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「——すまない。私の警戒が甘かった」

ベッドの上で体を起こした私を見下ろして、夏油先輩は押し殺すように呟いた。
任務先の村落の、とある空き家の一室だった。私の頭にはぐるぐると大袈裟なほどに包帯が巻かれている。

「いえ、私が油断してたのが悪いんです。先輩のせいじゃないです」
「だが」
「それに、大した怪我じゃないですから!」

ぽん、と頭を軽く打ってみせると、夏油先輩は「触らないほうがいい」と顔を歪めた。私よりよっぽど痛そうな顔をしていた。

呪霊の祓いを終えて、祠の封印の作業をしていたときだった。不意に背後から呪力を感じ、次の瞬間には私は吹き飛ばされて近くの石段に頭をぶつけていた。呪霊は二体いたのだ。咄嗟に呪具で攻撃を受け止めたので傷自体は浅く済んだけれど、私はしばらく意識を失って、目が覚めたときにはこの空き家のベッドの上だった。

私が眠っている間に、夏油先輩は迎えを呼んでくれたらしい。けれど夕方から突然降り出した雨と激しい雷の影響でこの村へ至る山道が封鎖されてしまったそうで、今日はこのままここへ泊まらざるをえなくなった。外はすでに真っ暗で、土砂降りの雨と雷鳴の音が聞こえる。確かに、この天候の中を移動するのは難しそうだ。

「悟に叱られてしまうな」
「ですねえ。また雑魚って言われちゃいます」
「怪我のことだけじゃなくて」
「なんです?」
「……いや、なんでもない。悟には私から説明しておくから」

わざわざ報告しなくても、と思ったけれど、夏油先輩がそう言うならしておいたほうがいいんだろう。

幸い、この家には最近まで人が住んでいたらしい。空き家といえども最低限の家具は残されていて、うっすらと埃が積もっている他は荒れた様子もなかった。ガスは止まっているが電気と水道はまだ使える。浴室でシャワー代わりに濡らしたタオルで体を拭いて戻ると、夏油先輩は色褪せた籐椅子に腰掛けて携帯をいじっていた。

「……夏油先輩。少し瘦せましたよね」

先輩はふと動きを止め、でもこちらを向くことはなく唇だけで薄く笑った。……やっぱり、頬のあたりがこけたような気がする。

「男前が上がった?」
「え、いえそういうことでは」
「正直だな」
「ちがくて! 先輩は元々かっこいいですし」
「はは。たまにそういうことをさらっと言うよね、君は」

……誤魔化されてしまった。でも、ただでさえ特級に上がって忙しいはずで、加えて今年は呪いの数が多いのだ、疲れていないわけがない。夏バテも重なっているのだろうか。村の人が差し入れてくれたおにぎりも、先輩は結局「食欲がないから」と言って頑なに口をつけなかった。

「そういうの、悟にもちゃんと言ってあげな。きっと喜ぶ」

メールを打ち終えたらしい夏油先輩が立ち上がり、「包帯替えるよ」と言って私の頭に触れた。そうっと、壊れ物を扱うように優しい仕草で白布が解かれていく。

「わ、私に言われて嬉しいでしょうか……」
「そりゃ嬉しいだろう、好きな子に言われたら」

好きな子、という言葉でにわかに頬が熱くなる。

五条先輩は、いまでもまだ変わらず私を好きでいてくれているんだろうか。この前だって逃げてしまったし、彼女らしいことなんて何もできないのに。

「……私、誰かとお付き合いするのって初めてで。どうしたら相手に喜んでもらえるとか、何をしたら好きでいてもらえるとか、全然わからないんです」

ふと、五条先輩の部屋にあったグラビアアイドルのポスターを思い出してしまう。たとえばあんな風に魅力的な女の人だったら。そしたら、もっと自信を持って五条先輩の隣にいられるのかな。付き合う前も、付き合ってからも、私は結局ずっと同じようなことばっかり考えている。なんだかまだ片想いしているみたいだ。

「ナマエはそのままでいいと思うよ」
「でも私、子供っぽいですし……すぐ動揺しちゃうし……」
「そういう素直なところが悟は好きなんじゃないかな」
「……そんなことありますかね」
「あるよ」

きっぱりと言われた。夏油先輩も灰原も、どうしてそんなに自信たっぷりなんだろう。当の私には全然わからないのに。

「ナマエは、そのままでいいんだよ」

額から後頭部へ、そしてまた額へ、新しい包帯がぐるりと巻かれていく。きつくない? と訊かれて小さく頷いた。穏やかな声に少しずつ眠たくなってくる。五条先輩とは違った風に夏油先輩もまた優しい。ほしい言葉をほしいときに惜しみなく与えてくれる。

「五条先輩も、夏油先輩みたいにわかりやすく言ってくれたらいいのになあ」
「そんなこと言ってると悟が妬くよ?」
「五条先輩は妬いたりしませんよ。いつも余裕なんですもん」
「……それに、口ではこんなことを言っていても、私は悟よりよっぽどひどいことを君にするかもしれない」
「え、夏油先輩はそんなことしないです」

ぱっと視線を上げる。ちょうど包帯を巻き終えた夏油先輩と目が合った。うっすら隈の浮いた目元がぱちりと瞬いて、すぐに困ったみたいに目尻が下がっていく。

「……悪い男に引っかかっちゃいけないよ」

どういう意味だろう。尋ねる暇もなく「はいおしまい」と切り上げられ、続きを聞くことはできなかった。夏油先輩が救急箱を棚へ戻しにいくのをなんとなく目で追っていると、部屋の隅に置かれた自分の鞄が視界に入る。……あ、そうだ。

「夏油先輩。これ」

ベッドを滑り降り、鞄からプラスチックの袋を取り出した。往路で食べないでおいてよかった。夏油先輩はきょとんと目を丸くして私を見つめている。ご飯の代わりにはならないかもしれないけど、何も食べないよりはましだろう。

「すみません、こんなのしかなくて……。でもやっぱり何か食べないと体に悪いです」
「……ありがとう」

夏油先輩はひどくゆっくりとした動作で、私が差し出したビスケットの袋を受け取った。たったそれだけのことなのに、私はなんだかほっとしてしまう。いつだったか五条先輩には「遠足じゃねーんだぞ」なんて呆れられたけど、私の食い意地もたまには役に立つものだ。

「……心配だなあ」
「え?」
「なんでもないよ」

羽で触れるようにそっと頭を撫でられる。今日はうまく聞き取れないことばかりだ。

夏油先輩はきっと、私よりうんとたくさんのことをいつも考え続けているんだろうと思う。けれど声に出してくれるのはその中のほんの一滴でしかなくて、そして私にはまだそれすらちゃんと受け取るだけの力がないのだ。

いつか、理解できるようになれるだろうか。誤魔化さずに話してくれる日が来るだろうか。そうだったら、いい。

「私は向こうの和室で寝るよ。布団も貸してもらえたし」
「あ、はい……すみません、ベッド使っちゃって。エアコンもこの部屋にしかないのに」
「今夜は雨で涼しいから問題ないさ。それに、さすがに友達の彼女と同じ部屋では眠れないからね」

別に私は気にしないのになあ。五条先輩だってきっと、夏油先輩なら何も心配しないのに。そう思うけれど、夏油先輩にこれ以上いらぬ気を遣わせるのも申し訳ないので、素直にベッドで寝させてもらうことにした。

オレンジ色の小さな電球の下、薄い布団に潜り込む。埃と、知らない人の家の匂いがした。

(……五条先輩。いま、どこにいるのかなあ)

ちゃんとご飯、食べているだろうか。ちゃんと寝て、元気でいるだだろうか。

『いま何してますか』――メールの画面に打ち込んで、でも結局送信ボタンは押せなくて、そのまま携帯を閉じて私は眠りについた。

 

「後で硝子にもちゃんと診てもらうんだよ」

寮の談話室のソファに私の荷物を下ろしながら、夏油先輩が言った。
昨晩の雷雨は夜明け前にすっかり止み、今日は朝から蒸し蒸しと暑い日になっている。私たちは無事に迎えの車と合流して、昼過ぎにはこうして高専へ帰り着くことができた。

「はい。ご迷惑をおかけしました……」
「いや、元はと言えば私のミスだ。大事に至らなくてよかったよ」

頭の傷は、一晩寝て起きたらだいぶ痛みが和らいでいた。それでも頭部の怪我は何があるかわからないからと補助監督さんに言われ、途中で病院に寄ってもらって検査も受けてきた。あとは硝子さんに治療してもらえば大丈夫だろう。いつもお世話になりっぱなしで本当に頭が上がらない。荷物を整理して着替えたら医務室へ行ってこよう。

「それじゃあ私はこれからまた別任務だから、これで」
「……えっ?」

ぱっと振り返る。持ち上げかけた鞄が再び手を離れ、ソファの上に転がった。
夏油先輩はすでに談話室を出て行こうとしていた。え、これからまた任務? だって、まだ座ってすらいないのに。

「戻ってきたばかりじゃないですか」
「本当は昨日帰る予定だったからね」
「でも、」

少しくらい休まないと、と言いかけて、私は口を開けたまま固まってしまった。
夏油先輩の肩越し、ちょうどこちらへ歩み寄ってくる白髪が見えた。「あ、悟」夏油先輩がひらりと片手を上げる。丸いサングラスの向こうの睫毛が持ち上がり、私を捉えて――。

「……ナマエ。何してるんだい?」
「……、……」

その瞬間、本当に咄嗟に、私は夏油先輩の背中に身を隠していた。
心臓が狂ったようにうるさく鳴っている。こんなことしたって意味ない、わかっているけれど、五条先輩の顔をまっすぐに見られなかった。

――だって、急に思い出してしまった。あの日、あの夜の、キスのこと。そうしたら燃えるように体が熱を帯びて、どうしたらいいのかわからなくなった。

五条先輩が大股で近づいてくる気配がする。思わず私は夏油先輩の制服をきつく握りしめた。
だめだ。言わなきゃいけないことはたくさんあるのに、全部、喉につかえてうまく喋れそうにない。

「……悟。昨日メールした通りだけど、今朝病院にも寄って検査は済ませた。外傷だけで、脳への影響はないそうだ」
「あー、うん」
「わかってると思うが、怪我人なんだからくれぐれも、」

ふ、と頭上が暗くなる。耐えきれなくなって恐る恐る顔を上げれば、すぐに青い瞳と視線がかち合った。

「……」
「……」
「……お前さあ」
「……」
「メールくらいよこせよ」
「……、……」
「……心配すんだろ」

溜息混じりの声が、じわりと胸に沁みる。

(……しん、ぱい)

先輩のポケットから白い手がゆっくりと引き抜かれ、包帯の巻かれた私の頭へと伸びてくる。長い指は寸前で一瞬だけ躊躇って、それからひどく優しく私に触れた。

「――痛い?」

久しぶりに聞く五条先輩の声。体温。皮膚の感じ。
全部、好きだと思う。もっと触れてほしいと思うし、抱きしめられたいと思うし、……キス、だって、したいと、思う。心配かけてごめんない。逃げてごめんなさい。会いたかった。寂しかった。いろんな気持ちが頭の中に溢れるけれど、どれかひとつを伝えようとするとどうにも言葉が出てこなくて、私はただただ深く俯いた。

「……だ、だい、じょうぶ、です。もう」
「……そ」

先輩の手が離れてほっと息を吐いたと同時に、今度は胸元へくしゃりと何かが押しつけられた。慌てて手に取ったそれはどうやら何かのチラシのようだ。濃紺の背景に、カラフルな火花の散る様子がイラストで描かれている。『納涼花火大会』という涼しげな文字が目に入った。

「これ、」
「予定空けとけよ」
「えっ」

言われて、再びチラシに視線を落とせば、二週間後の日曜日の日付が印字されている。私の返事も待たず、五条先輩はさっさと踵を返してしまった。夏油先輩がその背中に声をかける。

「念のためだけど、ゆうべは何もなかったよ」
「わーかってるっての」
「疑わないのか?」
「あるわけねーだろ、お前に限って」

夏油先輩の体がゆらりと動く。見上げると、あの困ったみたいな顔で先輩は小さく笑った。

「……本当に、君らってやつは」

 

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