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「えーーーっと……?」

延々と連なるアルファベットの文字列を前に、私はゆっくり首を傾げた。斜めから見ればあるいはスラスラと読めるようになるのでは、などというほんの僅かな期待はすぐに裏切られる。

「『ジョンは今朝、九時に起きて』……えーと、『ミルクとりんごを』……『持ち』……?」

ミルクとりんごなんか持ってどこに行くんだいジョン、と頭の中の顔も知らない男の子に問いかける。口調は昨日観た洋画の吹き替えの真似だ。この英文も勝手に吹き替えになってくれたらいいのにな。

穏やかな春の夕方だった。開け放たれた談話室の窓からひんやりと風が吹き込んで、どこかで支度されているお夕飯のいい匂いを連れてくる。条件反射的にお腹が鳴りそうになるのを、腹筋に力を込めてぐっとこらえた。
今日中にこのドリルを終わらせておかないと、明日には天敵・数学の宿題が待っている。一年生の終わりをまるっと飛ばしてしまったせいで、先生から補習を山ほど言いつけられているのだった。英語と数学に挟み撃ちにされたら私などひとたまりもない。気を取り直し、再び英語の長文読解問題に向き直る。

「『ジョンはお腹が空いていました。ポテトとハンバーガーを』……え、さっきのミルクとりんごは? もう食べちゃったの? ちょっと早すぎないかな……」
「何ぶつくさ言ってんだよ」
「えっ」

ふと手元に影が落ちた。ぱっと顔を上げれば、怪訝そうに眉を顰めた五条先輩がこちらを見下ろしている。その手には一リットルの牛乳パック。

「ジョ……五条先輩」
「いまジョンっつった?」
「言ってません」

慌ててぶるぶると首を振る。まあいいけど、と言いながら先輩は私がドリルを広げているローテーブルを回り込んできて、当たり前のように隣に腰を下ろした。テレビでも見るんだろうか。先輩の長い脚では座りづらいだろうと少し横にずれると、同じだけ先輩もこちらへ寄ってくる。

「あの」
「どこがわかんないの?」

え、と目を丸くした私に、先輩は「見てやるって言ってんだけど」とさも当たり前のように言った。

「……え、えと、これです」
「あー、そっか。お前、一年の最後いなかったもんな」

……あれ、あれ? 教えてくれるんだ。前はあんなに頼み込んでやっと折れてくれたのに。
先輩がドリルを覗き込んだ拍子に、ふわりと風が起こって微かに甘やかな香りがした。石鹸みたいな匂いと、スパイスみたいな、たぶん香水の匂いと、それから汗の匂い。鍛錬を終えてきたばかりなのか、いつもより血色を帯びた首筋が目に入り、どきりとする。

「こんなん答えコレしかねえだろ」
「え、なんでそんなにすぐわかるんですか!?」
「直感?」
「先輩って天才ですか……?」

直感で外国語が読めるって、すごいことなのでは。
海外出張も多いし、もしかして英語ぺらぺらだったりするのかな。ちらと視線を上げると、思ったよりも先輩の顔が近くにあって咄嗟に息を止めた。一瞬だけこちらを向いた眼差しは、すぐに手元に落ちていく。

「……よそ見すんなよ。教えてやるから、次」

促され、急いでペンを持ち直した。「長文は短く区切って」「ここの主語はこれ」「こっちの関係代名詞は」。言われるがまま、ドリルに書き込みながら読み進めると、さっきまでただのアルファベットの羅列だった文章が嘘みたいに明確な意味を持って伝わってくる。すごい。まるで。

「わ、私、天才になった気分です……!」
「その発言が馬鹿丸出しなんだけど」
「うっ……」
「いいから早く終わらせろ。飯、間に合わねーぞ」

途端、忘れていた空腹が蘇り、またお腹が鳴りそうになった。今日の食堂の夕飯はなんだろう。この前のチキン南蛮、美味しかったからまたあれがいいな。先輩と一緒に食べられたら、もっといいなあ。そんなことを考えながら、さっきよりも軽くなったペン先を走らせる。

五条先輩は最近、なんだか優しい。もともとすごく優しかったけれど、なんというか、雰囲気が柔らかくなった気がする。
……彼女、になったからなんだろうか。まだ慣れないその響きを頭の中で反芻すると、胸の奥がむずむずと落ち着かなくなってくる。

呼びかけたとき振り向いてくれる仕草とか、笑った顔とか、私の名前を口にするときの声とか。それはきっと他の人から見たらわからないくらいの些細な違いで、もしかしたらただの私の気のせいなのかもしれない。でも、そうじゃなかったら嬉しい、とも思う。

『付き合ってください!』

意味もちゃんとわからないままに口走ってしまったあの言葉が一年後、現実になっているなんて、誰が思うだろうか。五条先輩が、私を。

「……先輩?」

不意に長い指が頬に伸びてきて、手を止めた。退屈そうに頬杖をついていた先輩が、反対の手で私の横髪を掬い上げ、耳に掛け直してくれる。

「あ、ありがとうございます」
「……意外と伸びねーな」
「まだ二ヶ月ですし……」

刀でざくっと切ってしまったから、整えるためにさらに短くしなければならなかった。これはこれでシャンプーやドライヤーの手間が省けて便利だし、それなりに気に入っている、けど。

「……先輩は、長い方が好き、ですか?」

耳元から毛先まで滑り降りた指が、私の輪郭を掠める。そのまま顎を掬われて横を向くと、サングラスの向こうからこちらをまっすぐに見つめてくる青い瞳と視線が交わった。

「――好き」

う、わ。
火がついたみたいに顔が熱くなる。違う違う、これは髪型のことであって、別に私自身に言われたわけじゃ。いやでも私は先輩の彼女なわけだから、先輩が私のことをその、す、すきでも、別におかしくはなくて、でも……でも……。

「お前、チョロすぎんだろ……」
「ちがっ、別に変なこととか考えてませんからね!?」
「へー。変なことってどーゆーコト?」
「……っ、そ、れは……その……!」

い、意地悪だ。前言撤回。やっぱり五条先輩は意地悪です。
言い返せなくなって俯くと、先輩は噴き出すように笑って私の頭を掻き回した。

「風呂入ってくる。食堂集合な」
「あ、あの」

立ち上がりかけた先輩の腕を取って引き止める。ん、と小さく返事をしてくれる声にまた胸が切なくなった。恥ずかしくて顔を上げられない。きっと私、いま耳まで真っ赤だ。

「……髪。また、伸ばします、から……」

やっとのことで声を絞り出した。言ってしまったらますます恥ずかしくなってきて、先輩の腕を掴む手がぷるぷると震える。引かれただろうか。たかだか髪の長さで、重い女だと思われただろうか。やっぱり聞かなかったことにしてください、と叫びたくなったとき、優しく手を引き剥がされて指が絡められた。

「……ほんと、チョロすぎ」

恐る恐る顔を上げる。さっきよりもずっと近くに先輩の顔があって、鏡みたいになったサングラスに泣きそうな顔の自分が映っていた。
キスされるかと思った。けれど先輩は手のひらでするりと私の頭を撫でて、すぐにまた離れていく。
どきどきと鳴り続ける心臓がうるさい。勝手に何かを期待してしまっていた自分を平手打ちしたくなった。私はいつからこんなに欲張りになったんだろう。

「再来週さあ」

熱くなった頬に手の甲を当てて冷ましていると、先輩はいつの間にか飲み干してしまったらしい牛乳パックを潰しながら立ち上がった。パックから直飲みするなっていつも夏油先輩に怒られているのに、直す気はないらしい。

「土曜、休みだから。どこ行きたいか考えとけよ」
「えっ」
「繁忙期入ったらろくに遊びにも行けねーだろ。いまのうちに出かけとかないと」

ぱちりと瞬きをする。それって、つまり。

「ふ、ふたりで……?」
「……ふたりで」

思わず大きな声で返事をしてしまったら、「でっけー声」と言って先輩はおかしそうに目を細めた。

 

 

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