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遊園地のお手洗いというのはこうも混雑するものかと、遅々として進まない列に並びながら手持ち無沙汰に携帯を開き、また閉じた。
かれこれ十分以上もこんな調子だ。背伸びをして列の先頭を覗くと、お手洗いの入口近くの化粧台で女の子たちが熱心に鏡に向かっているのが見える。手のひらほどの大きなパフで頬をはたいたり、きらきらしたリップを唇に塗ったりする彼女たちの後ろにもまた、こちらとは別の列ができていた。

お化粧直し、私もしたほうがいいのかな。
最低限の荷物を詰めた鞄の中には、控えめな色のリップグロスとチークが入っている。どちらも高専に戻って間もないとき、硝子さんとショッピングに出かけて一緒に選んでもらったものだ。

「五条のためって思うと癪だけど」なんて硝子さんは渋い顔をしていたけれど、実際にはちょっとちがう。
少しでも五条先輩の隣に立つ自信を持てるように。ほんのちょっとだけでも、可愛いと思ってもらえるように。そんな私のささやかな見栄でしかないのだった。

「――え、彼女まだキスで恥ずかしがってんの?」

急に近くから男の人の声が聞こえて、はっと我に返った。何気なく口元へやっていた手を慌てて離す。

「お前らもう付き合って何ヶ月だよ」
「えー、もうすぐ三ヶ月かな」

目線だけでこっそりと声のほうを見やる。同年代くらいの男の子二人組が自販機で飲み物を買っているところだった。そのままどこへ向かうでもなく、人待ち顔でペットボトルを弄び始める。

「最初は恥ずかしがってんのも可愛いとか思ったけどさあ、さすがに面倒になってきた」
「だよなあ」
「毎回拒否られると、逆に嫌がられてんのかって自信なくなるし」
「ドンマイ……あ、戻ってきた」
「女子ってなんでこんなにトイレ長げーんだろ……」

男の子たちのところに、お手洗いから出てきた女の子二人が混ざる。お待たせ、いや全然、と言葉を交わしながら、彼らは何事もなかったかのように和やかな雰囲気で連れ立って去っていった。

あの女の子たち、さっきあそこでお化粧してた子たちだ。ファッション誌に載ってるようなお洒落な服を着て、髪は綺麗なブラウンでつやつやで、睫毛なんてお人形みたいにくるんと上を向いていて。あんなに可愛い子でも、『面倒』だなんて思われてしまうのか……、…………、…………。

「……あの、あそこ空きましたよ?」
「えっ? あっ、すみません!」

考え込んでいるうちに列の先頭に到達していて、私は後ろのお姉さんに言われて慌てて個室に駆け込んだ。

 

「先輩、お、お待たせしました」

結局、並び始めてから二十分も経ってようやく私は五条先輩のところへ戻った。
人通りから外れたベンチに腰かけている先輩はそれだけでも絵になって、外国の映画のワンシーンみたいだ。このまま後ろからそっと眺めていたいような気持ちになる。

「おー。けっこう並んでた?」
「はい、あの、かなり、すごく」
「ふーん……」

じ、とサングラスの隙間から青い瞳が私を仰ぎ見た。さっきリップを塗り直した唇がやたらと目立っているような気がしてそっぽを向いてしまう。

「あの、先輩、お腹空いてませんか!? さっきあっちにホットドッグのお店があって……よかったら買ってきます!」
「いや別に空いてないけど」
「……そ、そうですか……」
「なんで急に慌ててんだよ。腹減ったの?」

二歩、三歩と先に歩き出した分の距離はあっという間に追いつかれてしまった。「買いに行く? ホットドッグ」「……だ、大丈夫です」顔を覗き込まれるのが恥ずかしくて、さらに俯く。

お手洗いの前で聞いた会話を意識しすぎている。五条先輩の隣を歩く自分が、覚えたてのお化粧みたいにどこか浮いているようで落ち着かない。さっきまで当たり前のように触れていた手を再び繋ぐタイミングもわからなくなり、さり気ない風で鞄の紐を両手で握りしめた。

「えと、なんだか混んできましたね……?」
「この後パレードやるらしいから、それのせいじゃね」
「パレード……っわ、痛」

いそいそと歩いていたからか、後ろから来た人に派手にぶつかられてしまった。よろめいた体は隣の五条先輩に当たる。先輩の身体は大きくて、私が寄りかかったくらいではびくともしない。

「相変わらず人混み歩くのヘタクソだな」
「すみませ……」
「おんぶしてやろーか」
「え!?」
「嘘だよ」

五条先輩が私の肩を抱いて引き寄せる。また背が伸びたのだろうか。夕日を受けて伸びる先輩の影に私は頭から爪先まですっぽりと覆われて、どきどきと心臓がうるさいのに、それだけでひどく安心もした。

「――あ」

先輩がふと声を上げる。つられて上を見れば、橙と青の混じった空を悠然と泳ぐ、カラフルなゴンドラが見えた。

「あれ乗る?」

 

観覧車の乗降口へ向かう私たちと反対に、降りてきた人たちはみんな小走りになって園の中心部へと戻っていく。パレードとその後の花火がこの園の目玉らしいので、みんなそれを間近で見たいのだろう。

観覧車のふもとに列はなく、係員さんに人数を告げるとすぐ案内された。
前のお客さんとの間に空っぽのゴンドラをひとつ挟んで乗り込む。重たいガラス張りの扉が閉まると外の喧噪が途端に遠のいて、空に昇っていくというより深い海に潜り込んでいくような、不思議な感覚がした。

「あー、めっちゃくちゃ歩いたな」
「ですねえ」
「任務のときより動いた気する」
「先輩、任務だとすぐ片付いちゃいますからね……」

ゴンドラの中は狭くて、私は先輩の膝の間に自分の足を置くような恰好で向かい合わせに座っていた。お互いまっすぐ前を見るとすぐに目が合ってしまう。窓の外を眺めていようと姿勢を動かしたら、膝同士が触れてしまった。

「あ、すみません……」
「……いーよこれくらい。景色見とけよ」
「ありがとうございます」

磨かれたガラスにふたつの影が朧げに映って揺れている。まあるい水玉にふたりきりで閉じ込められているみたいだ。どんどん遠くなっていく地上には、宝石をばら撒いたような電飾の光がたくさん踊っていた。それはやがてうねる川のようになって、ゆるやかな速度で流れていく。パレードが始まったのだ。

「……帰りたくないなあ」

光る川をぼんやり眺めていたら、ひとりでに、そんな言葉がぽろりと口をついて出た。五条先輩がふっとこちらを見て、ガラス越しに目が合う。

「……じゃあ、ずっとここにいる?」
「え、あっ、えっと! ほんとにこのままこの中にいたいって意味じゃなくてですね!? それくらい楽しかったってことで、五条先輩とこんなところに来られて嬉しくて、夢みたいで、もっと、」

うまく言葉にできない。
足はもう歩き疲れて棒みたいだし、夜風は冷たいし、だんだんお腹も空いてきた。けれどこうやって見知らぬ場所で、五条先輩とふたりきりで空を横切りながら、遠くに揺れる光の粒々をガラスのこちら側から眺めているこの時間がたまらなく特別なものに思えて、終わりが来ることがとても寂しい。ここを出てもまだ一緒にいられるのに。帰る先だって同じなのに。

「……お前さあ……」
「はいすみません……」
「そうじゃなくて……」

ぐら、とゴンドラが揺れて、向かいにいたはずの五条先輩がすぐ隣に座っていた。大きな手がつむじのあたりから頭の後ろまで、私の髪を撫でていく。パレードが進むのと同じくらいの速さで。
先輩はサングラスを外して、ぼうっと青く光る瞳で私を見た。とろけたソーダゼリーみたいな優しい色をしていた。

キス、するのかな。
小さく、指先だけでスカートの裾を握る。鼓動が速くなって、頬がどんどん熱を帯びていくのがわかる。恥ずかしいけれど、視線を逸らしてはいけない。面倒って思われたくない。でも目をつむりたい。でも、ずっと見ていたい。……やっぱり、つむりたい。

どうしても堪えきれなくなって、ぎゅっと瞼を閉じてしまった。五条先輩の顔が近づいてくる気配がする。まだ何も起こらない。
そのまま、永遠みたいに長い三秒が過ぎて——やがて、ふうっと細く息を吐く音がした。
ゴンドラの中に、再び普通の速さで時間が流れ出す。観覧車が円のてっぺんを通り過ぎて、少しずつ地上へ戻り始めるのと一緒に、先輩の指は私の耳の縁をそっと撫でて離れた。

「……写真でも撮れば」
「……そ、そうします」

カチャリと乾いた音を立てて、先輩の鼻の上にサングラスが戻ってくる。
私は逃げるように外へ向けて携帯を構え、やたらにシャッターを切った。ぷるぷると震えるカメラが捉えるのは暗闇に尾を引く光の残像ばかりで、まったく何の役にも立たない。

(……キス、じゃ、なかった……!)

恥ずかしい。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。ゴンドラを降りたときにはすっかり日が暮れていて、本当に助かった。

 

閉園の直前に遊園地を出て、高専へ戻る頃には二十二時を回っていた。
寮の中はひっそりとしていた。人の気配が少ないのは日頃からなのに、賑やかな場所にいたせいか静けさが余計に耳に染み入ってくるような感じがする。
なんとなく足音を潜めて玄関の扉をくぐったところで、先輩が振り返った。

「じゃあな」
「あ、はい、おやすみなさい……」
「オヤスミ」

ぽんぽん、と寝る前の子供にするみたいに、先輩の手が私の頭を撫でる。

そうか、ここでお別れなのだ。当たり前だ。
朝早くに待ち合わせて一緒に出かけて、人混みの中で寄り添って歩いて、アトラクションだってたくさん乗ったし、手を繋いだりもして。
なのに、今日一日中あんなに一緒にいたのに、まだ物足りないように思ってしまう。だって明日からはまた別々の生活だ。もちろん顔を合わせる機会はあるし、話もできるし、メールや電話もある、けど。

「……五条先輩、あの」

ポケットに手を突っ込んだ先輩の、その肘のところを小さく小さく引っ張った。無限に阻まれることはない。それだけでなんだか許されているようで、鳩尾のあたりがこそばゆくなる。

「……あの。先輩のお部屋まで、い、一緒に行っちゃだめですか……?」
「は」

こんなこと、先輩を困らせるだろうか。そう思うのに、唇からはつるつると言葉が出てきてしまった。遊園地のせいでテンションがおかしくなっているのかもしれない。

「……何しに?」
「えっ、と……前に借りた漫画の続き、読みたいなあ、って……」
「……」
「借りたらすぐ帰るので! ……ご迷惑じゃなければ、ですけど……」
「……、……いーけど」
「え、ほんとですか!」

ぱっと顔を上げた途端、先輩はすぐにまた踵を返してしまった。やっぱり迷惑だったかな、と立ち止まっていると、手を取られて引っ張られる。……嫌がられてはいない、みたいだ。誰も見ていないとはいえ、寮の中でこんなに距離が近づくことは稀で、どぎまぎしてしまう。

「あ、夏油先輩におみやげ」
「……今日、泊まりで留守」
「そうなんですか」

五条先輩の部屋の前で、ふと隣の扉を見やった。起きていたら今日のおみやげを渡そうと思ったのだけれど、あいにくドアの向こうに人の気配はない。
ここしばらく夏油先輩を見かけていない気がした。本格的な繁忙期を前に、特級の彼はすでに忙しくしているのかもしれない。同じく多忙であろう五条先輩がこんな風に一緒に過ごしてくれているのは、本当に貴重で特別ことなのだろう。

部屋に入ると、先輩は「漫画、出すからちょっと待ってろ」と本棚をごそごそ探し始めた。

ここに立ち入るのは年越し以来だ。人様の私室で勝手に座るわけにもいかず、ぼうっと立ったまま部屋の中を眺めた。素っ気ない柄のカーテン、出しっぱなしのゲーム機、本、映画のDVD。服は意外にきちんと整頓されていて、寝巻きらしきスウェットだけがベッドの上に放り出されている。枕元の時計。壁にはぷるんとした唇が色っぽいグラビアアイドルのポスター。……五条先輩、こういうスタイルのいい女の人が好きなのかなあ。

「あった。これ?」
「あ、ありがとうございます」

漫画を受け取るとき、僅かに手と手が触れた。かさついてゴツゴツとした、男の人の手だ。すぐに離れていくその温度が寂しい。あとはもう一度おやすみを言って、この部屋を出るだけ。そうしたら本当に今日が終わってしまう。

顔を上げると、柔らかく結ばれた薄い唇が見えた。意識しなくても自然と目で追っている。さっきからずっと。

「なに、まだなんか借りたい? お前が読んでるやつで新刊出てるのそれだけだけど」
「あっ、いえ、ちがくて、あの」

並んで歩いて、手を握って、名前を呼んで。それだけで有り余るほど幸せなはずなのに、物足りない。恥ずかしいのに、近づきたい、もっと触れたい。自分がどんどん欲張りになっていく。

……ああ確かに、これはひどく面倒だ。

「あの、先輩が、め、面倒じゃなかったら、なんですけど」
「なんだよ、はっきり言えって」
「き、……」
「木?」
「…………きす……したいん、ですけど……」

やっとの思いで絞り出した声は消え入りそうなほど小さかった。反対に、心臓は爆発するんじゃないかと心配になるくらい大きな音を立てている。五条先輩は何も言わない。数秒の沈黙の間にみるみる羞恥心が降り積もって、訳もなく涙が滲んだ。聞こえなかったのかな。そうだとしても、もう一度大きな声で言い直すことなんてとてもできない。そしてまだ返事はない。……やっぱり、面倒だったのだろうか。

「す、すみませんやっぱりなんでもな……っん!?」

耐えきれなくなって距離を取ろうとした私の頭を、先輩の手が思いきり引き寄せた。目を閉じる間もなく唇が重なる。押しつけるだけのキスの後、今度は角度を変えて啄むように、何回も。いままでこんなに長い時間キスしていたことはない。だんだん頭が熱を帯びてぼうっとしてきて、私は先輩の服の胸のあたりをぎゅっと掴んでしがみついた。

「ごじょ、先輩、ん、」繰り返されるリップ音の合間に名前を呼ぶが、それもすぐ次のキスに飲み込まれてしまった。強張った唇をほどくみたいにやわやわと食まれたり、甘く歯を立てられたり、なんだか、まるで。

「……た、たべないで、くださ……っ」
「…………」

必死になって先輩の胸を押し返すと、ようやく唇が離れた。緊張と羞恥と酸素不足で目尻から涙が溢れる。「……お前ほんっと……」私の後頭部に手を置いたまま五条先輩はひとつ溜息を落とすと、反対の袖で私の目元をごしごしと拭った。

「……今日はもうおしまい。部屋戻って早く寝ろよ」

ぐしゃりと頭を撫でられる。“今日は”ってことは、いつか続きがあるのだろうか。聞き返したかったけれど頭がもういっぱいいっぱいで、頷くことしかできなかった。

 

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