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「ナマエちゃーん、着付けできた?」
「はあい」

コツン、という軽いノックの音に答えると、間延びした私の返事が終わらないうちにドアが開いた。いつも通りに眠たそうな目をした硝子さんが、ヘアアイロンとブラシを手に顔を覗かせる。

「ヘアメイクにまいりましたよーっと」
「よろしくお願いします」
「はい座って座って」

促され、私は勉強机の前の椅子にごく浅く腰掛けた。ふっくらと結んだ帯が背もたれに当たらないよう背筋を伸ばす。硝子さんは折り畳みの鏡を机の上に広げると、後ろに回り込んで私の髪に触れた。

今日は五条先輩と約束した花火大会の日だ。朝のうちにねじ込まれた任務を超特急で片づけ、高専に戻ってきて浴衣を着たら、あっという間に日が傾いていた。昼のぎらぎらした太陽の名残が西から差し込み、部屋を眩しく染めている。鏡越し、うっすら化粧を施した自分の頬がやけに赤く見え、こっそり手のひらで拭った。

「髪、だいぶ伸びたねえ」
「そうですね。もう半年くらい経つので」
「今日はどんな感じにしちゃいます~?」
「……お、大人っぽい感じで」
「セクシー系ね、了解了解」

セクシー系、ってなんだろう。
硝子さんはヘアアイロンを手に、丁寧な仕草で私の髪を梳かしていく。どうやらハーフアップにしてくれるらしい。ようやく肩のあたりまで伸びた自分の毛先を鏡の中でじっと見つめた。

「五条と出かけるのにまだ緊張してるの?」
「えっ」
「わかりやす」

軽快に笑う硝子さんに私は反論できなかった。
浴衣に袖を通して、お化粧をして、髪を綺麗にしてもらって、そうやって準備が整っていくにつれ、私の中では得体の知れない緊張がどんどん膨らんでいった。五条先輩とはあれからもずっと微妙な距離感の中をさまよっている。お互いに任務が忙しく、電波の通らない場所にいることも多いので、メールは一日に一往復やり取りすればいいほうだし、ちゃんとした会話だってまだできていない。つまりは平行線である。

「五条に何かされた?」
「……されたというか、なんというか……いや元はと言えば私が慣れてないせいで……」
「……あー、だいたい想像ついた。はい、ちょっと下向いて」

ぐ、と顎を下げる。紺地の浴衣の膝の上で所在なく拳を握った。クリーニングから返ってきたままクローゼットにしまっていた桔梗柄を目にするのも一年ぶりだ。……今日の私は、去年よりこの浴衣が似合う女の子になれただろうか。

「……硝子さん」
「んー?」
「ご、五条先輩って、どんな女の子が好きだと思いますか?」
「は?」

硝子さんの手が急にぐいっと髪を引っ張ったので、思わず「痛い」と声を上げてしまった。「ああごめん」と謝る声にはあまり感情がこもっていない。

「……一応確認するけど、あんたら付き合ってるんだよね?」
「そうですけど……五条先輩、私のどこがいいとか、あんまり教えてくれないから……」
「あー……」
「……お部屋にはグラビアのポスター貼ってるし」
「ふうん」

硝子さんは、今度は堪えきれないというように小さく噴き出した。笑い事じゃない。鏡越しに唇を尖らせて硝子さんを見やる。我ながら幼すぎて恥ずかしくなったのですぐにやめた。

「そういう顔もするようになったんだね、五条に対して」
「どういう顔ですか」
「拗ねて妬いてる顔」

なんだかそれって、本当にただの子供の我儘みたいだ。
このままじゃだめだとわかってる。けれど、どう変わっていけばいいのかがわからない。こんな風に悩んでいるのは私だけなのかと思うと心細さや焦りばかりが募って、余計にうまく振る舞えなくなっていく。

「ナマエちゃんはさあ、五条のこと買い被りすぎなんだよ」

硝子さんの手によって、私の真っ黒な髪はあっという間に綺麗に結い上げられていた。これで少しは見栄えがよくなるはずだ。……少しでも、可愛いって思ってもらえたらいいけど。

「ナマエちゃんの前ではカッコつけてるかもしれないけどさ、結局はあいつだって男なんだから、ふたりきりのときなんかどうせ頭ん中エロいことでいっぱいだよ」
「えろ……っ!?」

しゅうしゅうと頭上からヘアスプレーが降ってきて、私は盛大にむせた。
言葉の意味もよくわからないまま、勝手に頬が熱くなる。五条先輩が私にそういう気持ちを抱くなんて、そんなことありえるんだろうか。それこそあのポスターの女の人みたいにスタイルがよければまだしも、数か月前まで『ガキ』なんて言われていたのに。

「言いたいことがあるなら全部はっきり言ってやりな。ナマエちゃんは遠慮しすぎ」
「そんなことは」
「してほしいことも、してほしくないこともちゃんと言う。五条だってさすがに彼女のお願いくらいは聞き分けるでしょ」
「かのじょ……」

花を模した髪飾りが耳の上でしゃらしゃらと揺れる。硝子さんは鏡越しに私を見て、満足げに微笑んだ。

「はい。いってらっしゃい」

 

『任務長引いて、ちょっと遅れる』

五条先輩からのメールに気がついたのは、待ち合わせの駅に電車が到着してすぐのことだった。

人の流れに乗って電車を降り、改札を抜ける。途端に夏の夜の熱気が頬を撫でた。会場周辺は混雑するからとわざわざ少し遠い駅にしたのに、ここもたくさんの人でごった返している。人混みを掻き分けて進み、広場の隅にひとつだけ空いていたベンチに腰を下ろした。浴衣の背中を汗が一粒、伝い落ちていく。

(先輩、やっぱり忙しいんだなあ……)

了解です、と返した携帯を手に、私はほとんど日の暮れた空を見上げた。西の端にほんのりと残った橙色を塗り潰すように、東から濃紺が迫っている。雲ひとつない晴天で、きっと花火がよく映えるだろうな、と想像を巡らせた。

(……今日こそは、ちゃんと)

高専を出てここへ来るまでの間、心に決めたことをもう一度確かめるように、膝の上でぎゅっと手を握る。
今日は、今日こそはちゃんと、顔を見て話そう。せっかく時間を取ってくれて、久しぶりにふたりで出かけられるんだから。

今朝からずっと、私は去年の夏の花火大会のことを思い出していた。まさか一年後に五条先輩とこんな風になっているなんて考えもしなかった頃のこと。
あのときはただ先輩のそばにいられればそれでいいと思っていたはずが、いつの間にか私はずいぶんと欲張りになってしまった。大好きで、もっと近づきたくて、なのに近づけば近づくほど、拙い自分を暴かれてしまうことがどんどん怖くなる。いつか魔法が解けるみたいに、先輩の気持ちが離れていってしまったら。そんな想像をして勝手に悲しくなるくらい、私はまだ、五条先輩にずっと恋をしている。

「こんばんはー」

不意に頭上から声が聞こえ、ぼんやりしていた私ははっと顔を上げた。
そこに立っていたのは五条先輩ではなく、見知らぬ男の人だった。大学生、だろうか。髪を茶色く染めて、耳には派手なピアスがいくつもついている。よく渋谷とかにいる感じの若い人だった。
知り合いだっただろうかと一瞬、記憶を辿ってみる。けれど、数少ない友人知人の中にこういうタイプはいなかったはずだと早々に結論が出た。いたら絶対に覚えている。

「……え、あ、こんばんは……?」
「君、高校生? ひとり? 誰か待ってるの?」

当たり障りなく返事をしてみると、彼は人懐っこそうな顔でにっこり笑った。やっぱり知らない人だ。何かに困って話しかけてきたというわけでもなさそう。と、なると。

「は、はあ」
「浴衣着てるってことは、花火大会行くんでしょ?」
「そうですけど……」
「じゃあ俺らと一緒にどう?」

ふと見れば、彼の後ろには似た感じの男の人がさらに二人立っている。
〝ナンパ〟〝勧誘〟〝キャッチセールス〟……いくつかの単語が脳裏をよぎった。どれにしても、ついていくわけにはいかない。手元の携帯をちらっと見やる。五条先輩からの連絡はまだ来ていなかった。

「あの、人と待ち合わせてるので、すみません」
「人って友達?」
「いえ……か、彼氏です」

慣れない単語を発したせいで声が裏返りそうになった。五条先輩のことを示す単語として使うのにはまだ違和感があって、口に出した途端に恥ずかしくなる。けれどこれできっと諦めてくれるだろう。彼の目的がナンパ以外の何かだったとしても、これから男の人が来るとわかれば無理に誘うことはしないはずだ。

「ふーん。でもさっきからずっとここで待ってるみたいじゃん、カレシ遅刻?」

そう思ったのに、相手の男の人はなぜだか私に向かってさらに一歩踏み出した。上から顔を覗き込むように近づかれ、思わず上半身を仰け反らせる。微かにお酒の匂いがした。

「遅刻……というか、仕事で」
「仕事? あー、年上な感じ?」
「はあ、まあ……」
「でもまだ来ないみたいだしさ、遊びに行っちゃわない?」

は、と間抜けな声が漏れた。ぽかんとして見上げる私に彼は「あとで合流すればいいじゃん」とか「花火始まっちゃうよ」とか「かき氷おごってあげる」とか、いろんな口実をつらつらと並べ立てる。口を挟む暇もない。

そうしている間にも広場にはどんどん人が増え、みんな花火大会を目指して足早に歩いていく。その中に白い頭を探してみたけれど、どこにも見当たらなかった。

「っていうかさー」

おもむろに彼がこちらへ手を伸ばした。だらしなく爪の伸びた指先が、私の手首に触れようとする。避けようにも、ベンチに座ったままでは後退ることもできない。

「こんな可愛い彼女のことひとりで待たせるようなヤツほっといて、俺らと花火見ようよ」
「……は?」
「ソイツより俺らのほうが楽しませてあげるからさ」

ね、と笑いかける彼のにやついた声を聞いたとき、ふっと自分の中で何かが湧き上がるのを感じた。
頭が一瞬で熱くなって、でもお腹の底はしんと深くまで冷えていく。考えるより早く、私はその手を思いきり振り払っていた。

「触らないで」

自分でも驚くくらいの低い声音だった。呆けたように口を開けている彼の目をまっすぐ見つめる。
なんだろう、こんな気持ち、初めてだ。ただただこの人に触れられたくないと思った。何か、私の中の大切なものを汚されるような気がして。

「あなたたちとは行きません。他を当たってください」
「……んだよ、せっかく誘ってやってんのに」

私が頑として動かないとわかると、彼は途端に不快そうに顔を顰めた。さっきまでのにこやかな雰囲気はすっかり霧散し、代わりに遠慮のない舌打ちを残すと「他行こうぜ」と仲間たちに声をかけて立ち去っていく。

その後ろ姿の向こうに、背の高い白髪のその人が立っていた。

「……なんだ、ちゃんと断れんじゃん」

ゆっくりと、五条先輩が近づいてきて、私の目の前で立ち止まる。久しぶりに近くから見上げた瞳は、暑い夏の夜だというのに静かな水底みたいに美しく澄んでいた。

「五条先輩……」
「お前もあんな顔することあるんだな」

先輩が私の手首をそっと掴んで引き上げる。瞳の静けさと裏腹、燃えるようなその温度に、くらくらする。

「……どんな顔ですか?」
「すげーコワイ顔」

少し笑って、先輩はあやすように優しく私の頭を撫でた。たったそれだけで荒波の立った心が嘘みたいに凪いでいく。……ああそっか、私、怒ってたんだ。

「……行くか」

手首からするりと滑り降りた手のひらが私の手を捕まえる。そうして指と指を絡め、ぎゅっときつく握った。

 

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