※後半から五条視点
「……」
「……」
「…………」
「……早くなんか言えよ」
「うえ、あ、あの」
隣から肩をこつんと小突かれ、ようやっと口を開いた。自分の爪先にやっていた視線をおずおずと上げると、向かい合ったブラウンの大きな瞳が続きを促すように瞬きをする。しばらくぶりに見る硝子さんはやっぱり悠然と微笑んでいて、つられるようにして私もぎこちなく笑った。
「……た、ただいま、戻りました……」
およそ一ヶ月半の期間を経て、私は高専に戻ってきていた。
あの後――ミョウジの家を出た後、行く当てのない私を五条先輩は半ば無理やりに都内の病院へと連行し、そのまま二週間の入院を言い渡した。
医師の勧めを断って勝手に抜け出したことは、もちろんこっぴどく叱られた。そのせいもあってか、今度の入院ではひとりきりでの外出は禁止、面会も数人の高専職員のみに制限され、必要なものは届けさせるから何かあったらまず連絡するようにと、五条先輩の番号だけが登録された新しい携帯電話を渡された。
誰かが私を連れ戻しに来ることを、もしかしたら先輩は警戒していたのかもしれなかった。でも、その心配はたぶん、もういらない。
あの家の人たちに会うことは二度とないだろう。漠然とした予感ではあったけれど、そう思った。自分から切り捨てた相手に再び手を伸ばすようなことを、彼らはきっと好まない。
正真正銘、私はひとりぼっちになったのだった。
これからどこで何をして、どうやって生きていくのか、決める人はもう自分以外にいない。それはとても自由で、同時にひどく心細いことだった。
まずは現実的な問題として、住む場所と生活費をどうにかしなければならなかった。私には頼れる親類はいないし、呪術師一本で生計を立てられるほどの力もない。
いっそダメ元で、高専に職員として雇ってもらえないか訊いてみようか。補助監督は無理でも、お掃除要員や雑用係ならば住み込みで働かせてもらえないだろうか。働きながら少しずつ任務をもらって、術師としていつか独り立ちして……そんなことを悶々と考え続け、結局ろくな結論も出せないまま、退院の日を迎えた。
――けれどその二週間のうちに、私を取り巻く環境はがらりと一変していたのだった。
『お前、今日からここんちの子な』
ぺらりと差し出された紙切れに、初めて見る夫婦の名前と、自分の名前が並んでいた。
とっくりと、ゆうに数十秒はその紙を見つめていたと思う。瞬きすら忘れてしまった私に、五条先輩は平然とした顔で『ウチの分家筋の家』だと付け足した。
『養子縁組、手続きしといたから』
それからはあっという間だった。
まず、高専への復学が認められた。ちょうど二年生に上がるタイミングに合わせてのことだった。ミョウジの家に残っていた私の荷物はすべて運び出され、母の浴衣と、白い砂の小瓶とともに、再び高専の寮へとひとつ残らず移された。
返上していた準二級術師の身分証も戻ってきた。綺麗にクリーニングされた制服と、研ぎ直された呪具と一緒に。
すべて五条先輩の取り計らいなのだと、手続きを手伝ってくれた補助監督さんからこっそり教えてもらった。
そうして、私はまたこの古ぼけた談話室の入り口に立っている。
嬉しさと気恥ずかしさと、ちょっとだけ泣きそうな気持ちとが混ざりあって、うまく言葉が出てこない。
何から話せばいいのか迷っていると、おもむろに硝子さんが私の左手を取った。ひんやりとした指先が、洗い立ての制服の袖を捲り上げる。硝子さんはそのまま私の腕をじっくり検分した後、「……うん。ちゃんと治ってる」と呟いて、綻ぶように笑った。
「おかえり、ナマエちゃん」
胸に沁み入るような、綺麗な笑顔だった。
私があの大怪我から立ち直れたのは、現場でいち早く反転術式による治癒が施されたおかげなのだと医師から聞いた。つまりは、五条先輩だけでなく硝子さんまでもが駆け付けてくれたということだ。本当に、私はどこまで恵まれているんだろう。
「硝子さん……助けてくださって、ありがとうございました」
「今回ばかりは、さすがにちょっと肝が冷えたな」
まだしばらく無理しちゃダメだからね、と念を押される。
あの日、先に寮を飛び出した五条先輩から少し遅れて、硝子さんは夏油先輩の呪霊に乗って追いかけてきてくれたらしかった。ふたりが到着したときにはすでに私の意識はなく、応急処置の後すぐに病院に運ばれたそうだ。
あのときはとにかく無我夢中で、自分がどんな状態かなんてまったくわかっていなかった。でも硝子さんがこう言うくらいだから、きっと相当ひどい有様だったのだろう。いまごろになって、足元からじわりと恐ろしさが這い上がってくる。先輩たちが来てくれなかったら、どうなっていたか。
「まあ無事に回復してよかったよ……で、その手は何?」
「え?」
硝子さんの言葉に答えるように、私の後頭部を何かが掠めた。かと思えば、ずいぶん短くなった髪の先がちょいちょいと数回、痛くないくらいの力で引っ張られる。
隣から、五条先輩が所在なさげに私の後ろ髪を弄んでいるのだった。毛先をつまんだり、ねじったり、ぱさぱさと散らしてみたり。
「……あの……?」
どうしたものかと見上げれば、ちらと目が合って何も言わずに頭を抱き寄せられる。……うん?
「……五条、お前」
「ま、そういうコト」
硝子さんはしばし黙って五条先輩を見つめていた。いや睨んでいたと言うほうが正しいのかもしれない。そうしてからひどく重たい溜息をひとつ吐くと、憐れむような目をして私の肩をぽんと叩いた。
「泣かされたら私のとこに来なね」
「えっ! あっ、えっ……と……?」
返した手をそのままひらひらと振り、硝子さんは医務室に用事があるからと言い残して出て行ってしまった。華奢な背中を見送りながら、にわかに頬が熱を帯びていく。
……『そういうコト』って、つまり。
「ご、五条先輩」
「なに」
やんわりと先輩の腕から抜け出して半歩、距離を取る。この近さにはやっぱり、まだ慣れない。
「……えっ、と、硝子さんたちは、今回のことは」
「あー……だいたいは知ってる。特に傑には後処理いろいろ手伝わせたからな」
「そ、そうなんですね」
「まあ、“新しいほう”の家のことは別に隠す必要もないっつーか、隠してもどうせすぐバレると思うけど」
この業界狭いからさー、と先輩は呑気に言うけれど、私はどうにも落ち着かない気分だった。
養父母について、『書類上だけの存在と考えていい』と五条先輩からは言われていた。未成年では何かと不便な諸々の手続きや金銭面でのサポートをするだけで、その他には一切の口出しをしない、私が望まない限りは一緒に住む必要もない、なんなら苗字だって普段は好きに名乗って構わないと。
説明を聞いても、私の頭では何が何だかさっぱりわからなかった。そんな都合の良い話ってあるだろうか。
挨拶もいらないという先輩に頼み込んで一度だけ養父母のお宅に伺ったけれど、閑静な日本家屋に住んでいたのは上品な初老の夫婦とお手伝いさんがひとりだけで、私は何を訊かれるでもなくただ出されたお茶とお菓子をいただき、世間話をして帰ってきただけだった。
『ひとつ、お願いがあるとすれば』
帰り際、さっさと門をくぐって出て行ってしまった先輩を追いかけようとした私を引き留め、養母はこっそりと耳打ちをした。
『これからも、悟様と仲良くして差し上げてくださいね』
そうして、目を丸くする私に悪戯っぽく目配せをしたのだ。
咄嗟に、はい、としか答えられなかったけれど、それでも彼女は嬉しそうににっこりと笑った。優しげなその表情は、門扉の脇に植えられた白い木蓮の花にどこか似ていると思った。
「迷惑が〜、とか考えんなよ」
思い返しているうちに皺が寄っていたらしく、五条先輩の人差し指が私の眉間をぐりぐりと抉ってくる。痛い。
「う……でも」
「何も心配しなくていいって言ったろ」
そんなこと言われても、一から百まですべて面倒を見てもらって、申し訳なく感じるなというほうが無理だ。そもそもここに戻って来られただけで、こうして五条先輩の隣に立っていられるだけで、夢みたいに幸せだというのに。
「ほんとはウチに直接迎えられたら手っ取り早いんだけどさあ」
「五条の本家に私が!? それこそ無理ですよ!」
「……俺まだ十七だし」
「? はい……?」
成人したら家の中での発言力が増すとか、そういうことだろうか。いまでも充分に権力を振るっているように見えるが、御三家の内部事情はよくわからない。
それに――もしも、万が一にも私が五条本家の養子になったりしたら。そうしたら、五条先輩とは兄妹ということになってしまう。もちろん光栄だし畏れ多いことではあるんだろうけれど、でも……、……。
ぐるぐると考え込んでいると、不意に「ナマエ」と名前を呼ばれた。顔を上げた一瞬、掠めるように唇が触れて、すぐに離れる。
……キス、された。そう理解すると同時に再び先輩の顔が近づいてきて、慌ててぎゅっと目をつむる。さっきよりも触れ合っている時間が長いように感じた。ちゅ、と控えめに残されるリップ音すら恥ずかしくて、耳を塞ぎたくなる。
「……いつまでその顔すんだよ」
「……っ、だ、だって、他にどんな顔したら……」
「『カノジョです』って顔でもしとけばいーんじゃねえの」
「かっ……!?」
「事実だろ」
見上げれば、サングラスの向こうの瞳と視線が絡まる。やわく細められた青がやけにきらきらと眩しい。
……かのじょ、なんだ。私、五条先輩の。
「……あ、あ、あの!!」
「うるっさ。なに急にデカい声、」
「だ……大事な用事をおもい、だしました! いま! 急に! 突然に!」
「……はあ?」
「わたしあの、にどほっ、荷解き! しないといけないので! してきます!」
「おい、」
「失礼します!!」
不自然な大声で告げて、私は一目散にその場から逃げ出した。
……どうしよう。このまま五条先輩の近くに居続けたら私、心臓が馬鹿になって、いつか死んでしまうかもしれない。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「――『名前も知らないやつと付き合えるか』だったっけ?」
ナマエが談話室を出て行ってすぐ、後ろから声を掛けられた。振り返ると同時、放り投げられたペットボトルを片手で掴み取る。
「悟がナマエを振ったときの捨て台詞」
入れ替わりにやってきた傑は、意地の悪い笑みを顔に貼り付けたまま俺の隣に腰掛けた。ソファの軋む音に負けないよう舌打ちを放つが、傑のデカい耳には届かなかったようだ。力任せにペットボトルを開けたら中身の炭酸が一気に噴き出し、ボタボタと盛大に床を濡らした。クソが。
「……いまは名前知ってるし」
「すんごい顔して走って行ったよ。きみのカノジョ」
床に垂れたジュースを靴の裏で擦って誤魔化しながら、じとりと隣を見やる。傑は「何をやらかしたんだか知らないけど」と含みのある声で付け足した。
何もおかしなことなどしていない、はずだ。仮にも付き合っている男女の間で、許されない行為ではないはず。……はずなのに、ナマエのあの下手くそな逃げ方を思い出すと、なんとも釈然としない気持ちになる。
言い返すでもなく深い溜息をついた俺を見て、傑はおかしそうに肩を揺らした。らしくないな、なんて言われなくても自分が一番わかっている。
「……あいつさあ、ちょっとキスしただけで泣くんだけど」
「はは、可愛らしいじゃないか」
「可愛いっつーか……」
なんだか、良からぬことをしているような気分にさせられる。
ナマエが“ああ”なのは、大方予想がついていたことだ。だから別に驚きはしなかったし、しばらくこっちのペースで引っ張ってやればそのうち慣れるだろうと悠長に考えてもいた。
考えが甘かった。触れる程度のキスで毎度あんなにガチガチになられては、引っ張るにも引っ張りようがない。泣き顔は泣き顔でそそるものがないとも言い切れないが、やはり結局はそんなものより後ろめたさのほうが勝ってしまう。
あるいは相手がナマエでなかったなら、多少強引に事を進めるという選択肢もあったのかもしれない。けれど。
「仕方ないだろ、あの子にとっては“憧れの五条先輩”なんだから」
「……その顔で言われるとクッソムカつく……」
「あまりがっつくと怖がられるよ」
「がっついてねーよ」
むしろ我慢してるっつーの。
「その割には、ずいぶん周到に根回ししたようだけど」
ぴたりと、ペットボトルを傾けかけていた手を止めた。
傑の言わんとすることはすぐにわかった。ナマエの入院中に手配した諸々。学校のこと、養子縁組のこと――そしてミョウジ家のこと。
「……あの家に、もう関わらせたくない」
今回の一件の詳しい顛末は、ナマエの耳には入れていない。知らなくていいと思った。たとえ知りたいとせがまれたとしても、適当にはぐらかすつもりでいた。
本人がどこまで察していたのかはわからない。けれど、すべて任せてほしいと言った俺に、ナマエはただ『はい』と笑って頷いただけだった。
養子縁組は俺の一存で決めた。単に保護者役をつけるだけならもっと楽な方法はいくらでもあったが、そうしないでわざわざ五条に連なる家を選んだのは、ひとえにそれがナマエを守るために一番手っ取り早く、確実だったからだ。
五条家の懐に入れてしまえば、外野からはもう何も言われないし、言わせない。ミョウジ家がどうなろうが、ナマエには関わりのないことだと突っぱねることもできる。
「……それがいいだろうね」
傑の呟きを聞きながら、ペットボトルの中身を一息に喉へ流し込む。エゴだ何だと眉を顰められるかと思ったから、少し驚いた。まあ咎められたところで反省も後悔もしないが。
ただただ、そばに置いておきたいのだ。できるだけこの手の届くところに。血生臭い世界に連れ戻したからには、せめてあいつの立っている場所だけは、少しでも明るくあるように。そのために、できることはすべてやっておきたいというだけだった。
「それにしても」
どこか遠くを見つめているようだった傑の横顔が再びこちらを向いて、にやりと底意地の悪い笑顔に戻る。
「意外と真面目だな、悟は」
「はあ? 何それ」
「てっきり、将来を見据えて囲い込むつもりなんだとばかり思ってた」
「……、……」
「半分図星、ってところかな」
「ノーコメント」
握り潰した空のペットボトルを傑に押し付け、ソファを立つ。あいつの赤い顔をからかいにでも行こうかと思ったが、見たらまた泣かせたくなりそうだったので大人しく自室へと足を向けた。
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