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穏やかに晴れた土曜日の朝、私は真新しいスニーカーで颯爽と入場ゲートをくぐり抜けた。

右を見れば色鮮やかなお菓子やアイスクリームのワゴンが並び、左を見ればふかふかの着ぐるみたちが大手を振って通りを練り歩いている。頭上に巡らされた金属のレールの上を、たくさんの人を乗せたコースターが猛スピードで駆け抜けていった。歓声と悲鳴が青空に尾を引いて、そこらじゅう響き渡る陽気な音楽に混ざって消える。見渡す限りカラフルな建物が続く“街並み”を眺めていると、高専から電車でたった二時間程度の距離にいるのに、まるで外国を旅行しているような気分になった。

――そう、ついに私はやってきたのだ。遊園地、というやつに。

「五条先輩! 見てください、あれ!」
「あ?」

大きなパーカーの裾を控えめに摘んで引っ張ると、五条先輩は園内マップに落としていた視線を巡らせてこちらを振り向いた。ただでさえ身長差のせいで声が届きにくいのに、周りが賑やかなものだから余計に張り上げなくてはならない。ぐっと腰を折った先輩の顔が近づいてくる。見慣れない私服の襟元から柔らかな石鹸のような匂いがして、どきりと胸が高鳴った。

「み、耳! 耳売ってます!」
「みみィ~?」

人混みの隙間から、通り沿いに並ぶ露店のひとつを指差す。私の言わんとしていることを察したらしい先輩が「あー、耳」と気の抜けた声を漏らした。

遊園地に行きたいとお願いをしたのは、ちょうど一週間前の土曜日のことだった。
白状すると、行きたいところを考えろと言われて私は困り果てていた。まずもってそういうのを選ぶ知識もセンスも私には皆無なのである。それに、五条先輩と出かけられるならいつものコンビニだろうがオンボロの映画館だろうが、行き先なんてどこでもよかった。それをそのまま硝子さんに言ったら心底呆れた目をされたので、五条先輩本人に言うのはさすがにやめておいた。

結局、本屋さんで雑誌を読み漁ったり、硝子さんに相談したり、ネットで三日三晩調べたりして、ようやくひとつに絞ったのが水曜日。そこから五条先輩に言い出すまでにさらに三日もかかってしまった。……だって安直かもしれないけれど、遊園地ってなんだかすごく‟デート”って感じがして、ちょっと照れくさかったのだ。

「……つけたいの?」

露店に駆け寄った私の後を追って、渋々といった顔ではあったが五条先輩もついて来てくれる。犬、猫、うさぎなどなど、いろんな動物の耳を模したカチューシャを眺めていると、レジに立ったお姉さんがはっとした顔で先輩を見るのがわかった。日常から離れたこの場所でも、五条先輩はどうしたって目立ってしまうのだった。

「あの、『遊園地を百パー楽しむために耳は必須』って硝子さんが」
「聞いたことねえよそんな話」
「でもきっと似合いますよ!」
「は? 俺がつけんの」
「だって私のリクエストで連れてきてもらったので、先輩にも楽しんでもらいたくて……この猫さんのとかどうですか?」
「……」

あ、すっごく嫌そうな顔。「や、やっぱりナシで」手に取った試着用のカチューシャを棚に戻そうとすると、隣でおもむろに先輩が腰を屈めた。「……ん」と促すように目を合わされる。

「え、っと」
「早くして。腰痛い」

……つけてもいいってことかな。
「し、失礼します」恐る恐る、両手に捧げ持ったそれを先輩の頭に乗せる。まるで王子様の戴冠式みたいなのに、つけているのはふわふわの猫耳だからなんだかおかしかった。

「可愛いです先輩……!」
「……」

白い髪の上に同じ色の三角形を生やした五条先輩は、たいそう不本意な様子で鼻の頭に皺を寄せた。それでも似合っているのはさすがとしか言いようがない。レジのお姉さんも、隣のアイス屋さんに並んでいる女の子も、通りすがりのお掃除のスタッフさんもチラチラとこちらを見ている。ただでさえ格好いい先輩にさらに可愛さまで加わったのだから、もっと目立ってしまうのは当然だった。途端にささやかな独占欲のような感情が心の奥でぱちぱちと小さく爆ぜて、なんとなく他の人の視界を遮るように間に立つ。

「……こんなの頭に乗ってたら邪魔じゃね? どっかに引っかかりそー」
「でも似合っ……かわ……あの、そうですね……」
「どっちだよ」

もうちょっと見ていたいような、誰にも見られたくないような複雑な気持ちで、そわそわする。けれど先輩のこの様子じゃ、きっとすぐに外してしまうだろう。せめて写真に残しておきたいけれど、売り物だから撮れないのが残念だった。
背筋を元に戻した先輩を横目に見ていると、先輩は何を思ったのか隣の棚から違うカチューシャを取り上げた。くたりと垂れ下がった犬の耳だ。

「じゃあお前はコレな」
「え、わ、私はいいですよ」
「なんで」
「……恥ずかしいので……?」
「却下」

逃げる間もなく、ずぼっと頭にカチューシャをつけられた。思わず「うわ」と声を上げた私を見下ろして、先輩は意地悪く笑った。

「百パー楽しむんだろ」

 

「こんにちは、お二人様ですか?」

アトラクションの搭乗口にやってくると、係員の女の人の元気な声に迎えられた。ぴんと立った二本指を一瞥し、こっくり頷く。「カチューシャ、お二人ともお似合いですね!」可愛いです、と微笑まれて顔から火が出るかと思った。五条先輩は平気な顔で「どうもー」なんて答えている。やっぱり普段から褒められ慣れている人は違う。人に勧めたくせに私は顔の横で揺れる犬耳が気になって気になって、五分に一回は意味もなく手で触れてしまう始末だった。

露店でカチューシャを買った後、その足で私たちは一番人気だというフリーフォールのアトラクションの待機列に並んだ。去年完成したばかりの、ハイシーズンには三時間も並んでようやく乗れるような代物らしい。後ろを振り返ると、すでに何重にも折り返した長い行列ができていた。真っ先にここに来て正解だったみたいだ。

「カチューシャと、あと携帯も鞄にしまって、足元の荷物入れに入れてくださいね。吹き飛ぶと危ないので!」
「は、はい」

狭い通路を抜けて中へ入ると、そこは思いがけずシアターのような部屋になっていた。案内された座席に着き、言われるがままシートベルトを締める。首から提げた携帯も外して、厳重に鞄の底へしまった。ほとんど手ぶらのような恰好の五条先輩は、早々に外したカチューシャを手持ち無沙汰な様子で弄んでいる。膝が前の席にぶつかってずいぶん窮屈そうだった。

(ふ、吹き飛ぶのか……)

遊園地に来るのは初めてだし、当然ながら絶叫マシンというものに乗るのも初めてだ。事前に調べたところ、かなりの勢いで落下するらしいけれど、こんな細いシートベルト一本で大丈夫なのだろうか。やっぱり最初はもっとマイルドな乗り物にするべきだったかもしれない。話題のアトラクションだからって「乗りたいです!」と何も考えずに言い切ったことを少し後悔した。

「お前さ」
「はっ、はい」

所在なく辺りを見回していると、不意に五条先輩が言った。広げた脚の間からカチューシャを荷物入れに放り込みながら、「携帯の」と続ける。

「あれ、まだ使ってんの」
「あれ……?」
「……俺がやったやつ」

ストラップのことか。さっきまでそこにあった感触を思い出すように、首元を指でなぞる。

「え、使ってますよ」
「もうボロボロだろ、新しいやつに変えれば」
「確かにちょっと汚れちゃいましたけど……」

毎日使っているからだいぶ色褪せたし、イルカの飾りの銀色だって曇ってしまっているけれど、でも千切れたり取れたりしたわけじゃない。それに、私にとってあのストラップはもはや、なくてはならないお守りみたいな存在だった。
あんなことがあって、一度は失くしてしまったと思ったのに、ちゃんとまた手元に戻ってきてくれた。この先どんなにボロボロになったとしても、とても代わりのものを使う気にはなれない。

「でもやっぱり、あれがいいんです」
「……ふーん」

先輩が小さく答えたときだった。ホラー映画じみた音楽が鳴り、足元が緩やかに上昇し始めた。

「お。始まった」
「え、ちょっ、もうですか!?」

じわじわ、じっくり。獲物を追い詰める肉食獣みたいな不気味な静けさで、少しずつ私たちを上へと運んでいく。周りから早くも怯えたような悲鳴が上がり、つられて私も身を竦めた。

「まっ、まだ心の準備が」
「一番上まで行くと正面が開いて景色見えるらしーよ」

先輩の声はいたってのんびりとしている。反対に私はぎゅっと強く目をつむった。
いつ、いつ落ちるんだろう。どれくらい落ちるんだろう。外から見たこの建物は十階建てのビルくらいの高さがあった。あそこから落ちたら結構な滞空時間になるんじゃないだろうか。想像するだけでお腹がふわりと浮くような、落ち着かない気持ちになる。

「ちゃんと目開けて見とけよ」
「そ、そん、そんなの見てる余裕な、」
「ほら」

促されるまま、薄目を開けて正面に向ける。先輩の言葉通り、窓が大きく開いて外の景色が見えた。真っ青に晴れ渡った空と、ジオラマみたいな地上の建物たち。

「あ、すごい綺麗――」

一秒後、声にならない叫びを上げながら、私は一直線に落下した。

 

「生きてる?」
「……な、なんとか、あの、はい……」

ようやく揺れが収まった後も、私は椅子から立ち上がれずにいた。
楽しかったねとか次は何乗ろうとか、口々に言い合いながら周りの人たちはさっさと出口へ向かっていく。どうしてみんな普通に歩けるんだろう。率直に言ってめちゃくちゃ怖かった。上で見た景色の記憶なんか全部吹き飛ぶくらい。

「……手、さすがに痛いんだけど」
「え」

言われてようやく、五条先輩の手をこれでもかときつく握りしめていたことに気がついた。瞬間、いろんな恥ずかしさが一気に襲い掛かってきて、振りほどくようにその手を離す。

「す、すみません!!」
「別にいーけど……」
「私、思いっきり握って……! 痣とかになってないです!?」
「そんなヤワじゃねえよ」
「よかった……」

初めての遊園地デートの思い出が『彼氏の手を捻り潰したこと』なんて洒落にならない。恐怖と焦りでじっとりと汗が滲んだ手のひらを握りしめながら、慌ただしく荷物を取ってアトラクションを出る。

「ナマエ」
「はい」

薄暗い通路から外へ踏み出したところで、さっきほどいた手が今度は五条先輩から繋がれた。

「え、もう大丈夫ですよ」
「……お前すぐはぐれるから」
「で、でも汗かいてベタベタするし、その」
「しねーよ」

ぎゅ、と力をこめられて、手のひら同士が隙間なくぴったりくっついた。足はしっかりと地面についているのに、ジェットコースターに振り回されるみたいに感情を揺さぶられる。隣を見上げれば、ちょうどこちらを向いた黒いサングラスの奥の目と目が合って、胸の奥がきゅうと切なくなった。

「……嫌?」

――そんな訊き方は、ずるい。
耐えきれなくて、ようやっとのことで持ち上げた視線をまた足下へ落とす。並んで歩く二足のスニーカーをひたすら目で追いかけながら、どきどきとうるさい心臓が早く収まることを願った。

「……や、じゃない、です」
「ん」

 

 

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長くなりそうなので次回に続きます。