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「五条さんと喧嘩でもしたの?」

ぱきん。
力を込めすぎたせいでシャープペンの芯の先が折れた。勢いよく跳ねた黒い粒は向かいに座る灰原のノートの上へと飛んで行き、そこでもう一度ジャンプしてどこかへ行ってしまった。

ぱっと顔を上げる。焦茶色の大きな瞳が不思議そうに瞬きをしながら私を見ていた。

「うん? どうしたのナマエ」
「え、う、あの、なんで喧嘩って……?」
「だって最近あんまり一緒にいないからさ。違った?」

おかしいな、と首を傾げる仕草は子犬みたいに無邪気だ。この人は時に、他人が口に出すのを憚るようなことをド直球で訊いてくる。現にその隣にいる七海はげんなりとした顔で眉間を押さえていた。

七月も終盤を迎えていよいよ夏は勢いを増し、窓の外では連日茹だるような暑さが続いている。こうして三人寄って机に向かっているだけでもじっとり汗が滲むくらいだった。談話室のエアコンは型が古くて、うぃんうぃんとうるさく鳴く割に吹き出してくる風は生ぬるい。

「前はよく食堂で一緒にご飯食べたり、ここでも勉強見てもらったりしてただろ。ねえ七海」
「……灰原。あまり首を突っ込まないほうが」
「えー、なんで?」

意外と見られてるんだなあ。私は溜息と共にシャーペンを放り出し、代わりにジュースのペットボトルの蓋をひねった。もともと集中が切れかかっていたところにこの話題を振られてはもう課題どころではない。しゅわ、と炭酸の弾ける音とともに柑橘の香りが溢れ出し、私はそれに紛れてもうひとつ息を吐いた。

「……別に喧嘩じゃないよ。五条先輩、忙しいから」
「そっか~。特級は大変だなあ」

嘘ではなかった。灰原の言うとおり、特級は忙しい。五条先輩も夏油先輩も梅雨以降ずっと出ずっぱりで、ここのところ姿を見かけることも少なくなった。五条先輩なんか、この前は地球の反対側にまで引っ張り出されていたし。
海外出張はレアケースにしても、今年は去年に比べてずいぶんと呪いの数が多いらしい。私たち二年生ですら、こうして三人揃うのは久しぶりだった。

「っていうかさー」

私がジュースを飲むのにつられたらしい灰原が、しばらく前から止まっていたシャーペンを同じように投げ出した。真面目に課題を続けているのは七海だけだ。たぶんこの話に心底興味がないんだろう。

「ナマエ、いつだったか『五条先輩と付き合うなんてありえない~』とか言ってたのに、結局付き合ってるよね」
「それは……自分でもびっくりしてるけど……」
「ま、僕はそのうちこうなるってわかってたけどね!」
「えっ、そうなの? なんで?」
「だって五条さん、ナマエのこと特別大事にしてたもん」

あんまり当然のことのように灰原が言うから、私は危うくジュースを変な風に飲み込みかけた。ぎゅ、と喉が狭くなって炭酸が鼻の奥を刺激する。

「そ、そう……?」
「そうだよ」
「そんなことないと思うけど……」
「僕が言うんだから間違いない」
「なにその変な自信」
「あはは」

灰原は屈託なく笑い、ぬるそうなコーラを一気に飲み干す。私はなんとなく気まずくてそれ以上は訊けず、窓の外を眺めるふりをして顔を背けた。雲ひとつなく晴れ上がった空が眩しい。

確かに五条先輩は、付き合う前から優しかった。だけど彼にしてみればそれは『特別大事にしてた』というより『特別たくさん面倒を見てやってた』というほうが、きっと正しいんじゃないかと思う。

いつだって優しくて強くて眩しくて、憧れの人。そんな先輩が私の何をいつ好きになってくれたのか、〝彼女〟という名前を許されたいまも、私はまだよくわかっていないのだった。
五条先輩にとって私は、手のかかる後輩という以外に、他の人と何が違うんだろう。硝子さんや、街で見かけるたくさんのきらきらした女の子たちじゃなくて、どうして私を選んでくれたんだろう。

そんなことをずっと考えて、でもそれらしい理由は結局見つかっていない。強いて言えば振られてからもしつこく想い続けていたことくらいだ。
だから自分だけが特別だなんて胸を張っていられるほどの余裕もないし、一緒にいるときだっていまだに緊張してしまう。ただただこれ以上舞い上がって空回りしないようにと精一杯で、呼び方ひとつ変えることさえできない。この前だって。

(……この前のあれも、キス、だったのかな)

五条先輩はさも当たり前のようにしていたけれど、私には何が何だかわからなくて、少し怖かった。
あの、呼吸すら奪われるような。息苦しくて、溺れてしまいそうで、だけど甘くて、溶けるような――、

「灰原。そろそろ」

ぱたん、とノートの閉じる音にはっとする。
青空から視線を戻すと、七海はすでに机の三分の一を綺麗に片付けて立ち上がろうとしていた。追いかけるように灰原も散らかったノート類をしまい始める。二人は今日、一緒の任務なのだ。

「もうこんな時間か。ナマエも今日は任務だっけ?」
「う、うん。夏油先輩と」
「いいなあ。僕、最近ほとんど夏油さんに会ってないよ」
「私も久しぶりだよ」
「今度お土産持っていきますって伝えといて!」
「ふふ、わかった」

気をつけて、と声をかけながら二人を見送る。灰原には「ちゃんと五条さんと仲直りしなよ!」なんて真面目な顔で言われてしまった。……だから、喧嘩じゃないんだってば。

 

いったん部屋に戻って荷物をまとめ、私は待ち合わせの十分前に寮を出た。五条先輩からもらった呪具を肩に担ぎながら、これを使う場面は今日もないかもしれないな、とぼんやり考える。

近頃、私の任務は戦闘を伴わないものが多くなった。
各地の結界の調査、点検、補修。呪物の封印や解呪。結界術とそこから派生する封印術には向き不向きがあって、等級の高い呪術師の中にもまったく扱えない人もいる。まだ学生とはいえそれらをこなせる私は、ありがたくもそこそこに重宝されつつあった。
高専と古い繋がりのある寺社仏閣への定期巡回にも随行することが増えている。将来的には私に単独で任せようという話も、先生方の間では出ているようだった。

反比例して、戦闘能力を求められる祓徐任務はどんどん減り始めていた。特級の先輩たちは元より、同期の七海や灰原とさえ、実習を除いて同じ任務に当たることは少ない。自分の長所を認めてもらえることが嬉しい半面、呪術師の本懐である呪霊討伐で役に立てないことには歯がゆさを感じてしまう。

(あ。夏油先輩、もう来てる)

集合場所の車寄せに近づくと、そこにはすでに夏油先輩の姿があった。

「夏油先輩、お疲れ様です」

俯きがちに迎えを待つ横顔に声を掛ける。そう離れてはいないのに、切れ長の目がこちらを向く様子はなかった。不思議に思って傾げた首筋を汗の球が伝い落ちる。辺りの木立いっぱいから、叫ぶように鳴き続ける蝉の声がわんわんと響いている。

「……夏油先輩?」

聞こえなかったのかな。そっと近づいて、隣に立つ。そこで初めて先輩はようやく私に気がついたというように顔を上げた。

「……ナマエ」
「大丈夫ですか? ぼんやりしてましたけど」

目が合うと、「すまない、日差しが眩しくて」と言って先輩は微笑んだ。その表情はいつも通りだ。……やっぱり、さっきは蝉の声がうるさくて聞こえなかったのかもしれない。

「今日はよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
「灰原が夏油先輩に会いたがってましたよ。今度お土産持っていきますって」
「本当? あとでメールしてみようかな」

短い会話を交わす間に迎えの車がやってきた。夏油先輩に続いて後部座席へ乗り込む。エアコンの冷えた空気が肌を包んで、急速に熱を奪っていく。ふるりと背筋が震えた。

今日の任務は、珍しく夏油先輩と二人だ。行き先は東京の外れの山奥にある小さな村落だった。その村の古い祠が心霊スポットとしてとあるオカルト雑誌に取り上げられ、夏休みの肝試しにと訪れた若者たちが何人も行方不明になっているらしい。元を辿れば地域の氏神を祀っていたのが、村の人口減少によって荒廃し、いまは手入れどころか村人さえ誰も祠には寄りつかないという。

神と名が付くだけで、呪いは力を増すと聞いたことがある。
かつては信じ敬われ、人々を守る存在であったはずなのに、時代が変われば今度は同じだけ恐れられ、災いと呼ばれる何かに転じてしまう。なんだかやるせない話だと思った。

「呪霊は私が祓うか、取り込む。ナマエはサポートと祠の封印を頼むよ」
「すみません。戦闘でもお役に立てたらいいんですけど……」
「わざわざ危険を冒すことはないさ」
「……そう、ですかね」

膝の上に乗せた呪具をそっと撫でる。

この夏、私は二度目の昇級審査を控えている。二級に上がれば単独での任務も許されるようになる。やっと一人前の呪術師になれる。少しでも、みんなに近づける。

「そういえば、悟とは仲良くやっている?」
「えっ!? わっ」

飛び上がった拍子に膝から呪具が落っこちて足元に転がった。慌てて拾おうとして、運転席のヘッドレストに後ろから額を強打しまう。「大丈夫ですか」と心配そうな補助監督さんになんともないと返事をして、私は意地悪く笑っている夏油先輩をじっとりと睨んだ。

「な、何ですか藪から棒に……!」
「もしかして、喧嘩でもしたのかな」
「……、……」
「その反応は図星だ」
「……喧嘩じゃないんですってば……」

頬にじわじわと熱が集まってくる。額をさするふりをして顔を隠した。
あんなのはたぶん、喧嘩って言わない。私は何も怒ってないし、傷つけられたわけでもない。ただ。

「……ただ、その。ちょっと、びっくり、することがあっただけで」

びっくりして、その後で急に恥ずかしくなって、逃げた。

あれ以来、たまに姿を見かけても気まずくて、まともに会話もできなくなってしまった。どうしたらいいかわからないのだ。彼氏なんか生まれて初めてだし、手を繋ぐのだってキスだっていつもいっぱいいっぱいで、うまくできている自信がない。
それに引き換え五条先輩は私よりずっと大人で、いつも余裕で。このままじゃ、いつか――。

「悟、明日は高専にいるみたいだよ」
「そ、そうですか……」
「きっとナマエに会いたがってる」
「……そうかなあ」

五条先輩が私に? 全然想像できない。

 

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