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※五条視点
※うっすらといかがわしい

 

 

久しぶりの海外出張で南米まで来ていた。
任務先の街はそこそこの田舎で、めぼしい観光スポットも面白みもないような辺鄙な場所だったが、いざ訪れてみるとなぜか観光客で賑わっていた。近くの採掘場から運ばれてくる天然石を使ったアクセサリーが人気らしい。目抜通りと呼ぶには些か質素な道路沿いには露店がいくつも並んでいた。

いつもなら、チラッと覗くかスルーするだけで終わる。けれど、今日に限っては足が止まった。きっとさっきまでナマエとメールをしていたせいだろう。日本はまだ夜明け前だろうに律儀にすぐ返事をしてくるから、ホテルを出る時間も予定より遅くなってしまった。

――そういや、付き合ってからもまともにプレゼントとかやったことなかったな。アイツの誕生日っていつだったっけ。去年なんもしなかったな。つーかアイツ、土産すら安い菓子類しか欲しがんねーんだよな。

(……こーゆーの、喜ぶのか?)

ディスプレイラックには華奢なチェーンがいくつも吊り下げられ、夜風に揺れている。
ナマエがアクセサリーをつけているところはほとんど見たことがない。だいたい女の趣味とかもよくわからない。けど。

(……何でも喜ぶんだろうな、アホみたいに)

ボロボロのストラップを後生大事に持ち続けているナマエの横顔を思い出す。
前々からわかっていたことだが、ナマエは欲というものを滅多に表に出さない。そもそもそれ自体が薄いのか、もしかしたら自分が何を欲しがっているのかを考えることすらずっとしてこなかったのしれなかった。だから、こんな風に出張続きで会えない日ばかりでも、“寂しい”とか“会いたい”だとか言ってくることもない。まあ言われたところでどうしようもないわけだが。

「……あーあ」

色とりどりある石の中で、自然と淡いブルーを選んでしまう自分に悪態をつきたくなる。
まさかミョウジナマエのことでこんなにも悩まされる日が来るとは。これじゃあ立場が逆だろ。

 

* * *

 

すっかり日も暮れたこんな時間にノコノコと男の部屋を訪ねてくるというのは、一体どういう了見なのだろう。
そう考えを巡らせたのはわずか数秒のことで、俺はすぐに思考を放棄した。真面目に分析したところで都合のいい答えなんか出るわけがない。だって相手は、ナマエなのだから。

「あの、五条先輩……どうしていっつもホラーなんです……?」
「……俺の精神を保つため」
「ええ……?」

毎日のように呪霊いっぱい見てるのに……? と怪訝と不満をないまぜにした顔をして、ナマエはベッドの上で丸くなるように膝を抱えた。
いつも着ているジャージとは違う、襟付きのシャツタイプの寝間着の上下は柔らかそうなガーゼ素材でできている。カラフルなスイーツ柄がプリントされたそれはどうやら硝子とオソロイで買ってきたとかで、いたく気に入っているようだった。
夏の走りの季節、まだ日に焼ける前の生白い首元や太腿が惜しげもなく眼前に晒されている。

「膝、これ掛けてろよ」
「え、大丈夫ですよ。お風呂上がりなのでぽかぽかで」
「……」
「先輩、寒いです? エアコン止めましょうか」

無言のまま、枕元に放ってあった自分のパーカーで強引にナマエの膝元を覆った。動いた拍子に、二人分の体重を乗せたベッドがぎしりと悩ましげな音を立てる。こういう日に限って傑の帰りは遅い。空っぽの気配を薄い壁越しに感じながら、なるべくナマエのほうを見ないようにリモコン操作に気を取られている振りをした。

「……てか、呼び方」
「はい?」
「直せって言ったろ」
「あ……」

電源の入ったDVDプレイヤーが低く唸り始める。起動するまでの時間がやけに長く感じた。

いつまでも律儀に苗字で呼ばなくていい、と言ったのはつい最近のことで、もちろんナマエが「それじゃあ遠慮なく」などとすぐに順応できるはずもなく、相変わらず俺は“五条先輩”のままだ。実際のところ呼び方なんてどうでもいいんだけど、いまはとにかく空白を埋めるだけの話題がほしい。

「俺の下の名前知ってますか〜?」
「知っ……て、ます」
「じゃあ言ってみ」
「さ」
「……」
「さと、……」
「…………」
「……さと、う、」
「誰が佐藤だコラ」

ぎゅ、とつまんでやった鼻の頭は思いのほか滑らかな皮膚に覆われている。ふわりと漂った髪の匂いに不覚にも息が詰まった。
つーか思春期の男の部屋に風呂入ってから来るかフツー? いつだったか、風邪を引いたナマエの部屋に行ったときに見てしまった肌の色がぱっと脳裏に蘇る。「ほ、ほら先輩早く観ましょ! ねっ!?」というヘタクソな誤魔化しにすらうまく言葉が出てこなくて、おもむろに再生ボタンを押した。

考えてみれば、付き合い始めてからどちらかの部屋でこれほど長い時間ふたりきりになるのは初めてだ。
遊園地に出かけて以降なかなか予定が合わず、出張もいくつか挟んで久しぶりに時間ができた今日、何かしたいことはあるかと尋ねた俺に「先輩の部屋で映画でも観ませんか?」と言ってきたのはナマエのほうだった。

それがきっと、最近の俺の忙しさや雨続きの天気を慮っての提案だったことは重々わかっている。わかってはいるけれど、“交際中の男の部屋”で、“週末の夜”、“ふたりきり”になるということをコイツがどう捉えているのか、なんとも思われていないならそれはそれでどうなのか、考えれば考えるだけ意識はすぐ隣にある柔らかな熱の塊に吸い寄せられてしまう。目はテレビのほうを向いてこそいるが、さっきから画面の上を滑るばかりだ。

『……きす、したいん、ですけど』

真っ赤な顔で、死にそうな声で言ったナマエのことを嫌でも思い出してしまう。普段、自分の欲しいものさえ滅多に口にしないくせに。

特大の爆弾を落としたその同じ場所にこうして自ら上がり込んでくる無防備さと、俺を信頼してやまないとでも言いたげに安心しきった横顔と、裏腹に花蜜のような甘ったるい香りを漂わせてくる少し濡れた髪の先と。
誘ったのはそっちだろ、なんて押し切られても文句は言えない状況にあることをコイツはたぶん、何もわかっていない。だからこそ、もう数か月もカレシカノジョとして過ごしているのに、いまだに呼び名も距離感もまるで変わらないのだ。焦れったいほど。

「う、うわー……いきなり頭から食べられちゃった……」

無意識なのだろうが、縋るように袖を掴んだその男はいままさにお前のことを頭から食ってやろうかという気持ちで見ている。そんな風にぽかんと口を開けて映画に夢中になってる場合じゃ、ない。

「ナマエ」
「はい、……ん、」

自分ばかりがぐるぐると妙な感情を抱え込んでいることが悔しい。コイツにも少しくらい移ってしまえばいい。振り向かせていくらか乱暴に口づけてやると、ナマエは暗がりでもはっきりわかるくらいに頬をぱっと紅潮させた。戸惑いを帯びた瞳に青白い光が映り込み、ゆらりと揺れる。

「……な、なんでいま……?」
「……したかったから?」

答えれば、え、だの、あ、だの言いながらナマエはしどろもどろになって俯いた。自分だって同じようなこと言ってただろ。体勢が変わったせいでずり落ちたパーカーの下から真っ白な肌が覗いている。かえって目に毒だったと気づいたけれど、もう遅い。

「……口、開けて」

言ってみれば、ほんの出来心だった。
パクパクと何か言いかけては閉じる唇にもう一度触れ、射止めるように目を合わせる。
ちょっと脅かしてやろうとか、からかってやろうとか、それくらいの気持ちのはずだった。いや正確には、そう思い込むことで何かを保とうとしていたのかもしれない。

「え、こ、こうですか……?」

なのに、ナマエの口が何の躊躇いもなく開くから。小さな舌が思ったより甘そうで、遠慮がちにこちらを見上げる瞳になぜだかすべて許されたような気がして。――吸い寄せられるように、唇を重ねていた。

「ん、……んっ!?」
「噛むなよ」

言うが早いか、するりと舌先を忍び込ませる。
ナマエの口の中は想像よりずっと熱くて柔らかかった。奥へ引っ込もうとするナマエの舌に自分のそれを擦り合わせると、細い肩が可哀想なほど大きく跳ねた。

「や、何、待っ」

制止する声も飲み込むように口を塞ぐ。片手で頬を撫で、耳の縁を辿り、首の後ろから指を這わせて逃げ出しそうな頭を押さえつける。自分でも訳がわからないくらい止まれなかった。こんなにも膨張した欲をいままでよく隠しおおせていたものだと我ながら感心してしまう。

「ふ、ぅ、っ」
「鼻で息して」
「わかん、な……っんん」

時折離れる唇同士の間でナマエが苦しげな声を上げる。……あー、なんだこれ、すっげー気持ちいい。コイツこういう顔もできるんだっけ? っていうかいま何秒経った? いい加減やめなければと頭ではわかっているのに、もっと先まで暴いてみたいという欲求が邪魔をする。
あのときだって、本当はあのまま舌を突っ込んでやろうかと思ったのだ。小さい白い歯をなぞって上顎をつついたらどんな顔をするだろうかと想像した。こんな風に、ぷるぷる震えている手を取って、指を絡めて、そのままベッドに押し倒して――、

「ごじょ、先輩、やだ、も、や……っ!」

――ぎしり。
廊下の軋む音で、はっと我に返った。
傑が帰ってきたらしい。微かな足音を捉えて頭の芯が急速に冷めていく。

ナマエはいまにも泣き出しそうな顔で、全力疾走でもした後のように浅い呼吸を繰り返していた。いつの間にかきつく握っていた手首をゆるゆると離してやる。震える手の甲が濡れた唇を拭うのを、俺はぼんやりと眺めていた。

「……わ、わたし、帰り、ます……」
「……うん」

おやすみなさいと消え入りそうな声で言って、ナマエは振り返りもせず逃げるように部屋を出て行った。がらんとした室内にホラー映画の不気味なBGMが響き渡る。

「……あー……」

ふらりと視線をやった先、机の端に置いたままの小さな包みが目に入った。……やべ、渡すタイミング逃した。

 

 

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好きな女の子を前に悶々とする推しが好きです。