54

待ち合わせた駅前から会場の公園まで続く大通りが、今日はずっと歩行者天国になっている。夜の底を這うような人々の波に乗り、私たちもゆっくりと通りを進んだ。
左右に連なる露店の白熱灯が浩々とした光と熱を放っている。その中のひとつで、五条先輩はりんご飴を買ってくれた。「今年はなくすなよ」と手渡されたそれが去年より鮮やかな色に見えるのは、この人の隣にいるからだろうか。店を離れるとき当たり前のようにもう一度繋がる手が照れくさくて、愛しかった。

不思議だ。こんなにも、星の数ほどたくさんの人がいるのに、その中の誰にもこんな風に触れられたくないと思うのはどうしてなんだろう。私にとってこの人だけがただひとり特別で、手を繋いで歩くのはいつだってこの人だけがいい。五条先輩にも、同じように思っていてほしい。

「ナマエ、こっち」

しばらく大通りを歩いていくと、とある場所で先輩が私の手を強く引いた。そのまま露店と露店の間を潜り抜け、細い路地へ入っていく。

「え、先輩、でも会場あっち」
「いーから」

五条先輩の歩幅に合わせて私はほとんど小走りになっていた。路地の奥へ奥へと進むうち、周りに渦巻いていた喧噪も熱気も遠のいて、カラコロと鳴る私の下駄の音だけがアスファルトに響き渡る。

角を幾度か曲がり、コンビニの駐車場を横切り、いくらか開けた場所に出たところで、五条先輩はふと足を止めた。その視線の先を追っていけば、明かりひとつついていない背の高いビルがある。真新しいように見えるのに人の気配はなく、埃をかぶって忘れ去られた置物みたいにひっそりと暗がりに沈んでいる。

「ここは……?」
「何の変哲もないオフィスビル。ただし絶賛建設中」
「え?」
「ここの屋上、よく見えると思うんだよな」
「え……ちょっ、先輩!?」

途端、ふわりと体が浮いた。私を肩に担いで五条先輩は軽々と、そして何の躊躇いもなく『建設中』と書かれた黄色と黒の柵を飛び越える。

「ふ、不法侵入ですよ!?」
「いーんだよ、どうせ工事も頓挫してずっと放置されてるようなビルだし」
「そういう問題じゃ……っ」
「飴、落とすなよ」

てっきりそこで地面に下ろされるものと思っていたのに、「え」と声を発した次の瞬間には私は先輩に担がれたままで見知らぬ場所にいた。空がずいぶんと近い。すとんと足をついた先は土ではなくコンクリートで、ようやくここがさっき見上げていたビルの屋上だということに気がついた。

「え、な、なんで?」
「なんでだろうなー」

あ、この人、全然説明する気ない。不法侵入など意にも介さず、先輩はさっさと屋上を囲うフェンスに近寄って行って私を手招く。周りには他に背の高い建物もないから余計に空が広く見えた。確かにここからなら花火の上がる公園が一望できて、これ以上ないベストスポットだ。

「こういう場所って呪霊が湧くのでは……」
「あー、さっき来て全部祓った」
「え」
「ついでにベッタリ残穢つけてきたし、しばらくはなんも近寄んねーだろ」
「そんな虫除けみたいな効果もあるんです……?」
「言い方」
「す、すみません」

さっきって、わざわざそのためにここへ立ち寄ってくれていたということだろうか。先輩もふたりきりで花火を見たかったとか? ……まさか。期待しすぎだ。

先輩に並んでフェンス際に立つ。地上よりいくらか涼しい風が汗ばんだ首筋を吹き抜けた。ちらと隣を盗み見れば、五条先輩はぼんやりと空を見上げていた。今日という日の残り火みたいな夕焼けの光を溶かし、白い髪が燃えるように輝いている。雲ひとつなく晴れた空よりも、遠くに瞬く一番星よりもずっと、綺麗だと思った。

「五条、先輩」
「……何」
「……あの。か、」

かっこいい、って、言ったら本当に喜んでくれるのかな。でもこのタイミングで言うのってやっぱり変だろうか。もっと自然に、さり気なく言えたら。ぐるぐると考えているうち、言葉は喉の奥でつかえてしまった。夏油先輩には素直に言えたのに。サングラス越しにもわかる澄んだ青にまっすぐ見つめられると途端に恥ずかしくなって、私は結局うまく喋れず俯いた。

『間もなく、納涼花火大会を開始します――』

風に乗って、どこからかアナウンスが聞こえてくる。公園の芝生を埋める人の波がわっと湧き立って空を見上げるのがわかった。
意味もなく、指先でフェンスをなぞる。何度か繰り返されたアナウンスが空気に溶けて消えてしまうと、今度は五条先輩が口を開いた。

「……お前、今年の夏休みはどうすんの」
「え、あ……また京都、行きます」
「は?」
「今年は昇級査定も兼ねてるので、その……がんばってきます」
「……聞いてねーんだけど」
「……先輩、忙しそうだったからタイミングがなくて」

言い訳だ。タイミングを見失ったふりをして、ちゃんと話すのを避けていただけ。「京都って」と五条先輩がぼそっと呟く。

「……アイツいるじゃん」
「あいつ……?」
「お前のこと好きとか言ってた変なヤツ」
「へ、へん」

それじゃあ、自分はどうなんだ。ぱっと隣を見上げると、五条先輩もこちらを見ていたのですぐに目が合ってしまう。

――先輩は私のこと、まだ、好きですか?
そんな風に、まっすぐ訊けたらどんなにいいだろう。キスもろくにできないような子供っぽい私だけれど、それでも先輩の彼女でいさせてくれますか? 呆れずにまた隣を歩いてくれますか? 確かめたいのにやっぱり言葉が出てこない。見つめ合っていたら不意に泣きたくなってきて、私はまた目を伏せた。

「……その人とはもう連絡取ってないです」
「……」
「せ、先輩には、関係ないかもですけど」

だって、私のこと好きな人は変なんですよね――舌先まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。ちがう、こんなこと言いたいんじゃない。先輩を困らせたいわけじゃない。どうして私、こんな嫌な子になってしまったんだろう。静けさを埋めるために齧ったりんご飴の味はぼやけてよくわからなかった。早く花火、上がってくれればいいのに。

「……あー、いや、違う。いまのナシ」
「……え?」
「ちょっと後ろ向いて」

ぐいと肩を押され、後ろを向かされる。なんだろう、帯でも緩んでいただろうか。あんなにきつく結んだのにな、と今朝の自分を思い出す。
がんばらなくちゃ、ちゃんとしなくちゃ、そう思うほどにうまくいかなくなる。夏油先輩は『そのままでいい』って言ってくれたけれど、どうしたって私は五条先輩の隣に似合う女の子とはほど遠い気がした。いくら背伸びをしても、届かない。

「……五条先輩、あの、」

なんでもいいから、謝らないと。そう思って口を開いたとき、首元に柔らかな冷たさが触れた。

「――悪かった」

ぽつりと、上から声が降ってくる。

「……あー、無理やりキスしたりとか、もうしないから。お前が嫌がることはしないように、……気をつける。できるだけ」

普段の声の半分くらいのボリュームで、拗ねたような声で、先輩は続けた。
胸元にそっと手を当てる。青く小さな宝石がきらきらと、華奢なチェーンの先できらめいていた。

「……だから、そろそろ機嫌直せよ」

機嫌、って。
振り返れば、私の胸で光る宝石と同じ色の瞳を居心地悪そうに細めて、五条先輩はじっと私を見ていた。サングラス越しなのに、その青に一瞬、吸い込まれそうになる。

「……あの、わ、私、別に怒ってないです」
「は? だってあのとき『やだ』っつっただろ」
「それは! ちょっとびっくりして言っちゃっただけで、ほんとに嫌だったわけじゃ……」
「……何それ」

人がせっかく、と五条先輩が小さく零したとき、向こうの空でドン、と大きな音がして、白い火花が弾けた。一瞬だけ照らし出された先輩の耳の先はほんのり赤い。……たぶん、私の顔も。

『してほしいことも、してほしくないこともちゃんと言う』

そうか。言葉にしなくちゃ、伝わらないんだ。私が五条先輩にそう望んだように、五条先輩が私にそうしてくれたように、恥ずかしくても、怖くても。

「――さとる、先輩」

黒い制服の裾に手を伸ばす。おずおずと引けば、先輩はこちらを覗き込むように身を屈めた。めいっぱいに背伸びして、その唇にキスをする。目をつむっていたせいでたぶん下唇にしか触れられなかったし、おでこがサングラスに当たった気がする。それでも、これがいまの私にできる、精一杯の。

「……仲直り、してくれますか……?」

丸くなった瞳が何度か瞬き、それからやわく細められる。ずれてしまったサングラスを外す仕草がスローモーションみたいに見えた。少し汗ばんだ手が私の輪郭をなぞって、そっと頬を覆う。絶え間なく上がる花火の音。風に乗って届く煙とどこかの海の匂い。闇を追いやるほどのまばゆい色彩が夜空いっぱいにばら撒かれ、しろがねの髪を鮮やかに染め上げている。

「……ヘタクソ。こうだよ」

そうして重なった唇はお祭りに浮かされた空気よりもずっと熱くて、とろけるように優しくて、微かにりんごの味がした。

夢のように美しい、真夏の夜のことだった。

 

 

>> 55

 


♪打上花火/DAOKO×米津玄師
次からたぶん玉折のあたりに入ります。もうしばらくお付き合いください。