 

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