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※引き続き、夢主の親族が出てきます。

 

 

身体がひどく重かった。

遠くで誰かが私を呼んでいる声がする。返事をしたいけれど、唇からはすかすかの吐息みたいな音が漏れるだけだった。まるで泥の中に囚われているみたいに、手も足も、瞼すらぴくりとも動かない。

ここはどこなんだろう。
意識は真っ黒に塗り潰され、いま自分の目が開いているのか閉じているのかさえわからなかった。沈んでいくような、浮かび上がっていくような、不思議な心地がした。
恐ろしくはない。痛みもない。ただぽつぽつと降り注ぐ優しい声の他に、私が感じ取れるものは何もなかった。

そうしているうち、不意に指先がぽっと熱を帯びた。次に頬がじんわり温かくなって、誰かが私に触れているのだと気がついた。その温度によってようやく、自分の肌がどこもかしこもひんやりと冷えきっていることを知った。

「ナマエ」

――この声を、知っている。
耳の底をくすぐるような、深くて柔らかな低い音。ずっと聞いていたくなる、けれど名前を呼ばれるといつもどこか切なくて、胸が苦しくなる。
そっか。やっぱりこれは、夢の続きなんだ。

「……なあ。いい加減、起きろよ」

ぎゅっと、私の手を握る指に力がこもる。
命を分け与えてくれているみたいだと思った。触れ合った指先から流れ込む熱が私の身体の隅々にまで行き渡って、血を通わせ、眠った細胞をひとつずつ揺り起こしてくれる。そんな幻想を見ていた。

「もう、ひとりで頑張らなくていいよ。何も心配しなくていい。居場所なんか、いくらでも作ってやるから」

祈るような声は、あの日聞いた潮騒の音によく似ている。
ねえ、私、ちゃんと頑張れましたか。今度こそ誰かを守れましたか。あなたにもらったもの全部、ひとつも零さずにいられましたか。問い返したいのに、唇が動かない。

「だから、もう一回――」

その言葉の続きを聞きたくて、手を伸ばした。

 

 

――唐突に、ふわりと意識が浮上した。

視界は眩しいくらいの白一色で、その光に向かって差し伸べた指先がぼんやりと淡く輝いているように見えた。目を細め、緩慢に瞬きを繰り返す。見覚えのない壁も天井も、窓にかかったカーテンも、私を取り巻く何もかもが真っ白で、その隙間からほんの僅か覗いた青い空の色が、痛いほど鮮明に映った。

「……いき、てる……?」

漏れた声はからからに嗄れている。それでも確かな音となって無機質な壁に反響した。

生きてる。私、生きてるみたいだ。

身体は鉛のように重かったけれど、ベッドの上で半身を起こすことはできた。壁際のテーブルには、綺麗に畳まれた私の服と、刃の欠けた呪具、それから慎ましやかに咲く春色の花束を生けた花瓶がぽつんと置かれていた。
白いシーツに投げ出した手を恐る恐る握り、また開く。身体中あちこちを触ってみても、目立った傷はなかった。最後に首の後ろに手をやると、短く切り揃えられた髪の先がちくりと指を刺した。

(本当に、……)

信じられない思いだった。
記憶を手繰り寄せるように、ぎゅっと両手を握り合わせる。だったら――だったらあのときに見た夢は、もしかして。

それから数分と経たないうちに、私の担当医だという男性が控えめなノックの音とともにやってきた。診察を受けながら、ここが高専に所縁のある病院だということ、私は呪霊との戦闘で重傷を負ってここに運び込まれたこと、あれから一週間も眠り続けていたことなどを教えてもらった。私の他に怪我をした人がいなかったか尋ねると、みな軽傷で済んだから安心するようにと言って医師は優しい笑みを浮かべた。

『白い髪の男の子が、熱心にお見舞いに来ていましたよ』

今日も来ると言っていたのだけれど、と続いた言葉に、うまく返事ができなかった。

もうしばらく入院し、療養しながら高専の迎えを待ってはどうかという医師の勧めは、丁重に断った。傷がもう綺麗に治っていたからか、家が心配なのだという私の訴えが聞き入れられたのか、それ以上は強く引き留められることもなく、身支度を整えると私はすぐに病院を出た。

——だって、どんな顔をして会えばいいのだろう。
あのとき、もう一度会いたいと確かに強く願ったはずなのに、いまはその姿を思い浮かべるだけで胸が張り裂けそうになる。
きっと顔を見たら、声を聞いたら、堰き止めていたものが全部溢れてしまう。みっともなく泣いて縋ってしまう。これ以上の迷惑をかけて、今度こそ本当に、嫌われてしまったら? そう思うと、あのままベッドの上でじっとしていることなど、到底できそうになかった。

 

病院は実家からたった数駅の場所にあった。こんなところまで、五条先輩は毎日のようにお見舞いに来てくれていたんだろうか。どんなことを思って、眠り続ける私を見ていたんだろうか。取り留めのないことばかりを考えながら、車窓を流れる景色をぼんやりと眺めた。

あの日以来に見る家の様子は、不思議なほど以前と変わりがなかった。
瓦礫の山と化していた塀も建物も、捲れ上がっていた石畳も、何事もなかったように整然とそこにある。ただ、本殿の柱には鋭い爪痕のような傷が幾筋も残されていた。

境内は相変わらず静かで、ざくざくと玉砂利を踏みしめる足音だけがよく晴れた空に響き渡る。
探したいものがあった。もう見つからないかもしれない。もしかしたら、ばらばらに壊れてしまったかも。それでも、祈るような気持ちであちらこちらへ視線を走らせた。

そうして母家の玄関近くにさしかかったときだ。小さな白い花をひとつ、ふたつと咲かせ始めたドウダンツツジの木の根元に、きらりと何かが光るのが見えた。

「あった……!」

砂にまみれたそれを掬い上げ、手の中に収める。ざらりとした表面を指先でそっと撫でた。

「……よかった」

角が欠け、ヒビが入ってぼろぼろになった携帯電話。そこに繋がった革紐と銀のイルカの飾りは、けれど千切れることなく円を結んでいた。それを見たときにようやく、胸の奥の強張りが少しだけ解けて、緩んだ目尻に涙が滲みそうになった。

「……お前、そこで何をしている……!」

絞り出すような声がしたのは、そのときだった。
獣の唸り声にも似ていると思った。後ろを振り返ると、浅葱色の着物を纏った男がこちらへと足早に近づいてくる。一週間前、社殿の影で蹲っていた姿からは見違えるほど、荒々しい足取りだった。

「叔父様! ご無事でよかっ、」
「出て行け」

ぴたりと息が止まった。
叔父は私の前までやってくると、鋭い目つきをさらに険しくしてこちらを睨んだ。以前の無関心な眼差しとはまるで違う。強い嫌悪と、少しの恐れが滲んだ目をしていた。

「お前……お前だろう、あの化け物を呼び込んだのは……!」
「え……?」
「聞いていなかった……あんなモノ、わたしは知らなかった! お前が呼んだのだろう!」

何も言えずにいる私に、叔父は次々と言葉を浴びせかける。けれどその中身はひとつもわからなかった。化け物――あの呪霊を、私が呼び込んだ? 一体何のために?

「ち、違います、私はそんなこと」
「やはり呪術師の子供など引き取るのではなかった……お前らの、呪術師のせいでいつもわたしは……ッ」
「叔父様、待って」
「寄るな!」

伸ばした手は強い力で払い除けられる。

「お前なんか」

あのときと同じだった。この人には私の言葉なんて届かない。耳を傾けてすらもらえない。そんなのわかりきっていたのに、それでもたぶんほんの少しだけ、期待していた。

「……私、ただ、みんなを」

守りたかった。それが私のなすべきことだと信じて、だからここへ戻ってきたのだ。
写真でしか知らない人と結婚なんかしたくなかった。ひとりで戦うのだって本当は怖かった。もっと高専のみんなと一緒に過ごしたかった。五条先輩のそばに、いたかった。
わかってる。全部、自分で選んだことだ。でも、それでも、そんな風に放り出されたら。

「……私は、もう、いらないってことですか……?」

ぷつりと切れ落ちる糸のように、か細い声しか出てこなかった。
叔父は何も答えなかった。ただ、冷たい炎の色をした瞳で私を見ていた。
爪先から自分の存在が音もなく失われていくような気がした。消しゴムで掻き消されるみたいに。砂になって風に攫われていくみたいに。

もう、私の帰る場所はなくなってしまったんだ。どこにも。
ぽつりと、そんなことを考えた。

「――じゃあ、貰ってっていいよな」

よく通る声が、凛と空気を揺らした。
消えかかった私の輪郭を繋ぎ止めたのは、目の前に現れた大きな手のひらだった。すべてを包み込むようなその手が私の額に触れ、そっと後ろへ抱き寄せる。
心臓が息を吹き返したように大きく脈打った。震える喉で精一杯に息を吸うと、大好きな人の香りが胸を満たした。

「ちょーどよかった。バケモノ退治って万年人手不足でさあ。こんな雑魚でも、いないと困るんだよね」

嘘みたいだ。
ふわりと髪を撫でる指も、肩を抱く腕も、声も匂いも体温も、全部、知ってる。

「き、貴様、五条家の……!」
「あー、悪いけど挨拶はナシね。こいつ迎えに来ただけだし、二度と会うこともないだろうから」
「その娘をどうするつもりだ!」
「別に取って食いやしねーよ、アンタらと違って」

――五条先輩、だ。
声を上げることも、振り返ることもできなかった。それでもはっきりとわかる。こんなに優しく力強く私の手を取ってくれる人は、他にいなかった。

「帰るぞ、ナマエ」

夢に見たのと同じ声で、五条先輩が私を呼ぶ。涙が溢れそうだった。帰るって、どこに? 私の居場所はもうなくなってしまったのに。立ち尽くすだけの私の手を引いて、先輩が歩き始める。私の躊躇いも戸惑いも何もかも振り切るようにして。
いつもそうだ。いつだってこの人は強引で、唐突で、なのにどうしようもなく身を委ねたくなってしまう。その大きな背中に、縋りたくなってしまう。

「ま、待て! 許さんぞ、五条家と結託するなど……!」
「あ、そーだ」

白い髪がふわりと揺れた。振り向いた先輩の瞳は見たこともないくらい綺麗で、そして恐ろしく透き通っていた。

「――次、こいつに指一本でも触れてみろよ。アンタの大好きな“家”とかいうやつ、丸ごとぶっ壊してやるから」

ひゅ、と息を呑む音がした。それきり何も言わなくなった叔父の姿も、永遠のようにたくさんの時間を過ごした離れの部屋も、朱色の鳥居もどんどん遠ざかって、気づいたら私の足は長い石段の最後ひとつを降りきっていた。

「っ、五条先輩、待って」
「待たない」
「だって、どこに」

五条先輩のペースに引っ張られているせいで息が上がる。何度も足がもつれて転びそうになったけれど、私の手を握る力は緩むことがなかった。
ようやく先輩の足が止まる頃には、まるで見知らぬ場所に辿り着いていた。まだ固い蕾をいっぱいにつけた桜並木が春を待ち侘びるようにぐんと枝を伸ばし、その向こうには遠く、まばゆく光る海が見えた。

「……勝手にどっか行くなって、何回言えばわかんの」

零れ落ちた呟きの後に、五条先輩がゆっくりとこちらへ向き直る。ぎゅっと掴まれたままの手が熱かった。その体温が私のものなのか、先輩のものなのか、わからない。

「戻って来いよ」

たった一言。けれど、心臓を貫かれたように息が詰まった。

「……む、無理ですよ、私はもう」
「“何でも言うこと聞く”って言った」
「そんなの、」
「言ったよな」

まるで駄々をこねる子供みたいな口調だった。なのにその手がひどく優しく私の髪を撫でるから、心の奥底に固く押し込めたはずのものまで全部、溶け出してしまいそうになる。
見せたくない。弱いところ、醜いところ、不甲斐ないところ。触れられたくない。困らせたくない。――嫌われたく、ないのに。

「……いいよ。泣いても喚いても弱音吐いても、なんだっていいから。お前がどうしたいか、言って」

大きな両手が私の頬を包み込む。萎れた花をそっと上向かせるような、繊細な仕草だった。サングラスの向こうから、あの青い瞳がまっすぐに私を見ていた。

「お前は、俺のこと、好きなんだろ」

その言葉を聞いてしまったら、もうだめだった。
感情も、涙も、溢れ出して止まらなくなった。たった二文字、震える唇で紡いだ声は掠れ、すぐに冷たい海風に攫われてしまう。

「……もう一回、言って」

乾いた親指が眦をなぞる。それでも拭いきれない涙が、重ねた手の隙間を伝って流れ落ちていく。

「……す、き、です……」
「……もう一回」
「……っ、好き……」
「もう一回」

知らなかった。誰かに許されるということが、こんなにもあたたかくて、どうしようもなく泣いてしまうくらい、胸が潰れそうなくらい、愛しいなんて。

「……好き、好きです、大好きです、もっと、五条先輩のそばに、いたい……っ」

言い終えるのを待たずに、唇が触れ合った。あの日よりももっと確かな、でもずっとずっと優しい口づけをして、五条先輩の顔が離れていく。やわく細められた青が透明な日差しを浴びて、宝石みたいにきらきらと瞬いていた。

「――俺も、好きだよ、お前が」

これはまだ夢の続きなのかな。そうだったらもう、永遠に、醒めないでほしい。

「ナマエが好きだ」

広い胸にしがみついて、この世に産まれ落ちた日のように、私は大きな声を上げて泣いた。このまま夜が来て朝になっても、ぎゅっときつく抱きしめて離さないでほしいと、そんな馬鹿みたいなことを思った。

 

 

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